誘惑のジャズシンガー
邪気のない運転手だ。示したフロントガラス越しに仰ぎ見る。
【REST&BAR Darkside】暗闇に輝いたLED。ゴシック体で描くネオンサイン。ただ妖しく際立っている姿だ。
ここはどの辺だろう。周囲は大きな庭で邸宅と呼ぶに相応しい古めいた住宅ばかりが並ぶ場所。【BAR・Darkside】妖しげなネオンサインが灯る前時代的な洋館風の重厚な建築物。
一見だけならモーテル。間違いそうな雰囲気まで感じられる。ここがどこか見当もつかない。素直に口にすると即座の返答だ。
「ここは南比良二丁目ですから。この場所ならお客さんの行先。徒歩でも帰れます。約束どおり同伴するので準備お願いします」
「南比良二丁目」確かに近い。徒歩二十分ほどの高級住宅街だ。こんなバーがあることに気づかなかった。しかも周囲の雰囲気。なぜか以前とどこか違う気がする。そんな不思議な印象だった。
疑問を抱き説明も難しい違和感を憶えた。とりあえず運転手に誘われた建物。横づけされたタクシーの後部席から立ちあがる。その瞬間なぜか酔っていないはずの足元。少しだけふらついた。
きっと先刻まで付きあわされた不味い酒。その影響だろうか。店に来てから帰るのも何かがおかしい。挨拶だけして改めよう。
そんな独り言に急かす運転手。【BAR・Darkside】輝くネオン。重厚な扉を潜ろうとして先刻の違和感に気づいた。
周囲にある邸宅すべて暗闇だった。深夜だからこそ街灯もない理由が不可解だ。すでにバーに一歩足を踏みいれた後だったが。
だがしかし疑問に感じた時間。たったの一瞬に過ぎなかった。
運転手に続いた入口からシックな内装に覆われている。最奥に派手な照明を整えた魅惑のステージ。きらびやかに設置される。
その中央。半世紀前流行した懐かしのバラードが素晴らしい。高音で歌いあげる波打つ漆黒の髪。美貌の女性シンガーだった。
入店前バーでなくレストランに近しい雰囲気かと考えていた。
しかし店内の奥ステージ。演奏する黒人バンドマンの姿を見て理解する。レストランではなく本格的な高級クラブである事実。それらを瞬時に理解させる高級店の風格だ。見事なたたずまい。
しかも本格的すぎるステージ設置。受ける印象ほど広くない。
キャパシティなら30人程なんだろう。奥に近いボックス席の中年サラリーマン。業界人らしい派手な服装の優男。ジーンズで冴えない浪人生と統一感も一切ない。様々な年代の客層だった。
客は十数人の男たち。囲んで着座する女性陣は10代の後半。精々20代前半だろう。異なるタイプで誰もが目を惹く美人だ。若い女の子たちが十人あまり。含めると満席に近い状態だった。
この状況なら相応にボラれるんだろうなと一瞬だけど考えた。
まあ金銭はどっちでもいい。目と耳が一点に惹きつけられる。入店の際からステージで唄うジャズシンガー。眼をそらせない。
瘦身でスタイルも抜群。胸元が大きく開いた真っ赤なドレス。童顔と呼ぶべき幼く感じる表情のギャップが少しアンバランス。逆の意味で強烈すぎた。その魅力を全力でアッピールしている。
また甘いメロディーにあう澄んだ艶のある美声だ。その魅力を余すところなく惹きたてる滅多にお目にかかれない正統派美人。正しく好みどおりの女と思えるほど尊い全身に言葉を失くした。
かなり良い女。絶対どこかで見聞きした記憶ある声だ。昔から
彼女を知っているはずだ。どれだけ考えても思いだせない名前。
酔っているんだろう。どこかなにかがおかしい気もするけれど。
記憶は別にしても驚いた。彼女も呆然と自分を見つめる視線に気づいたんだろう。ステージ上から表情をこちらに併せてくる。おそらく俺の虫の良い思い込みに過ぎないんだろう。仕方ない。
彼女が見つめる視線で気がついたらしい。シェイカーを振るう男が振り向いた。口髭を綺麗に整えた40代のバーテンダーだ。運転手と俺に目配せすると同時。丁寧な口調で話しかけてくる。
「いやぁ西神さんじゃないですか。随分と長いお見限りでした。新規のお客さんまでお連れしていただきありがとうございます」
「生憎だけどマスター私は仕事さ。お客さんお連れしただけだ。残念だけど遠慮しておきますよ。その代わりお客さんには最高のサービス頼みますね。後は任せてごゆっくりお楽しみください」
ニヤリとしか表現もできない笑みをした運転手が立ち去った。
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