第2話
史恵がいらいらしている理由は、ワン切りの件だけではない。
ひょっとすると、夫がリストラの憂き目にあうかもしれないのである。
五十一歳といえば、働き盛り。
ふたりいた娘を、どうにか嫁がせ、やっと親としての責任を果たしたものの、おかげで、それまでのたくわえが底をついてしまっていた。
「いいわね、男の人って。食べるだけ食べたら、こうやって休めるんですもの」
畳の上にごろっと横たわっている伸一は、彼女が何を言っても、涼しい顔で、テレビの画像を眺めている。
しかし、彼女が、伸一のからだをまたぎ、天井からぶら下がっている電灯のひもを、もったいないから消すわね、と引っぱった時、彼の顔色が変わった。
「なにもまたぐことねえだろ。仮にもこの家の主人だぜ。それに、暗くしちゃ目に悪いの知ってるだろに」
史恵は、伸一の反撃を予想できなかったのか、勢いがそがれたようになった。
彼が、こんなに乱暴な口調で話すことは、めったにない。
だが、史恵は負けてはいなかった。
「まったく、声が大きいんだから。そんな元気があるんだったら、会社の成績、もっとアップすれば。今に誰かさんみたいにやめさせられちゃうから。そうなったらわたし知らないから」
「あああ、こんなに言われるんだったら、もっと遅く帰って来るんだった。風呂でも入って、さっぱりするかな」
「ああ、どうぞどうぞ。バスタブは洗っておきましたから、あとはご自分でなさってくださいませ」
彼女はわざとていねいな口調でいう。
伸一は、かっとしそうになる自分を、寸でのところで抑えた。
このまま、言い合っていると、最終的には、彼自身が損することを知っていた。
彼女が、一ヶ月も石のように黙りこむことが、今までに一度ならずあった。
食事は作ってくれるものの、朝夕は、いつもひとりでとった。
史恵は、伸一よりふたつ若い。
これまでずっと専業主婦でいた。
衣料メーカーに勤める彼のサラリーで、十分に食べて行けたからである。
だが、時代は変わった。
韓国や台湾の追い上げに、会社は苦境に陥っていた。
浴室わきの脱衣所。
伸一は、身につけているものを、乱暴に脱ぎすて、洗濯機の中に放りこんでから、空っぽのバスタブの中にすわりこんだ。
太陽の熱で温めれられているはずと思い、蛇口をひねった。
だが、湯は次第にぬるくなり、ついには冷たくなってしまう。
史恵が、ボイラーの栓を閉め忘れたらしい。
くそっ、いまいましいと思うが、ここで怒鳴るわけにはいかない。
彼は立ち上がり、バスタブのふちにすわると、腕を組んだ。
「それにしても、奇妙だな。いったい、誰がワン切りをしてくる・・・・・・?誰にしても、そんな必要はないわけなんだが」
と、震える唇でつぶやき、彼の記憶の中にいる女の顔を、ひとりひとり思い浮かべた。
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