夜の底を逃げる

肉球工房(=`ω´=)

夜の底を逃げる

 おりからの大雨で線路下の地盤が緩んだとかで電車が止まり、他に選択の余地もなく、帰ることができなくなった彼は名さえ知らなかった無人駅で降りてその夜の宿を探さねばならなくなった。降りたホームで会社に連絡をとろうとして、はじめてそこが彼の持つ携帯では圏外で使用できないの場所であったことを知った。彼と同じく、途中下車を余儀なくされた乗客のうち、二十人ほどがすでに二台しかない駅の公衆電話に列を作っており、彼はその列の終端に加わった。

 しばらくして、ようやく自分の順番がまわってくると、彼は事務員に今日の営業報告とがけ崩れで足が奪われたので会社に帰れない旨を伝え、今夜はここに宿泊しなければならないことを説明した。事務員は、「宿泊にかかった費用は会社の経費では落ちない」という意味のことを、冷淡な口調で彼に告げただけだった。

 ようやく会社への連絡を終え、冷たい雨が降りしきる駅前ロータリーに出ると、「タクシー乗り場」の看板が出ているあたりにはすでに長い行列ができている。やはり最後尾に加わって十分以上も待たされたあげく、おり悪く、彼の前の乗客が乗り込んだところで、タクシーが途絶えてしまった。

 夜中の、人気のない駅前でぼおっと立ち尽くしているのも馬鹿馬鹿しく思えたので、ちょうど目に入った派出所へといくと、入り口のサッシのところに「現在パトロール中」の看板が出されていて、しかたがなく、彼は、すでに灯りがともっている店もまばらになった駅前の商店街へと向かう。

 どこにでもありそうな、これといって際だった個性のないアーケードで、時間のせいか、ほとんど店がシャッターを下ろしている。彼は、人通りのないアーケードを駅側から外に向かってゆっくりと歩いていき、ようやく空いている定食屋をみつけ、中に入る。

「いらっしゃい」

 カウンターの椅子に座ってスポーツ新聞を読んでいた初老の主人が彼の姿を認めると、ごそごそと読んでいた新聞を折り畳み、彼が座ったテーブルに水の入ったコップを置く。他に客はいない。

「なんにいたしましょう」

「……ホッケ定食。あ、あと、ビールね」

「ビールは生で? 瓶で?」

「瓶。中のね」

 主人は蓋を開けた瓶とコップを無言で彼のテーブルに置き、厨房の奥の消える。彼がつけっぱなしのテレビを見るとはなしに見ていると、さほど待たされもせず、注文した定食がでてきた。

「おやじさん」

 彼はいった。

「この近くに、予約なしでも泊まれる宿はないかなあ」

「お客さん、見ない顔だと思ったら、この雨で足止めくらった口だね。

 さてねえ。なにせ、山あいの小さな町なもんでねえ。宿屋も、今頃はもうほとんど埋まっているのではないかなあ。

 可能性があるとすれば、あれ、もう少し山奥にはいったほうに観光客目当ての温泉宿が何軒かあるから、そっちのほうのが、まだ可能性があるかもしれない」

 主人はそういうと、「まあ、そういうのはタクシーの運ちゃんとかのが詳しいから」と、付け加えて、またスポーツ新聞を広げはじめた。

 話し相手もなく、彼は黙々と定食とビールを消費していると、いきなりけたたましいサイレン音が徐々に大きくなって、店のすぐそばで停まった。

「ありゃ。どうも店のすぐ裏だよ」

 主人が外を伺いながらいう。

「お客さん、心配だから、ちょういと様子をみてくるわ。すぐ帰ってくるから」

 いそいそと、傘を取り出し、後ろもみずに出て行ってしまった。どうやら、旺盛なやじ馬精神の持ち主らしい。

 彼が定食をたいらげ、しばらく待っても主人が帰ってこないので、レジのところに伝票と千円札を置き、五百円硬貨を重しにした。消費税を入れても、若干の釣りがくるはずである。

 再び外に出た彼は、しばらく考えて、結局駅前に戻ることにした。駅前にいくと、案の定、タクシー乗り場にタクシーが一台待機している。

「どこでもいいから、今夜泊まれるところ、しらないかな?」

 タクシーに乗り込むやいなや、彼は運転手にいった。

「お客さん、足止めくらった口だね」

 運転手も、心得た、といった口調で話す。

「今も一通り、足止めくらったお客さんを宿に届けてきたところだよ。なにせ小さな町なもんでねえ。もうそろそろ、市内の宿は満杯じゃあないかな。ちょっと山奥に入ると、知り合いの温泉宿に空きがいくつかあるかもしれないけど、そっちのほうでいいかい?」

 結構です、と、彼が答えると、運転手は無線で二、三やり取りをし、車をだした。

「お客さん、運がいいねえ。今のがどうもここら一帯で最後の空きだったみたいだよ。相部屋になるようだけど、そいつは構わないね」

 彼は、構わない、と、答えた。この雨の中、野宿でもする以外に、選択の余地はないのだ。

「さっき、商店街の裏手で、火事があったそうだねえ。ボヤですんだけれど、放火だったみたいだ」

 運転をしながら、運転手はいった。

「お客さんも、そっちのほうから来たようだけど」

 彼は、ぼそぼそと、定食屋での出来事を語った。

「ああ! あそこの親父は、そういう騒ぎ好きだから」

 運転手は大げささ挙動でうなずいた。

 二十分ほどした頃だろうか、タクシーは古びた旅館の前で止まった。

「ここ。知り合いの経営しているところでね。満杯だったけど、相部屋でもいいといってくれたお客さんがいてくれたらしい」

 運転手が先導し、彼は旅館の中へと入っていくと、初老の女将が出迎えてくれた。

「ええ。この時間ですから、お風呂もお料理も火を落としてしまったんでご用意できませんが、素泊まりの相部屋でよければ、どうぞ。まあ、難儀しているときはお互い様いうことで」

 なにがお互い様なのかはわからなかったが、彼は運転手に料金を支払い、女将の案内するままに、ようやく見つけた寝場所へと赴いた。

「ああ。あんたか。相部屋の人というのは」

 部屋には、彼が相部屋になることを承知してくれたという男が、浴衣姿で膳を前にしてくつろいでいた。

「ぬるくなったビールでよければ、あんたも一杯やるかい?

 女将さん、お手数だが、コップ一つもって来てくれないかな」

 六十がらみの、相部屋の男は聞き上手で、問われるままに、彼は三年前に失業していまの会社に入ったこと、それまでは営業の経験などなかったこと、現在は妻と別居中であること、月々数千円の電気料金を浮かすために十万円以上もする太陽発電システムを買うお客を見つけることの困難さ、などについて語った。

「ああ。人生いろいろあるよねえ」

 男は、うんうんと頷く。

「いや、実はおれも、ここいらの生まれでさ。二十年ぶりに帰ってきたの。

 でもね、母ちゃんは何年も前に亡くなってるし、ガキも小生意気な口きくし。ついカーッとなってねえ。ガキの頭どついて、自分の家に火をつけちまった。ああ。ようやくシャバに出られたってぇのに」

 ……ということは、あの、商店街の裏手で発生したボヤ騒ぎというのは……。

 急に悪寒を感じた彼は、震える声で、「ト、トイレへ」と呟き、席を立ち、部屋の外に出ていく。出てから、トイレの場所を知らないことに気づいた。相部屋の男に尋ねるのも気が進まないので、女将に聞くために一階に降りていくと、玄関に、制服姿の警官がニ、三人いて、女将と話をしていた。

 あまりのことに呆然としていると、ぽん、と、後ろから肩を叩かれ、彼はその場にへたりこむ。

「あんた。おれを売ったな」

 相部屋の男は寂しげな笑みを見せた。

「夜が開けたら、自首するつもりだったのに」

 といい、「逃げるのにも疲れたよ」、と、続けた。

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