第二話 ハナ

 女は何も食べなかった。善治がせっかく茹でて剥いた栗を差し出してもそっぽを向くばかり。水の一滴さえ飲もうとしなかった。女はただでさえ狭い部屋の隅の方で、膝を引き寄せて縮こまり、不機嫌な顔で終始壁を睨みつけていた。


「食べぬと傷も癒えん。そのままでは山を下れんぞ」


 女は無視を決め込んでいた。


 この日はそのまま夜となり、善治はむしろを女に与えた。しかし女は強情を張って、莚など見向きもせずに部屋の隅で縮こまったまま、膝に顔を伏せて眠っていた。善治は女と反対側の隅に背を預け、胡坐あぐらを組んで腕を組み眠ることにした。


 夜も更けて、野犬の遠吠えが風に乗ってきた。その後に、すすり泣きが聞こえてくる。


「みんな……どうして……。私、独りぼっちじゃない」


 片目をそっと開けて見やると、女は肩を震わせていた。善治はまた目を閉じたが、それからは一睡もしなかった。

 朝方になるとすすり泣きもやんでいた。


「やっと眠ったか」


 鳥のさえずりが清々しい朝だった。善治は壁に背を預けてくたりと眠っている女に着物をそっとかけてやった。


 善治が屋敷を出ると、外に出た善治の肩や頭に小鳥が降り立った。善治はそれに気にもとめず、くわを携えて山奥へ分け入った。


 長年の日課で踏み固められた道を進むと、山の裏側に出る。そちら側の斜面には草地が広がっていた。その草地沿いにさらに奥へ行くと、草地が途切れて山肌が露わになっている。木を切り倒しすぎたのか、人為的な禿げようだった。


 その山肌に、善治は鍬を振り下ろした。あまり深くは耕さず、表面を柔らかくする程度だ。ある程度の範囲を耕し終えたら鍬を置き、善治は川を目指した。少し山を下ると滝があり、きらめく清流の中には魚の影がたくさん見える。河原には大きな石や岩がたくさん転がっていた。


 善治は人の頭より一回り大きいくらいの石を二つ肩に担ぎ、耕した山の斜面に運んだ。それを十数回と休むことなく繰り返した。運んだ石を、善治は丁寧に耕したところに等間隔に並べた。それはまるで墓のようだった。


 それから腰に提げていた袋から細かな黒い粒々をつまみあげ、耕した土地に撒いた。そして最後に、善治は両手を合わせて目を瞑った。


 これが善治の日課であった。この山に住みついてこの方法を思いついてから、善治はこうして一人山を耕し、石を並べ、黒い粒を撒き、手を合わせている。


 今日の仕事も終わったので、善治は帰路につくことにした。土まみれの手を払い、汚れた着物を適当にはたいて、鍬を担いで山道を戻った。いつの間にかどこかへ飛び立っていた小鳥たちが、善治の肩に戻ってくる。


「あの種を啄んではならんぞ」


 知ってか知らずか、一羽の小鳥がチチチと鳴いた。

 屋敷に戻ると、女がいなかった。


「あの足で山を降りたか」


 そう思ったが、すぐに善治は考えを改めた。女の、夜中のすすり泣きが耳によみがえったのだ。


「まさか」


 善治は鼻孔に神経を集中させた。


「あちらから人のにおいがするな」


 においをたどり、善治は急ぎ足で山の中を進んだ。女はすぐに見つかった。崖に膝をついて、何かを見下ろしていた。


「何をしている」

「来ないで!」


 女は崖下を見下ろしたまま叫んだ。そしてわずかな沈黙を挟んでからこう言った。


「……この崖の下には見事な岩があるのね。飛び込んだら死ねるかしら」

「死ねるだろうな。頭が割れて中身が飛び散るに違いない」

「残酷なこと言うのね。やっぱり鬼じゃない」

「否定した覚えはない。俺は鬼だ」

「じゃあ私を食べる? 女の肉はきっと柔らかくて美味しいわよ!」


 振り返った女は目を見開いて笑っていた。


「煮るの? 焼くの? そうね、茹でた方がいいかも! きっと美味しいわ! ああ、でも食べるときは先に息の根を止めてね。その太い腕で首を絞めれば簡単よ!」

「俺に人肉を食べる趣味はない。人を殺す道楽もない」

「嘘よ! だって鬼じゃない。じゃあ何のために私をさらってきたのよ!」


 女は敵意を込めて睨みつけてくる。だからといって、善治はひとつも動揺しなかった。


「さらったわけではない。けが人を見て放っておけなかっただけだ」

「馬鹿言わないで! 鬼がそんなことするわけないじゃない! 本当のことを言いなさいよ!」


 さすがの善治も腕を組み、ため息をついた。


「勝手にしろ」


 怒りではなく、呆れだった。善治はやっかいな女を助けてしまったものだと後悔の念を抱きながら、女に背を向けた。


「食べないのなら、飛び降りるわよ」

「そうか」

「食べると言っても飛び降りるわ」

「好きにするといい」

「ここに私の頭の中身が飛び散るのよ。迷惑じゃない?」

「野犬や烏が掃除するだろうから問題はない」


 そこまで突き放して、ようやく女は黙った。


「冷えた風が吹くようになってきた。飛び降りるなら早いうちに飛び降りた方が、凍えなくて済むぞ」


 それだけ言って、善治は立ち去ろうと一歩踏み出した。その時だった。女はありったけの声で叫んだ。


「待ちなさいよ!」


 振り向くと、女は大きな目からぼろぼろと涙を流し、善治を見上げていた。


「待ってよ! 独りにしないで! みんな死んじゃったのよ! 私、独りぼっちなのよ! かわいそうだとは思わないの?」


 ありったけの声で叫ぶと、女は土の地面に泣き伏した。


「昨日まではみんな元気だったの! 一緒に笑ってたの! それなのに突然戦に巻き込まれて、みんな死んじゃって、気付いたら目の前に鬼がいるのよ! 怖いわよ! 地獄に来ちゃったのかと思った! でもまだ私生きてる! だけど独りぼっち! 鬼しかいない! だったら鬼に頼るしかないじゃない!」


 善治は静かに聞いていた。


「死にたくない! 岩で頭割るなんて嫌だし、食べられるのはもっと嫌! けが人を放っておけないっていうのなら、連れて帰って! 痛くてもう歩けないからなんとかしてちょうだい! それから、あったかいごはんを炊いて味噌汁作って漬物も切って! とってもお腹減ってるのよ!」


 突き放せば折れると思っていたが、ここまで図々しく開き直るとは思ってもみなかったので、善治は度肝を抜かれていた。


 しかし助けたからには仕方ないと、善治は泣きじゃくる女のもとへ歩み寄よった。片腕を膝の下に通し、片腕で背中を支え、すいと持ち上げた。


「米も味噌も漬物もない。とりあえず栗と芋で我慢するんだな」

「鬼のくせに普段何食べてるのよ!」


 あからさまに愕然とする女に、善治は不覚にも笑ってしまった。


「鬼は鬼だが、俺には善治という名がある」

「私はハナよ」


 ハナは涙を拭いながらぶっきらぼうに言う。


「さっき川の流れる音が聞こえたわ。後でお魚でも獲ってきてね、善治」


 骨の折れる日々が始まろうとしていることに、善治は少し憂鬱だった。しかし人の口から自分の名がこぼれることは、長年ひっそりと孤独に過ごしてきた善治にとって驚きであり、どこか心の温まるものでもあった。

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