第3話

 その夜、伸一は書斎に布団を持ち込んで眠ることにした。

 畳三畳分くらいしかない部屋である。

 家を立てる時に、史恵に頼みこんで、むりやり作ってもらった。

 本棚や机が占領している面積を差し引けば、からだを横たえる部分は、ごくわずか。

 散らかっている本や週刊誌のたぐいを、机の上にのせ、ようやく、ふとんを敷くことができた。

 勢いよく、頭を枕の上にのせようとしたら、どうしたはずみか机の足にぶつけてしまった。

 ガツンという音が、遠くまで聞こえたのだろうか。

 「ばかね。なんでこんな狭い場所に寝るの」

 史恵がドアをあけ、クスッと笑った。

 意外な展開に、伸一は面くらったが、「そんなこと言ったって、今夜はいっしょには寝られないだろ」

 と、顔をしかめた。

 「そんなことないんだけど。さっきのこと、まだ怒ってんだ。しんちゃんって、子供みたいね」

 何をっと声をあげ、伸一はふとんの上で起き上がり、開いていたドアを閉めようとした。

 史恵は、いったん抵抗したが、途中であきらめた。

 「まあ、気が済むまでそこにいるといいわ。自分の胸に手を当てて、浮気の相手の顔でも思い出してるといいわっ」

 「ばかやろう。そんなの、いないったら」

 彼は枕をひっつかむと、ドアに投げつけた。

 史恵が、伸一のことを信じないのには、ひとつ理由があった。

 十年ほど前に、新採用の女性社員にあまりにも親切に対応したために、車内で噂になった。

 彼としては、当然のことだと思ったが、どこにでも、雀のごとく、ちゅんちゅん、おしゃべりする女たちがいるものである。

 それが、どうしたことか、史恵の耳に入ったから、大変だった。

 案の定、彼は、その晩、あまりよく眠れなかった。

 夢の中まで、いろんな女の顔が現われては、彼を責めさいなんだ。

 あくる日、目覚めたのは、まだ暗いうちであった。

 時計を見ると、午前五時を少しまわった時刻である。

 女房の顔を見るのがいやなので、とにかく早く家を出たい。

 カッターシャツを、もう一日身につけていることになるのがいやだが、客からはそれほど汚れが見えない。

 営業マンとしての誇りを、今日だけ忘れてしまえばいいことだった。

 隣の寝室のドアは、閉まったまま。

 彼がドアに耳を寄せても、コトッとも音がしない。

 史恵は、まだ夢の中らしい。

 伸一は足音をしのばせ、階段をおりて行き、玄関の三和土に脱ぎっぱなしにしてあった革靴を左手でつかむと、靴下のまま、カチャリとうち鍵を開けた。

 自分のからだが抜けられる程度まで、ゆっくり戸を開けた。

 早朝のさわやかな空気が、伸一の肺に飛びこんで来たとき、ようやく目が覚めた気分になった。

 通い慣れた私鉄の駅までの足取りは、いつもより軽かった。

 駅まであと数分というところで、彼は歩みをとめた。

 信号のある十字路を左に曲がれば、新築された駅舎が見える。

 列車の出発まで、一時間くらいの余裕があった。

 最寄りのコンビニの喫茶コーナーで、ドーナッツを二切れとホットコーヒーを頼んだ。

 通りを歩く人は、まだ少ない。

 コーヒーをすすりながら、辺りに視線をさまよわせていると、通りの向かいにある岩田生花店の看板が目に入った。

 伸一は、改めて、自分の習慣を思い出した。

 この店で、花を買い求め、会社のロビーにいる受付の女の子に届けていたのである。

 最初は、フロントの花瓶に生けてもらえればいいと思っただけだったが、そのうち、彼の胸の奥に、別の想いがわいて来て、彼女の

顔をまともに見られなくなってしまった。

 

 

 

 

 

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