第11話 微笑みの理由

 夜も遅く、ボロアパートの階段を登り、彼は部屋の前に立った。

 一呼吸して、勢いよく扉を開くと、笑顔の女性が出迎えてくれた。


「お、お帰りなさい……」

「おう、帰ってきたぞ! テメエ、飯はどうした!」


 彼は笑顔のまま怯えた声を上げる女性を無視して部屋に踏み込む。そして、おそろしく粗末な料理の乗ったリビングテーブルを蹴り飛ばした。


「きゃあっ!? い、今のがご飯で……」


 口答えする彼女の胸倉を掴み、心配そうな表情をした彼は乱暴な口調で問い詰める。


「ああ? 今の犬の餌が晩飯だと!? 亭主に何てもん出しやがる!」

「そ、そんな事言われても、ウチの稼ぎじゃ……」

「お前の飯を抜きゃあいいだろうが! こっちゃ、労働して疲れてんだよ!」


 ドンッ、と乱暴に彼女を突き飛ばした。

 衝撃に耐えきれず、彼女は畳の上に倒れ込む。


「ひっ! ろ、労働って、スロットじゃ……」


 尻餅をついたまま、彼女は手招きをした。

 彼は頷き、彼女の腹を蹴る。


「稼ぎは稼ぎだろうが、あぁ!?」

「じゃ、じゃあ、お金……」

「はぁ? 飯も食わせねえ女房に、何で金出さなきゃならねーんだよ!」


 彼は、彼女をもう一度蹴り飛ばした。


「あうっ!」

「役所から!」


 そのまま続けてもう一発。


「ぐっ!」

「しっかり金!」


 後ろに束ねた髪を掴むと、強引に引きずり起こす。


「いやぁっ!」

「もらってんだろが!」


 パンパンパン、とビンタの乾いた音が響き渡る。


「ひっ、あ! いた、痛い……っ!」


 悲鳴を上げながら、彼女は時計を指差した。

 彼は時計を確認し、小さく頷く。

 そして彼女の抵抗がなくなったのをいい事に、彼は殴打を続ける。


「や、やめて! アナタ……! も、もう……!」

「るせえっ! ちっ、風呂だ風呂! 沸いてるんだろうな!」


 舌打ちと共に、彼は再び彼女の胸倉を掴む。


「うぐぐ……は、はひ……沸いています……」

「よーし。なら、俺が上がるまでにちゃんと飯作ってろ。いいか、犬の餌じゃじゃねえ。人間の食い物だ! 理解したな?」

「わ、分かりました……つ、作ります……」

「よし……」




 そして彼、明石あかし拓也たくやは手の力を緩めた。

「……五分、経ちましたよ」

「はい」


 ふぅ、と小さく吐息を漏らし、八木やぎ好美このみは髪をまとめていたゴムを外した。長い黒髪が、解放される。

 拓也は口を閉ざし、周囲の音を探る。

 車が近付いてくる気配はなさそうだが……。


「……来ませんかね、パトカー」

「長い時間なら来ますけど、五分程度なら皆、見て見ぬふりをしますよ。様子を伺う人なんて、滅多にいません。そんな心配をしてくれたのは、拓也さんぐらいのものですよ」


 ちなみに拓也の本来の部屋は、隣である。

 初めて様子を伺った時は、彼女の亭主の拳骨に出迎えられた。


「それよりご飯、出来てますよ。スープもいい感じに温まってます」


 通り抜けたキッチンには、ちゃんと二人分の料理が用意してあった。

 今日は、鮭の包み焼きに温サラダ、コンソメスープというメニューのようだ。


「ご、豪華ですね」


 実家も貧しく工場勤めの拓也としては、洋風の料理と言うだけで『豪華』になってしまう。


「拓也君もお金入れてくれてるから。ちゃんとした材料が買えるなら、これぐらい作れます」


 むん、と好美は腕を巻くってみせた。


「ぶちまけちゃった分、もったいないですね。それに、前から思ってたけど、本当に殴る必要って、あるんですか?」

「駄目ですよ。痣とかコブとか、実際に出来ないともしお巡りさんが来たら、見抜かれちゃうかもしれません。こういうのはリアリティが大事なんです」


 それから彼女は、ポッと頬を赤らめた。


「それに、この殴打は愛がありますから」

「……いやいや、俺、その趣味はないですよ」

「冗談ですよ」

「…………」


 ニコニコと微笑む好美に、本気か冗談か区別のつかない拓也であった。

 人生経験の差かもしれない、とも思う。


「……ふふ。それより、今日はどうでしたか?」

「バッチリ溶鉱炉に片付けました。後、一回ですね」

「はい。ほとぼりが冷めるまで半年ぐらいは、秘密にしておきましょうね。私達の仲」

「ですね。あ、ビールは俺が出しますよ。好美さんはコップをお願いします」

「ありがとうございます」


 拓也は冷蔵庫を開き、缶ビールを出す。

 それから今はまだ使えない冷凍庫を開いた。

 そこには、側頭部に損傷のある、好美の夫の生首が収められていた。


「悪く思わないでくれよ? アンタが悪いんだからな」

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