08: 井戸が枯れるまでその大切さに気づかない

 逃げるしかない。

 ディーアは彼女の姿を見た瞬間全力でその場から逃げた。もう二度と会うことなどないと思っていた。いや、思いたかった。けれど彼は予想外なことにこの大陸で今最も名の知れた男になってしまっていた。これでは今でなくとも見付かるのは時間の問題であった。

 全力疾走するディーアに周囲の人は不快な表情を向けていく。しかし次の瞬間ディーアだとわかると目を丸くする。周囲からのディーア像は恐ろしい人物として認知されている。それは彼が人と関わることをあまりしないことが理由でもあった。外交面は代理としてヴィオラッサがほぼ行い、彼の傍には常に仏頂面のハジータムナクが仕えている。顔は知られていても、その本質は外まで伝わるはずがないのである。

「ヴィー!」

 さて、そのディーアであるが領主館の執務室に駆け込むなり大声で叫んだ。

「煩い」

 しかし彼を迎えたのは、無数の小刀であった。だがそれらは彼の体に辿り着く前に床に落ちていく。寸前で障壁を張ったディーアである。

「ジータ、殺す気かよ」

「いっそ死んでしまえ。ヴィオラッサに仕事を押し付けた貴様にはこれで十分だ」

「ジータ……」

 殺気のこもった護衛にディーアは肩を落とす。初めの出会いが悪かったのか、彼には嫌われてしまっている。

「で、何?」

「あ、ヴィー」

 書類から顔を上げずにヴィオラッサは訊ねた。彼が突然駆け込んでくるのも、それに対してハジータムナクが攻撃を仕掛けるのも、それは彼らにとってはいつもの日常であった。

「でも顔色悪いですよー。何か怖いものでもみたんですか」

 のほほんとキルキトが微笑する。ヴィオラッサを手伝って、各部署への伝達をしてくれているのがキルキトである。

「キトぉ、キトはやさしいなあ」

 キルキトに抱きついて泣く仕草をする。だが間に割って入ったハジータムナクがキルキトをディーアから離す。

「甘やかすな、キルキト」

「師匠は厳しすぎですよぉ」

「そうだ、そうだ」

「煩い。キルキトは私の弟子だ」

 つーんと子どものように拗ねるハジータムナクの様子にディーアは納得がいかない。だがキルキトは理由がわかるらしく、くすくすと小さな声を立てて笑っている。

「それよりディーア、何かあったんじゃないのか」

 やはり顔を上げないままでヴィオラッサが訊ねた。それにディーアは急いでいた理由を思い出す。

「そうだった! ヴィー、匿ってくれ! 最悪だ、ディクテが来た。あいつが……」

「誰だそれ」

「俺の姉だよ。姉!」

「そういえば前に聞いたな。姉がどうしたって? 来ても衛兵が通さんだろう。心配しすぎだ」

 慌てる彼にヴィオラッサは何でもないように返した。確かにこの領主館に簡単に不審者は入れない。しかしディクテはそういう次元で括れる人物ではないことを、ディーアは身を持って知っていた。そして哀しいことに、――それは現実のものとなった。

「失礼します! 只今領主の身内だと名乗る女性が来ております。どう致しましょうか」

 慌てた様子で執務室に現れた衛兵に、ディーアが声のない悲鳴を上げる。他の三人も眉を顰めている。まさか本当に来るとは思わなかった。

「ディーア様、どうしましょうか」

「お、俺に聞くのか?」

 額から汗をだらだら流した領主に衛兵はしっかり頷いた。だがディーアは落ち着かない様子でヴィオラッサに、ハジータムナクに、と視線を巡らせる。

「嫌なら断れ」

 ハジータムナクのつれない言葉にヴィオラッサも同意するように頷いた。だが、ディーアは血の気の失せた顔でふるふると顔を振った。

「何だ、いるんじゃない」

 そしてびくっと体を震わせる。

「ディーア?」

 ディーアと面差しの似た女性が強張ったディーアを目に留めた。今にも泣き出しそうな彼と違い、その女性は鋭い眼光を放っていた。その態度にヴィオラッサは何故か既視感を感じた。

「……もしかして、あんたがディクテか」

 書類から顔を上げたヴィオラッサの背後にディーアが逃げ込む。

「ディーア、何をしているの? こっちへいらっしゃい」

「い、いやだ!」

「聞き分けのない子どものようなこと言わないの。あたしを忘れた訳じゃないでしょう」

「いやだ! ヴィー、助けてくれ!」

 ディーアがヴィオラッサの小さな背中に隠れる。情けないほどに震える彼を庇い、ヴィオラッサはディクテの前に立つ。ハジータムナクもまた二人とディクテの間に立ち塞がる。キルキトは密かに衛兵を外に出し、扉を開けないように厳命した。

「なんで、なんでなんで来るんだ。もう俺には用なんてないでしょ?」

「何であんたが決めるのよ。あるわよ。随分有名になったのね。それはあの力のおかげでしょう。【魔法】と言うらしいわね。誇らしいわよ、あたしは」

 ディーアと同じ顔で笑う、それは彼が持たない表情だった。

「大陸を征服するんだってね。もちろん、あたしにくれるんでしょう」

 ヴィオラッサが不快に顔を歪めた。

「せ、征服じゃない。とと、統一するんだ」

「同じじゃないの。あたしのためにしてくれたんでしょう。あんたがいなくなって、あたし初めて気がついたの。寂しいって。あんたがいないと駄目なの。あたしの大事な子、ディーア。いい子だから戻ってきなさい」

 笑うディクテに全身で拒絶を示すディーアはその場で意識を手放したくなった。だがそれでは今までと変わらない。踏みとどまったディーアを見たヴィオラッサは、ディクテを睨みつける。

「すまないが、こいつはあんたのものじゃない。しいて言えばガルセラのものだ」

「はあ? あたしの弟よ。姉のあたしのものに決まってるじゃない。あたしの大事な、可愛い玩具よ」

「……ヴィオラッサ」

 笑うディクテを前にハジータムナクは深い皺を眉間に刻んだ。問うような彼の呼びかけにヴィオラッサは頷く。

「いいよ。ガルセラの地を踏ませる訳にはいかない」

「ジータ……」

 縮こまるディーアを尻目に、ハジータムナクは得意の得物を手に取った。彼は普段ディーアを好ましく思っていない。それでも許しがたいことがある。

「あたし、歯向かわれることが一番嫌いなの」

「………」

 小さくなって震えるディーア以外の三人の目の色が変わった。


 その日、領主館の執務室には誰も入ることが出来なかった。


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