深淵で誘う刹那の女性シンガー

神無月ナナメ

誘惑する個人タクシー

 チリチリと音を奏でる煙草。しばし短くなる先端を見つめる。なぜか物悲しくて行き場のない感情。押し潰されそうになった。


 やっと拾えた個人タクシー。家路につく俺だ。すでに身も心も疲れ果てた。世の何もかもが虚しくて疎ましさすら感じている。


 なんで今更慣れない営業だ。俺がやらなければいけないのか?

 見あげた窓に輝る満月。その碧さを意識して思考を廻らせた。



 昔から他者とのつきあいが苦手だった。大学も工学部を選んで会社も専門職だ。エンジニア担当としてバブル入社したはずだ。


「管理職のステップアップだからね」営業を勉強してみないか?

 どうせ反りがあわない部長の差金だろう。馬鹿な話あるかよ。


 得意先の対応も同じ。たかだか一千万の受注だろう。接待まで必要か? こんな派手な営業だ。赤字にならないのもおかしい。


 再びの碧い月。見あげながら知らぬ間にため息を零していた。


 まあ良いさ。俺みたいな単なる下っ端。悩んでも仕方がない。

 とにかく疲れた。ゆっくり眠りたい。明後日まで短い幸せだ。



 改めてため息をついた。行先の確認から沈黙していた三十代も半ばに見える気の良さそうな運転手。含んだ口調で話しかける。


「お客さんお疲れのご様子ですよねぇ。いやぁ。私も深夜に流す状況がおおいんで似たタイプのお客さん。良くお乗せしますよ。何もいわずともわかります」運転手が一呼吸。苦笑いで続けた。


「それで他でもないんですがね。近くで知人が経営する雰囲気の良いバーがあるんです。お客さんいらっしゃる気ありません?」

 運転手の言葉を聞いた瞬間だ。噂だけ耳にする性質の悪い暴力タクシーかと焦った。一瞬にして表情も顔張る自分を意識する。



 そんな一瞬の表情で気もちを察したらしい。運転手は内心まで理解したようだ。今度はにこやかな笑みを浮かべながら続ける。


「いやお客さん。騙して変な店に連れて行く訳じゃありません。私からマスターに説明してサービスさせますよ。お客さん好みの可愛い子ばかりです……騙されたと思って行ってみませんか?」


 ふむ。まあ良い。運転手の男もそんなに悪い輩には見えない。

 それに現在の懐事情。持ちあわせない訳でもない状況なのだ。


「このあと用事がある訳でもない。美味い酒なら酔いたい気分。少し行ってみようかな」良い憂さ晴らしになるだろうと考えた。



「そうおっしゃられると思ってました。それでですねお客さん。実は近くまで来てまして。あちらのネオンサインあそこですよ。すこし変わった【BAR・Darkside】って店名ですね」

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