第六話 生き血
「どうなってんだ? 鬼が死んでるぞ」
その声で、善治はうっすらと意識を取り戻した。起き上がろうかと思ったが、体が鉛のように重くて力が入らなかった。
どうやらあっという間に弱ってしまったらしい。昨夜はあんなに胸を焼くようだった鬼の狂気さえ、今はほんの少しも湧いてこない。
ハナが来てから長いこと人の血を絶って、とうとう限界がやってきたらしい。やはり鶏の血ではだめだったようだ。
善治はほんの少し首と視線を動かして辺りを見回した。景色から察するに、庭で倒れているようだ。
「生きてるぞ!」
複数の男たちの声が聞こえてきた。うまく状況はつかめなかったが、きっと自分を退治しにきたのだと善治はすぐにわかった。普段こんなところまで人がやってくることはなかったし、こういう日がいつかは必ずやって来るだろうと確信していたからだ。
「放っておいてもすぐに死ぬ。ここから立ち去れ」
声は出た。しかし鬼退治にやってきた男たちはそんなことで引くはずもなかった。
「おい、鬼。これが見えるか?」
地面に何かを投げ捨てたような、どさりという音がした。同時に女の小さなうめき声が聞こえた。
首を傾けてみると、やはりハナであった。ハナはよろよろと体を起こしたが、善治と目が合った瞬間に飛び起きた。駆け出そうとしたようだったが、すぐに男に取り押さえられてしまった。
「放しなさいよ! 放してったら! 善治! 善治、起きて!」
「お前の女を人質にしている。この女を無事に自由にしてほしければ、大人しく縄につくことだ」
一番若い、額あてをしている男が言った。この男だけは他の者と身なりが違う。位の高い武士のようであった。
善治は視線を空に戻した。
「そんな女は知らんな」
「そのように言うのは、よく知っているからこそだ」
額あての男は面白そうに言う。
「なあ、鬼よ。お前は本当にもうすぐ死ぬのか?」
「本当だ」
「動けないのか?」
「ああ、動けん」
「確かめるぞ」
警戒した足音が近づいてきた。善治の視界に、額あての男の顔が入ってきた。眉や目は細く、口の端は上につり上がり、裕福な育ちの身勝手そうな顔をしていた。
武士の男はつま先でつんつんと善治のわき腹をつつくと、最後に大きくひと蹴り入れた。善治は小さな咳をしただけだった。
「何するのよ! この人でなし!」
ハナが叫ぶと、武士の男は笑った。
「威勢の良い女だな。この片岡清十郎にひとでなしとは度胸がある」
片岡と名乗った男は、善治を覗き込んだ。
「お前が動けないというのは、本当のような気がしてきた。これは面白いぞ。わざわざ百姓どもの話を聞いた甲斐があった」
片岡は白い歯を見せて笑うと、善治を跨いで腰の刀を抜いた。そして大きく振り上げた。
「何をする気なの! やめてよ! ねえ、やめてってば!」
ハナが悲鳴のような声をあげたが、片岡はためらわずに振り下ろした。動けない善治の胸が斬りさかれ、血が湧き出た。
「ほう、鬼の血も赤いのだな」
うめき声こそこらえたものの、痛みは全身をしびれさせた。歯を食いしばって耐えてはいるが、傷口からはじわじわと残りわずかな力さえも流れ出ていった。
「善治、起きてよ! 鬼だったらこんなやつらさっさと倒しちゃってよ!」
片岡は不機嫌そうにため息をついた。
「お前の女はうるさいな。なんならあちらを先に片づけようか」
「あの女は知らんと言っているだろう。関係のない者を巻き込むな。斬りたければ俺を斬ればいい」
「そうこなくては」
にたりと笑う白い歯は、とても卑しいものに見えた。
二度、三度と、片岡は刀を振り下ろした。そのたびに新しい傷ができ、ハナの声が山に響き、善治は耐えた。
「まだ生きているか。ではこれではどうだ」
今度は善治のわき腹を突いた。刃は貫通し、さすがの善治も声をあげた。
「やめてよ! もうやめて!」
ハナは泣き叫んでいた。
「片岡様……。殺すならさっさと殺してはいかがですか」
「百姓ごときが私に指図をするのか。それは面白くないな」
睨まれた男たちは黙るほかなかった。
「安心しろ。そろそろ殺すつもりだ。こうも簡単に斬られてくれるので拍子抜けしたが、簡単に鬼退治の名誉が手に入るのだ。この好機は逃さぬよ」
足元に転がっていた鶏の頭を蹴飛ばして、片岡は刀を構えた。
「首か
「好きにしろ」
「では首だ。持ち帰って庭に飾ってやる」
刀は振り上げられた。これで鬼の宿命からようやく解放される。しかし最期に一言だけでもハナに謝っておきたかったと、善治は刀が振り下ろされた瞬間に強く強く思っていた。
その時だった。片岡が横に突き飛ばされて、刀は善治の顔の真横に突き刺さった。
「大丈夫? 生きてるわよね?」
片岡の代わりに、ハナが視界に入った。ハナが片岡を突き飛ばしたようだ。
「善治、ごめんなさい!」
ハナは自分の着物が血みどろになるのもかまわずに、善治にすがりついた。
「私がいたから人の血を集めないで、飲むのもずっと我慢してたのね! 私、あなたが人の血を飲まないと死んじゃうなんて知らなかった! 血を飲まずにご飯ばっかり食べて、お腹減ったでしょう?」
善治は力を振り絞って、片手をハナの背に回した。
「ハナ、すまなかった。お前にあんなことはしたくなかった」
「わかってるわよ。だって善治は優しいもの」
「ほうほう、茶番か」
起き上って袴の土を払うと、片岡はゆっくりと屋敷の縁側に腰を下ろした。
「面白い。しばらく見物させてもらおう」
ハナは上半身を起こして片岡を睨みつけたが、何も言わず、善治の横に突き刺さった刀を引き抜いた。
「片岡様!」
村人が慌てているが、片岡はフンと鼻で笑った。
「どうということはない。素人の女ごときが刃こぼれした刀を持ったところで何もできん。それに私はまだ丸腰ではない」
そんな片岡のお喋りなど無視をして、ハナは刀を首筋にあてがった。
「ハナ! 何をする!」
優しくハナは笑った。
「昨日は逃げてしまったけど……」
善治を斬って刃こぼれした刀が、ハナの柔らかい肌に食い込んだ。白い肌が裂け、ハナは苦痛の悲鳴を上げた。けれどもハナはその手を止めず、刀を引いて、白い肌に刃を滑らせた。
「やめろ、ハナ!」
「ああああっ!」
悲鳴とも気合いともとれる声をあげて、ハナは最後に一気に首筋を切り裂いた。震えるハナの手からは刀が零れ落ち、切り口からは赤い血が溢れた。
痛みで乱れた呼吸を全身で整えながら、ハナは善治の顔を覗き込んだ。
「昨日は逃げてしまったけど、今は飲んでもらいたいの。……ねえ、飲んでくれる?」
脂汗の滲む苦しそうな顔でハナは笑っていた。
「ほら、口を開けて」
ハナの首筋から、赤い血がぽたぽたと善治の頬に落ちた。頬に落ちて、あごに落ち、唇に落ちて、そして口の中に入った。
その刹那、体の中に熱い塊が弾けて広がった。氷のように冷たく固まっていた体の中に、熱の波が隅々まで広がり、足の先も、指の先も、頭にも、強い何かがいきわたった。急激に体は息を吹き返し、みるみるうちに胸とわき腹の傷は消えていった。そして頭に上った熱が、善治の体を衝動的に突き動かした。
善治は跳ね起きてハナの首筋に食らいついた。求めていた瑞々しく生々しい鉄の味が体の中に広がっていく。喉が鳴るほど善治は必死に飲んだ。吸い込んだ。舐めた。この血がこの腕の中の柔らかい体から溢れてくるものだと思うと、一滴も残さずに飲み干してしまいたいとさえ思った。
この光景を見ていた片岡が、感嘆の声をもらした。
「鬼の食事か。いいものを見た。しかし鬼よ、お前の女が真っ青だぞ」
善治はゆっくりと口を離すと、唇についている血をぺろりと舐めた。
いつの間にかハナの体からは力が抜けていて、善治にその体のすべてが預けられていた。善治はそっとハナを抱きかかえて地面に寝かせると、すっくと立ち上がった。
口を手の甲で拭うと、手の甲にはたくさんの血が付いた。
「顔がますます血まみれだ。鬼らしい化粧だな」
片岡は笑いながら縁側から腰を上げ、もう一振りの刀を抜きはらいながら善治の前に立った。
「それでは鬼よ、いざ決闘――」
片岡が言い切る前に、善治は向けられた刀身をつかみ、ねじ曲げていた。軽々と湾曲していく刀身を見て、片岡の顔はみるみる青くなってゆく。
目を丸くしてねじ曲がった刀を見下ろしている片岡の、次に聞こえてきた命乞いの言葉をさえぎって、善治は片手で片岡の首を締め上げた。白黒していた目は白くなり、口から泡を垂らし始めたので、善治はそれを投げ捨てた。片岡は間抜けな格好で地面に転がった。
「おい、村の者たち」
「い、命だけはお助けを……!」
村の男たちは震えあがって、誰も動けないでいた。
「この男はまだ生きている。連れて帰ってやれ」
男たちは数度頷くと、恐る恐る善治の足元の片岡に近づき、素早く担ぎ上げ、早々に退散しようとした。その村人たちを、善治は咄嗟に呼びとめていた。
「待て」
「は、はひ……?」
しばし沈黙を作ってしまってから、善治はわずかにうつむいた。
「怖がらせてすまなかった。俺はもうこの山を去る。二度と姿は現さん。だから、どうか追わないでくれ。頼む」
そう言い残して、善治は村人たちに背を向けた。真っ白な顔で目を瞑り、力なく横たわるハナを抱き上げ、善治は山の奥へ姿を消した。追ってくるものは誰一人としていなかった。
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