第3話【別離】
「しまったな……あの子だったなんて……」
焼け落ち始めている家を遠くに見ながら女が呟いていた。
周りより高い位置に居るせいか、強風が長い黒髪を棚引かせている。
「あっさり退くからおかしいとは思ったけど……消防だけじゃなく警察も……連中の【
そう言いながらも顔には微笑。
「ま、いいんだけど。しかし、この服どうしようかしら? こんな格好じゃ街も歩けやしないじゃない」
穴だらけ、血だらけのシャツを引っ張りながら、そこでようやく表情が変わる。女にとってはこちらの方がよほど深刻な問題らしい。
「ほんと、『教会』のヤツらってデリカシーの欠片もないのよね」
誰に対しての不満なのか。前の出来事を見れば当然先程の神父を指しているのだろうが、不平の内容がずれすぎている。射殺されかけたのだ。いや、確かに死んでいるはずだった。最初の一発は、間違いなく女の額を貫いたのだから。
とん、と女が軽く地を……足場を蹴った。五階建てのマンションの屋上からそのまま自由落下。飛び降り自殺と何ら変わらぬ行為も、女にとってはどうという事もない行為。数メートルの高さからアスファルトへ音もなく着地すると、何事も無かったように悠々と歩き始める。
†††††
カツカツと硬質的な音を響かせながら、ほとんど白一色の廊下を歩く一人の男。
名を
彼が担当になった放火事件の被害者がこの先の病室に入院しているからだ。
看護師達からはすれ違う度に会釈を受ける。足繁く、被害者の元へ通っている証拠。
個室の前に立ち、トントントンっとテンポよく三回ノック。そのまま部屋の主の返事も待たずに扉をスライドさせた。
「入るぜ」
ぶっきらぼうな声に、ベッドの上から抗議の声が聞こえた。
「まだ返事してません」
「お、起きてたか。カレンちゃん」
「どこも悪くないのにいつまでも寝てませんよ」
ぼやくような物言いに哲は肩をすくめて応える。
「そうかもしれねーが、だからって無理して出て行くこともないさ。あんな目に遭ったんだ。身体がどこも悪くなくたって、一日中昼寝する権利もあろうってもんさ」
敢えて深刻な物言いはしない。
今は心身ともにゆっくり休ませてやるべきだと、そう考えるからだ。火事から一週間が経過しているが、哲に言わせればたったの一週間だ。毎日のように顔を出しては、世間話に興じるだけ。火事についてを聞く気は無かったし、カレンを疑うつもりもなかった。後者は、刑事としての感である。
「それよりも、どうだ、ケーキ食わねーか? きこりのケーキ買ってきたんだ。美味いぞ」
そう言いながらカレンの前に置かれた可愛らしい紙箱と哲の顔をしばし見比べ、
「列んだんですか?」
「おう、列んだな」
その言葉に吹き出した。
きこりは駅前にある人気のケーキ屋だ。女性ばかりの行列に一人この男が列んでいたと思うと、可笑しくてたまらなかった。
「笑いすぎだ」
カレンの態度を諫めながらも、不快そうではない苦笑を浮かべている。
(美夏のやつにもこんな時期があったな)
若い娘を見るとついつい自分の娘と姿を重ねてしまう。哲自身も悪い癖だとは思っているのだが、気が付けばそうしてしまう。父親という生き物の習性だ。
「イチゴのショートとチョコ、どっちがいい?」
「どっちって言われても……お皿もフォークも無いですよ?」
「あ」
哲の動きが硬直した。そこまで考えが回らなかったらしい。
そんな態度に、カレンも再び笑う。
この男の訪問に少なからず救われていた。
「いけねーな、男やもめも長いってのにそこまで気が回らなかった。ちっと売店行ってくるわ。ついでに飲み物買ってくるかな。コーヒーでいいか?」
「じゃあ、カフェオレ」
「はいよ」
最初は遠慮がちだった少女の返答に哲は満足げに頷き部屋を後にした。
カレンにしてみれば何故こんなにも良くしてくれるのかと思うのだが、哲は頑なにカレンへの態度を変えようのはしない。
体格のいい哲は長身で細身だった父とは似ても似つかないはずなのだが、なんとなく似ている気がする。そんな事を考えると涙が込み上げてきた。
一度堰を切った涙は止まることを知らず、次から次と溢れだしてくる。
全て、失ってしまった。
独りになってしまった。
そんな想いがカレンを支配していく。
唯一の肉親であった母親までもを火災で失い、またしても自分だけがのうのうと生き延びてしまった。
深い絶望。
どれだけ平静を装っても、常に虚無感が隣にあった。
イキナサイ。
母の最期の言葉が耳朶にこびりついて離れない。
優しい顔だった。自分を化け物と罵り、怨嗟をぶつけていた母ではなく、優しかった昔の母さんだった。
(お母さん……)
母の死がカレンに重くのしかかる。
もう、カレンの日常が帰ってくることはないのだ。
自分が死ねば良かったと、幾度となく思った。何故、自分だけが無傷なのかと。またしても、カレンは無事だった。擦過傷の類は幾つかあったが火傷は一切無く、まるでそこだけが空白地帯のようにカレンの周りだけが焼けることが無かった。
母の言ったとおり、自分は化け物なのだろう。そんな気がしてならない。
考えれば考えるだけ深みにはまる負の
†††††
数十分。病室に回診の医師が来るまでカレンは泣き続けた。
情緒が不安定になっているのは自覚していた。哲の見舞いがなければ、もっと酷い有り様だったかもしれない。
「大丈夫ですか?」
看護婦が脈拍をとりながら、医師がいつものように問いかける。泣いているところを見られたのも一度二度ではない。
「はい……もう大丈夫です」
落ち着きは取り戻していてもカレンの声に力はない。
「無理はだめですよ?」
看護婦がカレンの顔を覗き込みながら優しく笑った。
「はい、ありがとうございます」
「今日は姫野さんに会って頂きたい方がおみえなんですが……日を改めて頂きましょうか?」
「いえ、本当にもう大丈夫ですから」
カレンの言葉を聞きながら様子を窺っていた医師も大丈夫と判断したのか、ようやく病室の外へ入室を促す。
入ってきたのは、一言で言えば老紳士だ。パリッとスーツを着こなしピンと背筋を伸ばして入室すると、胸に手を当ててゆっくりと一礼をする。まだ中学生のカレンにもそうとわかる美しい所作だった。
「こちらはウチの病院と
家族を失ったカレンには頼るべき親族がいなかった。いつかは突きつけられる筈だった言葉を実際に言われると、やはり天涯孤独という現実が心に重くのしかかってくる。
「先生、そいつは今言うべき話じゃねーだろう」
不意に男の声がした。
病室の入り口に目をやれば、レジ袋を手に下げた哲の姿があった。
「今のお嬢ちゃんにそれを考えろってのはいくらなんでも酷ってもんだ」
言いながらずかずかと病室に入ってくる哲に困惑したように、
「しかしだね刑事さん、時間は有限なんだよ。彼女の将来の為にも早く……」
「あぁ?!」
哲は言い掛けた医師をドスの利いた声で睨み付けていた。
「んなこと言ってんじゃねーんだよ。お嬢ちゃんがナイーヴに成ってるタイミングで切り出したって冷静な判断は下せやしねぇと、そう言ってるんだよ。こりゃお嬢ちゃんの将来を決める大事な選択だ。だからこそ余計な情報は全部排除してじっくり決める必要がある。そうだろ?」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます