第五話 鬼の姿
納屋を鶏小屋としたその日の夜だった。空には大きな月が輝いていた。ハナの手料理をたらふく食べた善治は、いつものように
頭の中がかき回されるようにぐるぐるとなって、ねじ切られるように痛く、胸の奥が燃えるように熱かった。気を抜けば意識を失ってしまいそうだったが、善治は必死にこらえていた。
明るすぎる月の光が邪魔だった。満月の光が善治の必死に抑えているものを逆撫で、燃えるような胸の熱を増幅させているようであった。月光は戸のない屋敷の中に容赦なく差し込んでいる。頭と胸の痛みが時と共に酷くなり、ついに善治は声をもらした。
ハナが起きたようだった。
「善治……起きてるの?」
寝ていろと言いたかったが、今の善治にその余裕はなかった。胸の熱はますます酷くなる。頭痛とめまいが善治の意識をひっかきまわし、遠くへ追いやろうとしていた。それは大きな唸り声がもれてしまうほどで、善治はぎゅっと体を縮めた。
さすがに異変に気付いたハナが、傍へ駆け寄ってきた。
「善治! どうしたの? 苦しいの? 酷い汗よ!」
もう呻くことしかできない善治を前にして、ハナは混乱している様子であった。
「どうしよう! どうしたらいいの? 善治、ねえ善治。私を見て! 私がわかる? どこが苦しいのか教えて!」
ハナの両手が、善治の肩を揺さぶった。
「そうだ! お水ね。お水を飲んだら落ち着くかもしれないわ!」
そう言ってハナは腰を上げた。
しかし善治は、咄嗟にハナの腕をつかんでいた。
「……善治?」
「水は……いらない」
刹那、善治は力任せにハナを押し倒していた。後頭部を床に打ったハナが、短い悲鳴を上げた。その上に覆いかぶさって、善治はハナの両腕を押さえた。
「善治……どうしたの? 善治、……善治!」
その声は、もう善治には聞こえていなかった。
「血をよこせ」
「善治、放して! いやよ! 放して!」
身をよじり足をばたつかせて抵抗するハナの、白い首筋が月光に浮かび上がった。とても柔らかそうな肌だった。鬼の牙で喰いちぎれば、真っ赤な瑞々しい血が噴き出すだろう。
善治はハナの襟元を無理やりはだけさせ、白く滑らかな肩を露わにさせた。月光を反射させるこの肌の下に鮮血の川が流れていると思うと、衝動は抑えきれなかった。善治はハナの首筋にめがけて口を開けた。
しかし牙を食い込ませる手前で、善治は我に返った。
「ハナ……」
ハナの耳元で、声を絞った。
「逃げろ」
ハナはがたがたと震えていた。できるかぎりそっと手を放したが、ハナは恐怖で動けないようだった。善治は力の入らない体を奮い立たせてなんとか立ち上がり、壁伝いにふらふらと外に出た。
めまいは酷い。胸は本当に燃えているようだった。それでも、善治は意地でも意識を手放さないよう努めた。
善治はおぼつかない足取りで納屋に向かった。そっと戸を開けたつもりだったが、戸は酷い音を立てて勢いよく開いた。その衝撃で、昼間に直したばかりの屋根の一部が落ちた。寝ていた鶏が起きて、鳴きながら数度羽をばたつかせた。
その鶏を善治は片手で乱暴につかみあげた。納屋の外に持ち出すと、外に出したままだった斧を振り上げ、鶏の首を飛ばした。血がどくどくと流れ出た。頭のなくなった鶏を高く持ち上げ、逆さにし、流れ落ちる血を善治は口で受け止めてごくごくと飲んだ。
仰いだ空には、ぎらぎらと月が輝いていた。その強い月明かりに照らされているこの異様な光景を見て、ハナが逃げないはずはなかった。
ハナは乱れた呼吸の合間にわずかに悲鳴をもらすと、屋敷を飛び出していった。足音は、山を下る道へと消えていった。善治は血を飲み干すのに必死だった。
◆ ◆ ◆
ハナは走っていた。はだしのままで足が痛くても、その足を止めることはできなかった。
石につまずいて、ハナは地面に転げた。それでようやく止まることができた。地べたに這いつくばったまま、ハナはしばらく起き上れなかった。心臓がはち切れそうなほど激しく鼓動を打ち、呼吸は苦しいほど乱れていた。
なんとか四つん這いになって身を起こすと、ハナは草の茂る山肌の窪みに身を隠し、膝を寄せた。襟元をぎゅっと閉じて体を丸めたが、体の震えは止まらなかった。
自然と涙が溢れてきた。ぼろぼろと涙はこぼれて、顔を寄せていた膝のあたりの着物がぐしょぐしょになった。
「善治……どうして……!」
善治の目が脳裏から離れなかった。善治が覆いかぶさってきたとき、善治の目は普通ではなかった。ハナの好きな優しい眼差しではなく、それこそ本当に鬼のような、炯々と狂気に光る眼であった。
一体何があったのか、ハナにはさっぱりわからなかった。鬼の姿でこそ優しい善治が、あのようなことをするようには思えなかったのだ。目の当たりにしても信じられないでいる。けれども両腕を見ると、善治に掴まれていた痕が赤く残っていた。
「私、これからどうしたらいいの……?」
ハナは濡れた膝に顔をうずめ、身を隠したまま、月明かりが不気味に明るい夜に息をひそめた。
少し眠ってしまったようで、気が付くと朝になっていた。ハナは恐る恐る山肌の窪みから這い出ると、朝日の差し込む山道に出た。見上げると黄緑色の綺麗な葉の隙間から木漏れ日が落ち、小鳥たちが飛び交っていた。
昨日のことが嘘のような爽やかな朝だった。ハナは泣きはらした目をこすると、とぼとぼと山道を下った。
山を下って人里に降りたとしても、行くあてはどこにもなかった。だからといって善治のもとへ戻るわけにはいかなかった。今は善治が怖い。胸と頭を押さえて苦しんでいた善治が心配でもあったが、鶏の血を浴びるように飲んでいたあの姿を思い出すと、善治が本当の鬼となってしまったように思えてならなかった。
絶望的な心地のまま、これからどうしたらいいのかわからないまま、ハナはかなりの距離を下ってしまった。
もう少しで山を出てしまうところまできたときだった。前方から足音と話し声が聞こえてきて、ハナは人の気配に気が付いた。それも複数の気配である。
咄嗟に茂みに隠れて、ハナは様子をうかがった。武装した男たちが山を登ってくるところだった。
山賊という言葉がよぎった。見つからないようにと祈りながら、ばくばくとなる心臓を押さえ、息を殺した。
しかし耳を澄まして話し声を聞いていると、どうやら男たちは山賊ではないようだった。
「おい、本当に行くのか?」
「ああ。でなきゃ餌食になるのは俺たちだ」
「お前、腰を抜かしたか? 引き返すなら今のうちだぞ」
「馬鹿言え! 村の笑い者にはなりたくねえ。俺だって闘う」
「でもなあ、百姓の俺たちに敵うのか?」
「武器はなんとかそろったんだ。鬼の一匹くらい殺せるだろう」
ハナは息をのんだ。この村人たちは善治を殺しにやってきたのだ。それを知ると、ハナの体は勝手に動いていた。
「待って!」
ハナは茂みを飛び出すと、男たちの行く手を阻むように両手を広げて立ちはだかった。
「やめて、行かないで。この山に鬼なんていないわ」
「なんだ? どこの娘だ?」
十人ほどの、農具や武器で武装した百姓の男たちの一人が、怪訝に首をかしげた。すると、他の男が叫んだ。
「ああ、知っているぞ! こいつが時々村に来る娘だ! 山の食べ物を売りに来るんだ!」
「ってことは、こいつが鬼の嫁か!」
村人たちが一斉にハナを見た。
「……な、なによ。勝手なこと言わないでちょうだい。それから、鬼なんかいないって言ってるじゃない!」
ハナの反論に何を言うわけでもなく、男たちは顔を見合わせて頷き合っていた。
「鬼の嫁さんよ、あんた昨日もうちの村に来ただろ。ありったけの山の食い物を売って、鶏を買っていったんだってな」
「それが何だっていうのよ!」
すると、男たちは答えた。
「よそ者のお前さんのことは村では有名になっていてな。いくら女でも、どこの誰かもわからねえからって怖がる村のやつもいるから、昨日はあとをつけさせてもらったんだ」
「そしたら鬼が迎えに来てたって話じゃねえか」
ハナは自分の失態に気づき、泣きそうになった。
「金色の髪で、顔に赤い痣がある鬼だ」
「こんな近くの山に鬼がいるなんておっかねえ」
「それに、この山は禿げた部分が花畑になった奇跡の山だ。神様がおられるかもしれねえ。そんな場所を鬼に明け渡すわけにはいかねえんだ」
「馬鹿なこと言わないでよ!」
ハナは負けじと男たちに喰ってかかった。
「あの撫子畑は善治がつくったのよ! 禿山にしたのは誰よ! 木を伐りすぎた人間じゃない! 善治はそこに戦で死んだ人たちのお墓を作って、弔うために撫子の種を撒いたのよ!」
だが男たちは相手にしなかった。
「鬼が人を弔うなんて馬鹿馬鹿しい。あの鬼はな、合戦場で骸をあさるのが趣味なんだよ。ちゃんと見たやつがいるんだ」
「死体をばらばらにして、血を絞り出して飲むんだとよ。酒壺にも血を集めて持って帰るらしい。ああ、おっかねえ!」
「善治はそんなことしないわ! 善治は……そんなこと……」
自信がないのが悔しかった。昨晩のことを思い出すと、死人の血を飲み干す善治を想像できてしまうのだ。それがとても悲しかった。
「鬼は人の血を飲まねえと生きていけねえって噂だ。鬼をかばうのもそれくらいにしな。無駄だからよ」
それを聞いて、ハナは違和感を覚えた。
「……ねえ、その噂は本当なの?」
ハナは昨晩まで、善治が血を飲んでいるところを見たことがなかった。まして人の血を飲むところなど、一度も見たことはない。善治は人の血など一滴も飲んでいなかった。合戦場にさえ行っていなかった。だが昨晩は確かに一瞬人の血を求めた。真っ青な顔で苦しんだ後に。
村人が言う噂が本当なら、人の血を飲んでいない善治は死んでしまうかもしれない。
「噂は本当なの? ねえ、違うって言ってよ!」
ハナは村人に詰め寄ったが、後ろからの鈍い衝撃の後、全身から力が抜けた。
「いい人質が手に入ったな。これで鬼狩りが面白くなる」
ハナの耳には、その言葉がかろうじて残っていた。
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