第5話
ここは都心まで電車で一時間くらいかかる東京湾に面した小さな街。
伸一の生まれ育った土地であり、当然知り合いも多い。
妙なうわさをたてられてもと、彼は、いったん、彼女の手をふり払うようにして、さっさと駅に向かいかけた。
だが、花屋の女主人のことが気になる。
自分の不注意で自転車が転倒し、彼女がけがをしそうになったのである。
彼がふり返ると、彼女は、両手を前かけのところでもじもじさせ、表情を暗くしていた。
彼は急いでかけもどり、
「よろしかったら、ちょっとの間、おじゃましますから」
と告げた。
彼女はほっとした表情になり、
「いつも御ひいきにしていただいているの
ですから、たまにはお茶でも飲んで行ってく
ださい」
と言った。
開店時刻には、まだ間があるようで、ひとりいる店員は不在だった。
御主人はどちらにと、彼が尋ねると、彼女は、
「うちの人は市場に行きましたが、どうしたことか、お昼すぎにならないと帰って来ませんしね、お気づかいは無用です」
意味ありげな言い方に、はあ、そうなんですかと、彼はため息をつくように言うと、岩田夫人のあとについて店に入った。
彼女が店の奥に入り、お茶の用意をしている間、彼は差しだされた丸椅子に腰かけ、次第に燃えさかって来るストーブの炎に向かって両手をかざした。
彼女に対して、俺は何らかの好意を持っている。それは、会社に時折持って行く花束を作ってもらうだけの付き合いだけから生じるにしては、強いように思われた。
以心伝心である。
それにしても、彼女がワン切りの主とは考えにくい。
住所はおろか電話番号も教えていないのだった。
駅東地域が、新興住宅地として発展したのは、ここ十年そこそこ。
そこにどこからかやって来て、彼女らは店を構えた。
駅構内のテナントに入っているチェーン店と競い合うのは並大抵の努力ではないはずだったが、店先には常に季節の花々をならべ、客足もそこそこ、めったに途絶えることがなかった。
しばらく経ってから、彼女は小さなテーブルを持って来、そこでひきたてのコーヒーを作りはじめた。
昔ながらのやり方である。
アルコールランプの芯に、マッチで火がつけられた時、彼は学生時代を思い出していた。
ストーブにかけてあったやかんの口から、湯気が上がりはじめた頃、コーヒーの香りが店内に満ちた。
「さあ、どうぞ。召し上がってください」
彼は勧められたコーヒーを一口すすり、
「ほんと、おいしいです。ようやくぱっちり目が覚めました」
と言った。
「まあ、それは良かった。ゆうべはよく眠れなかったのかしら。いい奥さまがおいでになるのでしょうに」
「そ、そんなわけではないのですが、いろいろとありまして」
女性は勘が鋭い。
彼女に、心の内を見透かされそうな気がして、彼はどぎまぎした。
店先で、キ―ッと自転車が停まる音がしたかと思うと、女主人より一回り若い女性が、玄関先の硝子戸に映った。
パート店員らしい。
「それじゃ、わたしはこれで」
彼は、ごちそうさまでしたと言って立ち上がり、店内にある花々を眺めはじめた。
「おはようございます」
戸が開くと同時に、のびやかな声が響いた。
「ちょっとお待ちください、今、お花を見つくろって差し上げますから」
女主人はそう言い終えてから、今、来たばかりの若い女性を呼んだ。
何やら彼女に耳打ちすると、
「はい、奥さま。わかりました」
と、彼女は答え、テーブルやコーヒーいれの道具をしまうと、店の隅にあった箒を持ちだし、外に出た。
岩田夫人の手の中で、春らしい花束がみるみるうちにでき上がって行く。
「これでいかがしら。お気に召すでしょうかしら」
岩田夫人はにこっと笑い、そっと伸一の目を見た。
彼はうなずき、財布を取り出し、代金を支払おうとすると、
「今日はいいです。わたしの気持ちです」
「そ、そんなわけにはいきません。どうぞ取っといてください」
「いつも買っていただいていますし、会社の方にもよろしくお伝えください」
花束を手渡される時、彼の手に、彼女の右手が触れた。
あっと思って、伸一が彼女の顔を見たとたん、彼女はクスッと笑い、彼の手の甲を軽くつねった。
触れられたのは、確か、これで二度目だなと彼は思った。
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