第2話【怪物】
放課後。
一日を何とか終え、カレンは帰路に着いていた。バスケ部の悠那は部活の為、帰宅部であるカレンは一人で帰ることが多かった。
カレンにとっては帰る、という当たり前の事が一日で一番気の重くなる行為だ。
取り分け買うものがあるわけでもなく本屋に寄って立ち読みをしたり、コンビニで時間を潰したり。母との関係性と、母子家庭であるという事情から大した額の小遣いは持たされていないので、出来ることなど限られていた。
友人は少ない。自ら深い付き合いをしないように避けている節があるカレンにとって、悠那の存在の方が特異だ。
(今日はどうしようかな……)
真っ直ぐに家に帰るという選択肢は無い。
日によって早遅の差はあるが、母親は仕事で殆ど家にいない。避けているのは確執のある母親ではなく、『家』という空間そのものだ。自分が居たらまた火事が起こるかもしれないという不安。それが火災そのものに起因しているのか、それとも母親の言葉によって引き起こされたのかは分からないが、火災に始まる一連の事件が自宅恐怖症とも言うべき
結局、本屋で時間を潰して日没してから家に向かってとぼとぼと歩いていると、昨日の公園に差し掛かった。
(幽霊、か)
立ち止まり、ぼんやりと公園の方を眺めながら今朝の話を思い出す。
(綺麗な人だったな。本当にあの
まぁ、だから何って話でも無いのだが。
そんな取り留めのないことを考えていると、突然後ろから声がかけられた。
「またこんな時間に彷徨いてるの?」
透き通るような声にカレンが振り返ると、昨日の女が呆れたように髪を掻き上げていた。その様は妙に絵になっている。
「あ、昨日の……」
「何? そんなに驚いて。幽霊にでも会ったみたい」
微笑。
「昨日、病院行ったんですか?」
自然に口を吐いた言葉だった。
確かに考えていた事ではあるのだが、わざわざ口に出してしまった理由が自分でもよく分からなかった。
「えぇ。お陰ですぐに見つかったわ。ありがとう」
返ってきたのは想像とほぼ変わらぬ答え。
「心配してくれてたの?」
「いや、そういうんじゃ……」
『病院への野暮用』が何か気にならないでは無かったが、どこから見ても健康そうな彼女を心配する必要なんて無いのは分かりきったことだ。
「そ。ならいいんだけど。
今日はもう月が出てるわ。家にいないと、この辺出るから本当に危ないわよ」
出ると言われて一瞬ドキリ。考えていることでも読まれたかと思いカレンは焦った。
そんなことある筈ないと思いながら、確認せずにはいられない。
「出るって……幽霊……?」
カレンの言葉にクスリと小さく笑う。
「そうだったら私も楽なんだけどね。そんな可愛らしいものじゃないわ」
「じゃあ……」
「
意外な答え。
「こわーい人喰いの化け物が出るの」
「何……どういう事……」
何気なく話しているようにしか見えないのに、カレンの身体は微かに震えていた。怖い。目の前の女が急に恐ろしい何かに見えた気がした。
「それは貴女の事でしょう?」
聞こえてきたのは男の声だった。
「失礼ね。私は人間を食べたりしないわよ」
「黙りなさい。不浄なる者」
柔らかな口調と裏腹に、剥き出しの敵意を隠そうともしない声の主は、公園の方から姿を現しゆっくりと近づいてくる。
眼鏡を掛けた白い
「お嬢さん、気をつけなさい。それは禍々しい闇の眷属です」
「フッ……話にならないわね」
失笑とともに肩を竦める女。男は二人に割って入る位置まで前に出ていた。
「行きなさい。この女の相手は私がします」
背中越しに男が促す。
「笑わせないで。三下に用はないわ」
女が手首を振って「しっしっ」とまるで犬でも追い返すような仕草を見せたその刹那。
パンッ!パンッ!
と乾いた音が空を揺らした。
カレンは悲鳴と共に耳を塞ぐ。
思わず閉じていた瞼を恐る恐る開くと、「ひっ」と今度は声にならない悲鳴が上がった。
「痛いじゃない。それに服が汚れちゃったわ」
銃声とともに発生した惨劇。その光景はカレンの想像を絶していた。
額から血を流しながら、平然と笑みを浮かべる女。自らの血で濡れたシャツを場違いに酷く気にしている。
そんな女の言葉を無視して更に六発。その度に衝撃に身体を揺らし鮮血を撒き散らしながら、それでも尚、女が前に出始めた。
「あっ……あぁぁぁぁぁぁっ!」
恐怖で言葉にならない。恐慌に陥り掛けたその時、男が叫んだ。
「逃げなさい! 早く!」
手早く
全弾が女を貫くが、止まらない。
不死身の
「──っ?!」
言われるがままに、カレンはその場に背中を向けて走り始めた。恐怖に振り返ることもできず、ただ必死に家を目指して走る。
何が起きたのか。何に巻き込まれたのか。訳も分からず、カレンには逃げることしか出来なかった。
†††††
「あーぁ、行っちゃったじゃない。あんなに怯えて、可哀想に……」
少女の背中を見送りながら血塗れの女が言った。
白かったシャツは血色に染まり、弾痕だけが無数に口を開けていた。
計十六発の銃弾を浴びせられながらその事実は消え、美しい柔肌がチラリとその姿を覗かせている。
第三者が──カレンがこの場に居れば更にその目を疑っただろう。辺りに漂う血と硝煙の匂い。弾痕と血痕が一方的な銃撃を生々しい
「フン。黙れと言ったはずですよ。
三つ目の
「普通、警告しない? この服、気に入ってたのに」
また、場違いな言葉。男の敵意どころか、必殺の射撃すらも意に介す事なく吐き出した
「銀の銃弾も効果無しとは……厄介ですね。全く」
「厄介はコッチの
「戯れ言ばかりを!」
パンッ! パンッ! パンッ!
三連射。
だが、女は銃声と同時に飛んでいた。否、跳んだのだ。ほとんど予備動作の無い動きとあまりの跳躍の高さに飛んだように見えたのだ。そのまま距離を取り、二階建ての家の屋根上に着地すると、
「言ったでしょ。次はもっと
それだけ言い残し、女は闇の中に消えていった。
†††††
「ハァ……ハァ……」
公園から数百メートルは走った位置。もう走れないと思うところまで走りきり、なんとか気息を整えながらそれでも前に歩みを止めない。ともすると恐怖で震えだしそうな足を、必死で御す。
アレは、何だったのか。
「うっ……」
血塗れで笑う女の顔がフラッシュバックして、胃の中身が込み上げそうになる。
何も考えられない。完全な思考停止状態。
そんな時だった。
──ウーウーカンカンカン
サイレン。消防車だ。
ビクッとカレンの背筋が伸びた。
恐怖が襲いかかってくる。訳の分からない非現実的な恐怖ではなく、生々しい
カレンの顔色は蒼白になっていた。
酷く、嫌な予感がして再び走り出す。
(母さんっ……母さんっ……)
家までの残り数百メートル。既に夜天は深紅に染められ、罵声と喧騒が辺りを支配していた。
「通してっ……通して下さいっ!」
強引に野次馬の人集りをすり抜け、カレンは絶望した。
燃えている。我が家が只、紅く。
「あっ……いやっ……いやぁぁぁぁぁぁぁっ?!!」
半狂乱になりながら膝から崩れ落ちる。
気が付いた近隣の住民や消防隊員が近付いてきて声をかけてくるが、ほとんどの言葉がカレンの耳には届いていない。
その中でたった一つだけ、カレンの耳を貫いた言葉。
「中に人が!」
「──っ!」
周囲が更にざわめく。
「母さんっ!!」
無意識に身体が動いていた。
「おい! 君! 戻りなさい!」
消防士の制止も聞かず、前へ。
考えての行動であるはずがない。
どれだけ折り合いが悪くても。例え、憎まれているとしても。たった一人の、唯一無二の、血の繋がった家族なのだ。愛する母なのだ。
助ける。その思いに突き動かされ、燃え盛る劫火の中へとその身を躍らせた。
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