2. 女臈
さて、次の朝の出勤である。
脇差が鞘走らないように確かめたところで、ねっころがって今まで又之丞の様子を眺めていた東風丸が、がばと起き上がった。
「おれも連れてってくれよ」
「そんなことができるか」
東風丸はすこしもめげぬ。
「ほかの連中から姿隠しときゃいいだろ?」
「…うむ・…」
乗り気にはなれぬが、渋々頷く。
ひょんととんぼを切って、東風丸は一寸程の小人になると小風を駆って又之丞の元結の根元に座りこんだ。
「見えてるぞ」
「おまえさんにはな」
又之丞は、少々不安であったが、遅れても困る、屋敷を出た。
城下を歩きながら人の目が気になるが、どうやら東風丸は本当に見えていない様子で、ひとまず胸をなで下ろした。
仕事を始めてしばらくすると、東風丸はもう飽きた様子で、又之丞に耳打ちする。
「城の中、見物してくるわ」
又之丞の返事も待たず、東風丸は欄間の隙からすっ飛んでいった。又之丞の不安は大いに増大した。
しかし、又之丞の気苦労も取り越し苦労で済んだようで、仕事のあらかた片付く頃、東風丸は遊び疲れて戻ってきた。
また、頭の上に乗っかったのを覚えても、まず顔に出すこともできないが。
日が落ちて、いつもならそろそろ下城かというころだが、今夜の又之丞は宿直である。部屋に一人になったのを幸いと、頭上から東風丸をはらいのけた。
「いつまでひとの頭に乗ってる!」
「はん。たいした頭でもあるまいに」
東風丸は人並みの大きさに戻ると、畳みの上にごろ寝を決め込んだ。
「おまえに言われる程、ひどくはないわ」
先は長いのだと、又之丞も柱によりかかる。
四半刻も経ったろうか、東風丸はやおら座り直すと、うらめしげに又之丞を見て言った。
「つまらねえ。ずっとこうしてんのかよ」
「そうだよ」
言った途端に、障子が開いた。
又之丞は大慌てで東風丸を隠そうと障子と東風丸の間に分け入ったのだが、同僚はそれを見て笑って言った。
「夜じゅう正座していることもできますまい。そんなに気をつかわず、楽にされるがよい」
東風丸はちゃっかり姿を隠したままだったのだ。
「これはどうも……お見苦しいところを」
ちらりと東風丸をうかがうと、意地の悪い顔をしてにやにや笑って、べろりと舌まで出してみせた。
又之丞は腹の中をひた隠しに、同僚の方へ愛想笑い。
「なにかございましたか」
「いやいや、なにと言う程のことではないのだが。長夜のつれづれに殿が家中を呼び集めてござる」
又之丞、慌てて裾を直して立ち上がった。
「ただいま」
部屋を出際に東風丸を踏みつけて頭のお返しとした。東風丸は腹立たしげに舌打ち一つ、それから小さくなると今度は又之丞の肩へ乗った。
御前に皆で集まって、行灯の明かりの中、城主が口を開く。
「今夜はほかでもない。この城の五重目に夜な夜な火が燈る。誰かあれを見て確かめて来ようという者は有らんか」
城主に集まっていた視線が途端にそらされて、誰か名乗りをあげぬかと互いを窺って伏し目がち。
恐ろしいものは恐ろしいが、殿の覚えが悪くなるのも困りもの。
ひそひそ声でどうしたものかと、あちらこちらで思案の様子。
その中に自分の名を聞いた気がして、又之丞は身を硬くした。
「大石殿」
案の定、向こう隣りに座っていた侍が喜色満面に声をかけてきた。
「…例の屋敷の化物を退治されたそうではありませんか」
抑えた声は、ぎりぎり城主に届く大きさだ。
「いえ退治などとんでもない。せいぜいおとなしくしてもらっているだけでござって…」
身を隠そうと平服するが、いかんせん新入りとあっては、どうしても目に止まりやすい。
「大石又之丞」
御声がかりに又之丞は腹を決めた。東風丸に逃げるなよと目で合図して、顔をあげた。
「どうじゃ、やってみぬか?」
「はい。それがしが行かせていただきまする」
「よし。しからば、証しをとらせよう」
城主は嬉しそうに火の消えた提灯を又之丞に預けて言った。
「あの火を、これに燈して参れ」
「心得ました」
又之丞、神妙に提灯を受け取ると、天守にあがった。
古い城の階段は磨き上げられ、足を乗せる度にぎしぎしと音をたてる。
又之丞は、指が白くなるほど提灯の柄を握りしめて、肩の上の東風丸に聞いた。
「おい。おまえの知合いかなんかじゃないのか? 知ってるんなら先に教えろよ?」
「知らないよ」
東風丸は肩を離れて元の大きさに戻ると、又之丞の後ろについて歩きはじめた。
「おれ、こんなとこ入るの初めてだ。でも、強い気を感じるな」
「危なかない…か…」
恐ろしくなって振り返ると、東風丸の目が緑に光っていて余計恐ろしさが増してしまった又之丞であった。
「まったく、なにをびくついてるんだよ、っと」
東風丸はとんぼをきって又之丞の前に飛び出すと、風を蹴ってふいと舞い上がる。
「五重目!」
一足先に飛び込んだ。
「お、おい、待てよ」
「お、べっぴんさん!」
「おい?」
追いついて天守の最上階の中を見れば、年の頃十七、八の
東風丸の口笛に、凛と見返して問うた。
「無礼なるぞ、下郎。何とて此処へ来たるか」
「まさしく、気の強え女…」
東風丸が呟く。又之丞、迫り来る鬼気に気圧されて、懸命に言葉を選んだ。
「…それがし、主人の仰せにて是れまで来たり候。その火をこれへ」
右手の提灯をかかげて見せる。
「燈してたまわり候え」
女臈に見据えられ、又之丞は息が止まって死ぬのではないかと脂汗がにじむ。
「主命とあれば、許してとらせん」
女郎は重々しくそう言うと、燭から提灯へ火を移してくれたので、又之丞はほっと一息、這いつくばって礼を言い、早々に天守を下りはじめた。
「つまらねえ。これだけか」
「これで充分だ!」
ところが三重目まで来たところで、ふいに火が消えた。
「……っっ!」
絶句した又之丞を尻目に、東風丸は何も居ないように見える一角に向かってばんと風を当てると叱りとばした。
「行っちまえっ」
「なんだ…?」
東風丸はふんと鼻をならして顎をしゃくった。
「婆の幽霊」
又之丞は深々とため息をついた。もう一度火をもらいに行かねばならぬ。なんだか仕官が決まったことを後悔しはじめていた。
女臈は意外にも厭わず提灯の蝋燭を取り替えてくれ、さらに文箱から何やら取り出した。
「証にせよ」
差し出したのは、片方だけの螺鈿の櫛である。又之丞はそれを押戴いて立ち帰り、殿の御前にまずは提灯を差し上げた。
城主は感心して、ためつすがめつこの火をご覧じ、さて吹き消してみようとしたが、炎が揺らぐだけで一向消える気配がない。
「大石、この火は不思議なことじゃ。いくら吹いても消えぬぞ。ほら」
ほらと渡されて、吹いてみよと言う。
まったくとかなんとか言いながら、又之丞が一吹きすると、あっけなく火は消えた。
座敷中がどよめき、城主まで感嘆しきり。
「ほかには、何か不思議はなかったのか?」
又之丞がかしこまって差し出したかの櫛を、城主は取り上げ見るなり、驚いて従者に具足櫃を取りにやらせた。
「これは余が具足櫃に入れ置いたものぞ」
早速、櫃を開けるて確かめると、一対入れておいたはずの櫛が片方なくなっている。
これは如何なることかと、城主が一人で直きに天守に上がると言われる。
「汝らは来てはならんぞ!」
と言い置いて、臣下たちの止めるのも聞かず、階段を上がっていってしまった。
しかし、五重目まで来ても、燈のほかになにも見えぬ。
訝しく思って隅々まで捜し、かの女臈が現われるまで待つのも良かろうと腰をおろした。
しばらくすると階段を上がって来る者がある。見ると、いつも傍らで琴や琵琶を弾じている座頭である。
「何をしに来たのだ。来るなと言ったはずだぞ」
「御淋しく居られると存じ、参上いたしました」
見えない目を向けて微笑み、そうして城主に顔を向けたまま、手元で琴の爪箱をいじっている。
「あいすみませんが、蓋がとれませぬ」
「開けてやろう」
爪箱を手に取り蓋を取ろうとしたが、なんと箱ごと手に張り付いて離れない。
「たばかったな!」
城主は怒りにまかせて、足で踏み割ろうとしたが、今度はその足までも張り付いてしまい、見事にひっくりかえった。
座頭はと見ると、そのたけ一丈ほどもあろうかという鬼神となって見下ろしているのだ。
「我はこの城の主なり。おろそかにして、尊とまずんば、今ここにて引き裂き殺さん!」
そういって掴みかかって来たので、目をつぶって叫びかえす。
「わ、わかったわかった! おろそかになぞせん!」
すると豪放な笑い声がして、掴み上げられると同時に爪箱が離れた。
「しかと聞いたぞ!」
城主は空中に投げ出されたかと思うと、どさりと人の腕の中へ落ちた。
驚いたの家来たちである。
一番下でやきもきしながら、城主の帰りを待っていたところが、五重目あたりから叫ぶ声が聞こえる。すわやと階段に足をかけるなり、突然空中から主が降ってきたのだ。大慌てで御寝所へお連れして、御典医を呼び、体の方には異常なしとわかってそれぞれの屋敷への帰途につくころには、すっかり夜も明けきっていた。
又之丞は疲れ果てて歩いているというのに、東風丸は元気なことこの上ない。
「なあ! おもしろかったよなあ!」
けらけらと笑う。
「…おれは、自分の首が心配だ…」
「なんで」
東風丸にはとんとわからない。
「こういう場合、ぜーんぶおれのせいにされたり、するんだよ」
まだわかっていない顔をしている東風丸の脳天気に寝不足もあいまって、めまいがしそうな又之丞。
「ええい! とにかくおれはもう寝るぞ!」
座敷にあがるなり、倒れ伏してそのまま前後不覚。
東風丸もならって畳みに横になったが、盛夏の昼間ではどうにも暑くて寝苦しい。外へ出て身をふるうと獣の姿に戻り、床下に潜り込んで冷たい土に腹をつけて気持ち良く眠りに落ちた。
夏の日はまだ長く、蝉の声ばかりが勢い良く光の中に満ちている。
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