12: 鉄は熱いうちに打て
ディーアが本を読んでいる。
初めて出会ってから、彼は随分と成長した。何しろ文字すら読めない状態だった。それを考えると大きな成長だ。
「何を読んでいるんだ?」
ヴィオラッサが声を掛けると、ディーアは本の表紙を見せる。彼が読んでいるのは、最近巷で流行っている童話だった。犬を拾った少女のお話なのだが、犬がなかなか少女に懐かないというお話だ。色々試すけれど、犬は少女に冷たい。けれど寒い冬の日に、少女は犬が気になって仕方がなくて、犬を自分自身で温めてあげようとする。結局少女は風邪を引いて寝込んでしまうのだ。
「珍しいものを読んでいるな」
「リャンに読んでやろうかと思ってさ」
少し前に少年を拾ったディーア、どうやら彼はきちんと親代わりとしての責務を果たそうとしているようだ。
「それはいいな」
ヴィオラッサの答えに笑みをしてくる。嬉しいようだ。
「俺さー、あんまり誰かの為に何かやれるって本当思ってこなかったんだ」
ニコニコと笑って話し始めるディーアの言葉に耳を傾ける。彼が自分を卑下する言葉を吐いたのは聞いたことがある。前向きな言葉が今は少し増えてきたが自分から話し出すのは珍しい。
「ヴィーやジータが俺を必要としてくれたから、今の俺があるんだ」
「……俺は、お前に謝らなければと思っていたよ」
あまりにも純粋な気持ちにヴィオラッサは思わず吐き出してしまう。
「そういうのは、いらないよ。だって謝罪するよりたくさんのものをヴィーはくれたじゃない」
「……そう言ってくれるか」
「だって、何度ももう謝られている。必要ないよ」
いつの間にか立場が逆になっている。ヴィオラッサはディーアが逞しく見えた。彼は出会った当時の子どもではないのだ。もう。
「その童話の終わりを知っている?」
「うん」
寝込んだ少女はやがて目を覚ます。その隣には犬が横たわっている。
「懐かなかった犬が懐くんだよな」
「そう」
犬が少女の頬を舐めるところで、童話は終わる。
やさしいお話だ。
「その話のさ、犬が少女に懐かなかったのは、きっとそれまで嫌な目に遭っていたからじゃないかと思うんだ」
ディーアの言葉をヴィオラッサは無言で促す。
「でも少女はずっと諦めないんだ。最初はきっとうざくて、邪魔だと思っていたはずなのに、……それがいつの間にか居ないと逆に調子が狂う。きっと、そんな感じ」
それは童話の中だけのことではないのだろう。ディーアは犬の気持ちに同調しているようだ。
「……文字の読み書きが出来るってちょっと憧れてた」
「え?」
突然ディーアは話題を変えた。彼が成長したなと思っていたところだったので、ヴィオラッサは心を読まれたのかと内心焦った。だがそういうことでもなかったらしい。
ディーアはただ淡々と言葉を吐き出していく。
「誰に訊いたら教えてくれるかなんて訊けないじゃん。だからヴィーが色々突っ込んでくれて本当は助かったんだ。今更あんな年になって訊くことも出来なかった」
出会った時ディーアは十八歳だった。確かにもう大きい。けれどだからと言って完全な大人でもなかっただろう。ヴィオラッサから見れば実際まだまだ子どもに見えた。
「二十歳そこそこなんてまだまだ子どもだよ」
「そう? ……まあ、でもそうかも」
何か思うところがあるらしい。それは少しわかる気がした。ヴィオラッサも大人になればもっと何かすごいのだと漠然と思っていた。けれど年齢を重ね、実際に大人と思っていた年齢になった時、その幻想は儚く消えたのだ。思うほど大人にはなれず、だが全く子どものままでもなく。
「ねえ、なんでヴィーは俺に色々教えてくれたの?」
ディーアにまず教えたのは読み書きだ。それが可能なだけで出来ることの幅が広がる。
「なんでって、必要だと思ったからだよ」
「必要? 生きていくだけなら文字なんて重要じゃないよ。だって俺はそれまで生きてこられたんだから」
それはそうだろう。ただ生きていくことだけならそう必要ではない。会話が交わせて、少しの知識があるならば、十分だ。けれどヴィオラッサは思うのだ。
「勿体ない」
――と。
「学べることが出来るなら学んでしまえ。子どもである内にいろんなものを詰め込んでしまえ。子どもってのはな、吸収力が半端じゃないんだ。それを活かさない手はないだろう」
ディーアはきょとんとした表情でヴィオラッサを見ている。予想外の答えだったらしい。
「僕は可能ならこの世に生を受けたすべての人にせめて読み書きを教えたい。これを傲慢だっていう奴もいるな。そいつは阿呆だ。ディーア、お前は今、本を読むことが出来る。それは何故だ? 文字を知っているから読むことが出来る。そうだろう?」
思わずディーアは頷いた。それに満足そうにするヴィオラッサ。
「知識だよ。まずは読み書きというのは基礎なんだ。地を固めることで他の可能性に気付くことが出来る。その機会はすべての人が持つべきだと思っている」
ヴィオラッサ自身は親が土地持ちだったこともあり、生活にゆとりがあった。それ故に基本的な読み書きはもちろん、興味のある本を読み漁ったりした。そしてふと気づいたのだ。文字を読めない人は意外と身近にも多いということに。
知識を広げるのは読み書きがすべてではない。けれど将来の幅は広がるし、自分だけでなく他人に手を差し伸べることも出来る。心に余裕も持つことが出来る。そうヴィオラッサは思っている。
「ディーア、お前が今リャンに童話を読もうとしていることだって、広がった可能性の一つだ」
そう言ってヴィオラッサはくしゃりと顔を歪ませる。
童話を手に取ったのは深く考えてのことではなかった。ディーアはただリャンの為に何が出来るだろうかと考えていたら思い出したのだ。最初にヴィオラッサが文字を教えてくれた時、少しわかるようになったら子ども向けの絵本を持ってきたのだ。それを読めたら次は別の絵本、童話、そして段々と一般の書籍と移っていった。読めることは楽しかった。言葉を知ることは面白かった。
「それはまた武器にもなっただろう。或いは自分を守る盾だ」
ディーアを見て満足そうに笑うヴィオラッサに、ただ彼は頷いた。
そして気付いた。彼はディーアを本当に助けてくれた。知識を広げるという意味もあっただろう。けれどそれ以上にディーアは純粋な力だけではなく、言葉の力を知った。
魔法を行使する以外能がなかった少年は、いつしか言葉も重要な力として使っていた。それに気付いたのはたった今だけれど。
「ヴィー……」
呼びかければヴィオラッサはポンポンとディーアの頭を叩いた。
ふいに溢れた感謝の念は言葉にならず、かつての少年はただ目頭を押さえた。
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