05:誰の為にもならないような風は吹かない

 キルキトには不思議なことがある。

「え? ジータは別に俺に従ってないよ。あれはヴィーに従っているんだ」

 師匠であるハジータムナクは無愛想で、そのくせ頑固だ。自分がこうと決めれば変えることはあまりない。その代わりに一度懐けば盲信するように慕う。ヴィオラッサのことは助けてもらった時から既に心酔しかかっていたので、理解できる。けれどキルキトには、ディーアに従う師が不思議で仕方なかった。

「だから寧ろ俺いつも怒られてるんだけど」

「いや、怒りながらも従ってるじゃん」

 否定をするディーアにやはりキルキトは思うのだ。師匠は本当に嫌なら恩義ある人にでも断りを入れることが出来る人だ。初めは確かにヴィオラッサのお願いだったのだろう。けれど、途中から、おそらく何処かから違ってきたはずだ。

 それをキルキトは知りたいと思う。

 弟子としてだけでなく、従弟としても興味がある。あの能面のような師匠が何に心を動かされたのかを知りたい。


 ハジータムナクにとってディーアは出会った当初、苛立たしい相手でしかなかった。

 それが変わったのは、彼の過去を知ったからだ。同情したわけではない。そんなもの意味がないと知っている。ハジータムナクはただ、共感したのだ。

 彼は幼い頃に家族と別れている。その一言だけならハジータムナクも同じだった。そうなった境遇は全く異なる。それでも一人で生きていかなくては、と思った心情だけは共感した。

 全面的に従うつもりは毛頭なかったが、ディーアの傍に居て、彼の努力をみていれば、その意欲は好ましく思うしかなかった。ハジータムナクは両親が亡き後にキルキトの家族に引き取られていた。だから実質一人ではない。今もキルキトが共に居る。ただ、家族はもういないのだと心は一人を強く意識していた。

 ハジータムナクは自身の変化していく心を悪いものとは思わなかった。それはいわゆる勘でしかなかったが、そう思うことに意味があると思った。

 そして実際、彼は現在やはり意味はあったと思っている。

 ガルセラは彼にとって第二の故郷となっている。他街とのせめぎ合いは彼としても頭の痛いところであった。それが解決するのなら手を貸すのも意味のあることだ。

「けれど師匠、それだけではないでしょう」

 キルキトはハジータムナクに問いかける。

 彼はハジータムナクの弟子であるが、その前に従弟なのである。普通に考えればディーアに従うなどありえない。それでも実際キルキトの目から見たハジータムナクは、ディーアに傅いているように見える。それは態度や言葉遣いからでは一見してわかりにくい。偉そうだし、とても偉そうだし、偉そうだ。偉そうなのではなく、ただそういう態度しか出来ないということをキルキトは知っている。

「お前は私を買い被っているのではないか。何もないよ。それだけの価値もない」

 興味がないとでもいうように顔を背ける。

「いいえ、そうではないでしょう」

 キルキトには何かのきっかけがあったという確信がある。そうでなければ勘という言葉だって使う人でもないのだ。

「ねえ、師匠」

 じっと見ていると、ハジータムナクは居心地が悪そうに目を閉じる。視線がそらされないことを理解したのか、彼は仕方ないとでもいうように息を吐いた。

「あいつは……逃げるためにガルセラに来ていたはずなんだ」

 ディーアは初めディクテから逃げるためにガルセラを訪れた。それは本人がそう言っていたのだ。間違いはないだろう。

 けれど領主になって、街にとどまり、ヴィオラッサに色々と習って、いつしかディーアの目的は変わっていった。本人がいつから変化したのか意識しているかは知らないが、ハジータムナクは気付いた。

「執務室で簡単な仕事を任されていた時がある」

 あの時、ハジータムナクはまだ自分の職分に不服で、ディーアを好ましいとは思っていなかった。けれど彼がきちんと勉強や仕事に取り組む時の態度は真面目であり、ずっと見ているとそれは容易に知ることが出来た。

 ディーアはその日も仕事をしていた。ヴィオラッサは他の用事で出てしまい、ハジータムナクだけが同じ部屋に残された。その時にディーアは言ったのだ。言った、というよりかは呟いたという方が近いだろう。

「呟いた?」

「そうだ。何でもない一言だよ」

 キルキトはその言葉を聞きたがったがハジータムナクは口を開かなかった。その代わりに懐かしむような顔で微笑した。珍しく。

「言ってもお前にはきっと意味がわからないだろう。ただ私はその呟きで少しあいつを見直したのだ」

「教えてはくれないんですか」

「教えるほどではないんだよ」

 問答を何度か行ったが、結局ハジータムナクは口を割らず、キルキトは諦めた。しかし、自分の意見は正しかったと彼は納得したのだった。


 それから随分と時間が経って、ディーアが死地へ逝ってしまった。

 キルキトは哀しみを抑えられずに泣き腫らした。泣き疲れるなんて、子どものような真似をしてしまった。その夜はハジータムナクと久方ぶりに同じ部屋で眠った。きっと心配だったのだろう。そう思って、夜中に目を覚ましたキルキトは少し恥ずかしくなった。

 なんでもない顔で起きて、朝はすぐに仕事を始めよう。そう思いながら、布団に再度潜り込もうとした。が、隣で眠っているはずの師匠からは寝息が聞こえてこなかった。

「……師匠?」

 不思議に思って声をかければ、息をのむ音がした。

「いつか、お前は聞いたな」

「はい? 何をです?」

「私がディーアに従おうと思った理由だ」

 それはキルキトにも確かに記憶にあった。古い話だが、印象深く覚えている。

「覚えています」

 しかしその時キルキトは明確には教えてもらえなかった。

「あいつは言ったんだ。『ああ、楽しいな』と」

「た……のしい? それだけ、ですか?」

 それの何が師の琴線に触れたのかわからない。聞いてから、昔教えてくれなかった理由も理解した。それは本当に他愛のない呟きだ。

「そうだ。だから言っただろう。ただ、今まで楽しいことなんてなかった、と言っていたのに、その時楽しいと言ったんだ。だから、変わろうとしているのだと私は理解した」

「ああ……」

 尽きたと思っていた涙が再び零れた。何故だかはわからない。でも、胸が熱くなって、ただただ目元を擦った。

「枯れるまで泣けばいい。それが供養になるだろう」

 薄闇の中にキルキトの嗚咽が響いていた。

闇の中に浮かぶハジータムナクの声が心なしか、滲んでいたことをキルキトは記憶した。


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