第3話 花見酒
遠くから喧騒が響いてくる。
しかし、この辺りは静かに、桜の花びらが散っていた。
その様子を、
「ここは、公園の中でも穴場なんですよ」
敷かれたゴザの上にちょこんと座った和服姿の母、
母と娘、それに孫の三人なら充分な量だった。
だが、静江は、母ほど落ち着いてはいられない状況にあった。
「あの、母さん、私、こんな事をしている場合じゃ……」
「こんな時だからこそ、落ち着かなければなりませんよ。真昼から行動出来る訳がないじゃないですか」
はい、と母からお茶を勧められる。
「でも……」
受け取りながら、静江は俯いた。
そんな彼女に、清子は穏やかに告げた。
「あの結婚は、やはり失敗でしたね」
「……ごめんなさい」
学生時代、結婚を決めた時も反対はされたのだ。今と同じように、穏やかな口調で。
だが、結局、静江は自分の意を貫いた。
当時は、その判断が正しかったと思ったのだ。
けれど振り返ってみれば、結末は間違いなく失敗だった。
静江は重いため息をつき、母も首を振った。
「いいえ。私も気付くのが少し遅かったのです。あと一日早く、家を訪れるべきでしたね。そうすれば、あんな惨事にはならなかったと思います」
「母さん、それはもう、済んだことだから……それに、今はあんまり思い出したくない」
手に付いた赤い色と包丁の感触を思い出し、顔をしかめる。
だが、もちろん、今あるのはいつも通りの、少し荒れた手だった。
「そうですね。今は、花と団子を楽しみましょう。ほら、桜の花がこんなに綺麗ですよ」
「……そうだね」
母と娘は、揃って桜の木の枝を見上げた。
清子が首を傾ける。
視線の先には、おかっぱ頭の女の子がいた。
静江の娘、清子にとっては孫に当たる、
娘に外傷は見当たらない。少なくとも、服を脱がさない限りは、分からない。
身体の傷はいずれ癒えるだろうが、心の傷は治るかどうか。
表情一つ動かさない友美の様子に、静江は泣きそうになった。
「友美ちゃんは、しばらくは団子よりお花のようですね」
娘よりも楽観的な清子は、小さく笑った。
本当に、きれいな桜だ、と静江も思った。
きれいな桜、で不意に思い至る。
この風景には、憶えがあった。
「あの、母さん」
「はい?」
「昔の作家の作品だったよね。桜の木の下には死体が埋まっていて、それで桜はこんなに綺麗な花を咲かせているんだっていう台詞があるの」
「ええ」
「私、ずっと昔にここに来たことある?」
「さて」
清子は、穏やかな笑みを崩さない。
静江は、口の中の唾を飲み込んだ。
「……物心付く前に、父さんって失踪したんだよね」
「さてさて」
清子の様子は変わらない。
「……母さんが、ここに連れてきてくれたのって、ひょっとして」
静江は、桜の木を見上げ、そして地面を見下ろした。
「夜に、もう一度来ましょうね」
清子が、静かに告げた。
「……うん。友美、呼んでくるね」
「はい」
静江は立ち上がり、サンダルを履いた。
その時、静江の耳に遠くからの足音が入ってきた。
「誰か……来る」
思わず立ち止まってしまう。
「大丈夫ですよ」
清子はまったく動じない。
やがて、小さな人影がいくつも姿を現した。
花見の客だろう。
清子と同じぐらいの年齢の、上品そうな老婆達だった。
「でも、これじゃ……!」
もしもこの人たちが夜まで居座ってしまったら、自宅の風呂場にある『あれ』を埋めることが出来ないではないか。
「みんな、私のお友達ですから、心配は無用です」
それはつまり、清子が彼女達を呼んだことを意味していた。
静江には、母の考えが分からない。
「友達って、どうして……」
「だって、一人じゃ力仕事は大変でしょう? それと――面白い事に、何故か全員未亡人なんですよ」
「…………」
悪戯っぽく笑う清子に、静江は絶句した。
くい、と裾を引っ張られた。
振り返ると、娘の友美だった。
無表情に、空をあおいでいる。
「いっぱい……」
呟き、清子がそれに応える。
「うん? どうしたの、友美ちゃん」
「きれいな桜の木、いっぱい……」
「そうですね。さあ、友美ちゃんも、お腹が空いているでしょう。もうこれからは何も心配いりませんからね」
穏やかに笑い、老婆は注いだお茶を孫に勧めた。
「来年はもう一本、きれいな桜が増えますよ」
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