ワンギリの恋

菜美史郎

第1話

 リンと、ただ一度ベルを鳴らしただけで、玄関の上がり口にある電話は、押し黙ってしまった。

 「あら、また、ワン切りだわ。まったくこんな時間に。いったい、誰なんでしょうね」

 平日の午後九時。

 ふだんより遅い夕食をとり終え、駒場史恵が、汚れた皿を洗っている最中だった。彼女の表情に、不安の色が濃くなる。

 食卓の向こうにすわっている夫の伸一を、ちらりと見やったが、彼の顔が見えない。スポーツ紙をひろげ、両手で持っている。

 「ねえ、あなた。心当たりない?わたし、とっても落ち着かないの」

 「なんのことだい」

 「何のことって。今のワン切り、聞けなかったんだ」

 「ああ。聞こえなかった。近ごろ、耳が遠

くなってしまってね」

 「あら、そうなんだ」

 史恵は、伸一のそばまで歩いて来て、右手で新聞紙を取りあげようとした。

 「ちょっとやめてくれよ。せっかくの楽しみなんだから」

 彼は、仕方なさげに、新聞を折りたたんだ。

 「じめじめした、なめくじみたいな人なんでしょね。ワン切りなんかする人って」

 史恵は、また、洗い場にもどり、皿をガチャガチャ鳴らしはじめた。

 伸一は、また、新聞紙をひろげたが、彼女が興奮しはじめたのが、気になってしょうがない。

 「この俺が、誰かにワン切りされるような人間に見えるか。品行方正のうえに、酒も飲めないんだぜ。バーなんかにも、ほとんど行かないし」

 と、正攻法でせめた。

 「だったら、どうしてよ。なんで何度もリン、リンだけなのよっ」

 史恵は包丁をとりだし、顔を紅潮させて、まな板の上をたたきだした。

 「俺、ほんとに関係ございませんから」

 伸一はそう言ってから、すばやく立ち上がり、ほの暗い廊下に出た。

 気分直しに、お気に入りのミステリー番組でも見ようと、茶の間に向かった。

 「あれれ、逃げるんだ。あんた、まさか相手が誰だか知っていて、そうやって知らんふりしてるんじゃないでしょうね」

 廊下まで出て来て、叫んでいるのだろう。

 史恵の声が、包丁の鋭い切っ先のように、彼の背中に突き刺さった。

  

 

 

 

 

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る