第三話 薄紅色の海
ハナはとてもわがままな娘だった。しかし一方で、表情がころころと移り変わる無邪気な娘であった。
「ねえ、善治。お腹が減ったわ」
眉をひそめ、口をとがらせながらハナは言う。
「芋か栗でも食っておけ」
「もう飽きたわよ! またお魚釣ってきて」
怒った顔のハナに追い立てられながら河原に出かけ、大漁で帰ってくると、ハナは目を真ん丸にする。
「すごいわ! こんなにたくさん、どうやって獲ったの!」
そして魚を土間で焼いてやると、満面の笑みで頬張る。
「おいしい! やっぱり私、お魚大好きよ!」
善治はそんなハナに気後れしながらも、山の天気のようにころころと移ろうハナの顔をまじまじと見てしまう時があった。
そんなある日、いつものように朝から急き立てられて食糧調達に行った時の事。屋敷に戻ると、ハナは姿を消していた。
ここの生活に嫌気がさして出て行ったのだろうと思い、善治は縁側でひとり、一番星の輝く夕空を見上げていた。耳を澄まさなくとも、烏の声が遠くに聞こえ、秋風に凪ぐ木々のカサカサという音が聞こえた。
「静かだな。こんなのは久しぶりだ」
「あら、いつも私がうるさいって言いたいのかしら」
大きな籠を背負ったハナが立っていた。
「どこに行っていた? 足は治ったのか?」
「少し痛くなっちゃったけど、大丈夫。今日は山を降りていたのよ。この籠、貸してもらったわ」
「何をしていた?」
「あなたが採ってきた大量の栗や芋を味噌や塩に換えてきたのよ。魚の干物は高く売れたわ。ほら、お米もちょっと手に入ったの。それから、お野菜の種も。時期が来たらこれを庭に撒くのよ!」
ハナは行動力もあるし、気の利く娘でもあった。
「ほら、味噌汁ができたわよ。芋とお米を入れたわ。出汁は魚でとったから、骨には気を付けるのよ」
「俺の分もあるのか?」
「あたり前じゃない。そんな大きな図体してるんだから、食べなきゃもたないわよ。さあ、久々のご馳走よ!」
鬼になって以来、初めて口にする人の食べ物は、とても温かくて身に染みるものだった。ハナの勢いに巻き込まれている生活であるが、それは善治に人の生活を思い出させるものであった。
この生活は悪いものではない。しかしハナはそうは思っていないだろう。何事にも不自由しているに違いない。
「ハナ、聞きたいことがある」
「何?」
「せっかく人里に降りたのに、どうしてここへ戻ってきた?」
ハナはすっと顔を伏せ、暗い声を落とした。
「私にどこに行けって言うのよ。今さら行くとこなんてないわよ」
「……そうか」
時折このような暗い夜もあった。
それでもハナは毎日明るく活発に振舞い、不運な境遇に立ち向かっていた。しかし移ろう表情の合間に、不意にハナは暗い顔をする時がある。それはきっと殺されてしまった家族や失くした故郷を思い出すからだろう。思い出すなとは言えない。けれども暗い顔はハナには似合わなかった。
実りの秋を越え、身も凍るような冬が過ぎ、春の香りが満ち始めた頃だった。
「ハナ、見せたいものがある」
「あら、今朝は鍬を持って出かけないのね。何かしら。楽しみだわ」
善治はハナを連れ、山の裏側へ向かった。
「こんなところまで来たのは初めてよ」
「この坂を越えればすぐだ」
急な上り坂をハナの歩調に合わせながらゆっくりと越え、山の頂上に立った。
「ここに何があるの?」
「そこを少し下ると見える」
善治が指差すと、ハナはそちらに駆け下りていった。そして、すぐに歓声が聞こえた。
「わあ! 善治、早く早く! ねえ、とっても綺麗よ!」
ハナが見下ろす先には、薄紅色の花畑が広がっていた。乳白色の青空の下、山の斜面には薄紅色の海が広がっている。その花の海の中へ、ハナは飛び込んだ。
「善治、これを見せるために連れてきてくれたのね!」
「気に入ったか?」
「とっても素敵! ありがとう!」
それは今までで一番美しく輝く笑顔だった。
ハナは薄紅色の中でくるくると回っていたかと思ったら、そこへしゃがみ込んだ。花を間近でじっくりと眺めているようだった。
「これは全部撫子なのね」
善治がハナの傍に歩み寄ると、ハナは一輪摘んで手渡した。花弁の先端が幾重にも細く分かれた独特な形をしている。それが清楚で可憐な姿をつくっているので、撫子という優しい響きの名はぴったりだと善治は思った。
「撫子というのか。名は知らなかった」
「でもこの場所を知っていたわ。ねえ、いつ見つけたの?」
「見つけたのではない。俺が作った」
「善治が!」
驚いているハナの傍で、善治は片膝をついた。視線を低くしたその先に、人の頭より少し大きいくらいの石がある。それに善治は片手を乗せた。
「この石は何? さっきから気になっていたの。この撫子畑の中にたくさん並んでいるわ」
「これは墓石だ」
「お墓? 誰の?」
「戦で死んだ者たちの墓だ。そして、俺がこの手にかけてしまった者たちのものでもある」
直視していなくとも、ハナが顔を曇らせたのがわかった。それでも善治は話すことに決めていたので、先を続けることにした。
「俺は鬼ではなく人として生まれた。身分の低い武士の家柄だった。ほとんど百姓のような生活をしていたが、俺にはその生活が合っていた。土を触って野菜を育てるのは本当に楽しかった。しかしこんな戦乱の世だ。ひとたび戦が起きれば、身分が低くたって武士は武士になる。俺は結局戦に駆り出された」
暖かい春風が、撫子を揺らした。
「人など殺したくなかった。誰にだって家族がある。愛する者がいる。敵味方なんて関係ない。人は誰もが生きるべきだ。だがそんな考えはこの世の中には必要ない。俺はやはり武士として人を殺さなくてはならなかった」
空を揺るがす鬨の声と共に人々の黒い波がぶつかり合い、交差し、鬨の声は悲鳴に変わる。地鳴りのような馬の蹄。交わる槍、刀。矢の雨は容赦なく降る。
「俺は槍を持っていた。初めは怖かった。逃げようと思ったが、逃げられる状況ではなかった。だから隠れたんだ」
「……どこに?」
「味方の陰。親友の陰だ」
ハナは何も言わなかったが、静かに大きな呼吸をした。けれども、善治から目を反らすことはなかった。ハナの透き通るまっすぐな目が怖くもあったが、善治は淡々と続けた。
「咄嗟の事だったが、それで親友は俺の代わりに串刺しになった。俺は腹が立った。親友を貫いた敵にもだが、何より俺自身に腹が立っていた。その八つ当たりで、気が付いたら敵兵を殺しまくっていた」
善治は立ち上がった。
「たったそれだけといえば、それだけだ。合戦に出ればよくある話だろう。俺よりもたくさん敵兵を殺したやつはいたはずだ。だが罰を受けたのは俺だけだった」
「罰?」
春風に金色の髪がそよぐ。
「俺はその日の新月の夜、高熱を出して倒れた。足手まといの俺は山裾の小川のほとりに捨てられ、もう死ぬかと思ったが、運よく翌朝に目が覚めた。顔を洗おうと小川を覗くと、いつの間にか俺は鬼の姿になっていた」
「……そうだったのね」
善治は頷いた。そして空を仰いでから、足元に広がる撫子畑を見渡した。
「この戦乱の世の中、どうして俺だけがこんな罰を受けなければならないのか理解しがたかったが、罰を受けるべきことをしたということは理解できた。だからこの墓を作った。今でも作り続けている。土がむき出しだったこの一帯に石を並べ、それだけでは寂しいから河原に咲いていた花の種を撒いた。この足で行くことのできる合戦跡にも種を撒いている。鬼の姿の俺にできることと言えば、そんなことくらいだ」
「とても優しいのね。知っていたけど」
ハナは善治を見上げながら立ち上がった。ハナの穢れない黒い瞳が善治をとらえていた。
「私、あなたの話を聞いていて、一つ間違いをみつけたわ」
「間違い?」
「そう、間違い。あなたが鬼になったのは、きっと罰ではないわ」
「罰でなくて、俺はどうしてこんな姿にならねばならなかったのだ」
「それはあなたの心がそうさせたのよ」
「俺の……心が?」
ハナはまばたきで頷いた。
「友人を盾にしてしまった。人を殺してしまった。そんな望まなかった結末に、あなたは酷く後悔していたのよ。熱にうなされるほど自分を責めた胸の苦しみが、その身に現れたんだわ」
善治はハナの考えに言葉を失っていた。ハナは続ける。
「あなたは優しいわ。私を助けてくれたし、うとうとしてるとそっと着物をかけてくれる。お魚が食べたいって言ったら本当に獲ってきてくれるし、こんなに綺麗な撫子畑も見せてくれた。そんなあなたが鬼になるなんておかしいのよ、自分から鬼にならない限り。その姿になったことが罰であると言うのなら、その罰を下したのはあなた自身よ。優しすぎて自分に厳しいの。不器用ってやつね」
ふふとハナは笑った。
「私、そんなあなたのこと嫌いじゃないわ。目が好きなの。前髪が邪魔だけど」
ハナの細い両手が、善治の顔の半分を隠している前髪をかき分けた。視界をぼんやりとさせていた前髪がなくなって、ハナの顔がくっきりと見えた。小さな丸顔に納まる大きな瞳。つんとした小高い鼻に、桃色でつやのある唇。色白のその顔を縁取る長い黒髪が風にそよいだ。
「とっても綺麗な目。金色で透き通ってる」
「野蛮な獣のような目だ」
「そんなことないわ。すごく優しい目よ。視線が柔らかいの。この前髪から時々見えるあなたの優しい目が、私はとても好きなのよ。だから……」
ハナが手をパッと放したので、金色の前髪が再び善治の顔をかくした。ハナは撫子の海を駆けると、くるりと振り返った。
「前髪を切れなんて言わないわ。だってそうしたら私だけのものじゃなくなっちゃうかもしれないじゃない。私だけが知ってるのよ、あなたの優しい目は。他の人には秘密なの。それが嬉しいの!」
暖かい風が善治の前髪を揺らした。その隙間から見える、薄紅色の海で笑うハナは美しかった。
鬼の目でこんなに美しいものが見えようとは、善治はまるで夢を見ている心地だった。
鬼の姿になった自分自身を受け入れた時に諦めたもの、この両手から離れていったものが、春と共に舞い戻ってきた気がした。
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