第4話

 伸一は、週刊誌を二、三冊、ぱらぱらとページをめくり、拾い読みしてから、コンビニを出た。

 ありがとうございました。またお越しくださいませ、という若い男の声が、彼をいらいらさせた。

 いらいらが大きすぎる。

 その原因を考えてみるが、昨夜以来妻の史恵と電話の件でごたごたしたくらいしかない。

 そうはいっても、リンと電話が鳴っただけで、水面に広がって行く波紋のように、夫婦の間に大きく亀裂が入ってしまうのが、なんとも歯がゆい。

 会社に勤めて、三十年近い。

 彼はお得意さまやいろんな人たちとの付き合いの中でさまざまな経験を積んで来た。

 人間というのは、ちょっとしたことで、信頼関係が崩れてしまうのに気づいた。

 夫婦といえども、微妙な感情の行き違いに気をつけなくてはならないらしい。

 いや、関係が深いからこそ、相手のことが細かくわかっているがゆえに、付き合いが難しいのだろう。

 彼の脳裏に降りつもっていた、過ぎ去りし日のさまざまな思い出の断片が、ふわりとわき上がって来ては、彼を悩ませた。

 ふいに、熟年離婚なんてのが流行っているからな、という言葉がわいて来て、彼はぎょっとした。

 彼は歩道にたたずみ、通りの向こうにある岩田生花店をぼんやり眺めた。

 開店時刻まで、時間がある。

 車がそれほど通らないのを幸いに、彼は道を横切ろうとして、一歩踏み出した。

 横断歩道を渡っているのではない。

 走行している車と車の間にできた空間をねらった。

 もう少しで渡りきると思い、ホッとした瞬間だった。

 キキッとブレーキの音がして、彼のすぐそばで自転車が倒れた。

 驚いて首をまわすと、自分と同年輩くらいの女が転がっている。

 すわりこんだまま、しきりに腰のあたりをさすった。

 スカートの裾が乱れている。

 彼は、思わず、目をそむけた。

 「だっ、大丈夫ですか」

 と、大声をだした。

 ハンドルを両手でつかみ、自転車を起こし、ガチャンとスタンドを固定した。

 散らかった花束をふたつ、きちんと前かごにもどした。

 彼女を助け起こそうとして、右手を差しだしたが、はねつけられた。

 「まったく、あなたってひどい人ね。車道を渡って来るんですもの。わたし、びっくりして」

 ふたりは、まだ車道の端にいる。

 「いやほんとにすみません。とにかく、お話はこちらで」

 伸一は歩道を指さした。

 岩田生花店は目の前である。

 「あら、あなた、ひょっとして、いつもお花を買って下さる男の方じゃありませんか」

 「ええ、まあ、そうですが。あっ、気がつかないですみませんでした。確か、この店の奥さまでしたね」

 「はい」

 「どこもおけがはありませんか。申し訳なかったですね」

 伸一は軽くかぶりを振った。

 「いえ、わたしこそ。もっと前をよく見て、運転していれば良かったですわ」

 ちょうど、彼らのわきを、大型貨物トラックが通りすぎて行く。

 突然の強い風が、自転車の前かごの中の水仙の黄色い花びらを、ぶるぶると震わせた。

 「これから御出勤なんでしょ」

 「ええ」

 「いつもより、ちょっと、お早いみたいですし。良かったらお店に立ち寄って行かれませんか。温かい飲み物でもさしあげますわ」

 伸一はためらった。

 常連客とはいえ、おそらく、店内は、彼女ひとりだろう。

 おいそれとは入りこめない。

 彼女は、辺りをうかがうように、ちょっと小首を傾げたが、

 「さあ、ご遠慮なく」

 と、小声で言うと、黒いアタッシュケースをつかんでいた彼の右手を、彼女は左手でそっと触れようとした。  

 

 

 

  

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