誰もが自分のために生きているこの世界で


 復讐なさい。

 そのたった一言、簡単な囁きが、ぼくを変えてしまった。

 それまでうずうずともがきながら小さくなっていた心ははけ口を探していた。感情のはけ口。それも『正当』なはけ口。何も間違っていなくて、そうしても不自然じゃない、当然みたいな心のはけ口。

 そんなものはあるはずがなかったし、あってはならないはずだった。

 怨むこと、憎むこと、怒ること、悲しむこと、寂しいと思うこと。痛いと思うこと。心がそう感じる、ということ。その正当性を証明してはいけない。ぼくはずっとそう思ってきた。

 この感情をたどり、心を研ぎ澄ませていったら、一つの事実が浮き彫りになる。ぼくはそのことに気がついていたんだろう。だから回避してきた。考えることを避けてきた。

 それは、一時的にでもぼくを地獄から救い上げてくれた彼女たちに対しての、最後の想いだった。

 優しく手を差し伸べてくれた黒髪の彼女を怨みたくなかった。

 あなたがぼくを見つけたから、連れ出したから、ぼくは自分の能力を失うことになったし、その後の地獄を知ることになった。そんなふうには思いたくなかった。信じていたかった。間違いだったんだと思いたくなかった。彼女たちによって確かに救われていたぼくの心。その行程を、あの日々を、間違いだったんだと否定したくはなかった。

 間違いだったと。思いたくなかった。

 笑った顔。ぼくに笑いかけてくれたあの微笑みが、もうぼんやりとしていて、思い出せない。名前も。もう、思い出せない。

 

「聞こえていますね。私の言葉が」


 ぼくは、クレプスクルムに来てからこの方ずっと、死なない程度の暴力を振るわれ続けている。言葉の暴力、殴る蹴るなどの苦痛を伴う暴力。薬品による頭が焼かれるような暴力。本当に様々な種類の暴力を受けて、それから、それに似合わない静かな声を聞かされている。

 ぼくは満足に動けない。拘束されていることもあるし、全身の痛みで、指の感覚だって定かじゃない。

 見える景色は瞼を閉じれば遮断することができても、耳に蓋はない。瞼はない。聞こえる言葉に蓋をすることは誰もできない。


「力を取り戻したいのなら、その不幸を受け入れなさい」


 静かな声は言う。ぼくは今までずっとそれに抗ってきた。かつての笑い合った日々。ぼくにとって唯一楽しかった、同じ人間と笑えていた、あの日々。ぼくの中に残った人並みの毎日を過ごせたとき。しあわせだった、あのとき。それを支えにぼくはこの誘惑にずっと抗ってきた。

 日々、その抵抗力を奪われていく。

 彼女たちを怨みたくない。憎みたくない。その思いを奪われていく。


「あなたは誰のせいで力を失ったのですか」

(やめてくれ)

「あなたはどうして今そんなに苦しんでいるのですか。それは誰のせいですか」

(やめてくれ)

「力を失うことがなければ、静かに暮らしていれば、我々に囚われることもなかったでしょう。違いますか」

(やめてくれ…おねがいだ……)


 ぼくは懇願する。動かないからだで、心だけで叫ぶ。

 長いこと受けた苦痛で僕の頭はぐちゃぐちゃだ。薬のせいもあるかもしれない。何をされていてもおかしくないこのからだは、奥底にあるその感情を自覚している。ぼくは必死で抑え込んできた。この声の主はぼくが押さえ込む感情を解放しようとしている。

 ぼくは必死で、必死で抗った。ぼくに残された、人を思う最後の心。人のためを思う最後の心。ぼくが手に入れた、教えてもらった、人を思う心。

 痛みでぐちゃぐちゃにされてしまった心と頭は、新しい型を探していた。


「復讐なさい」


 痛みで、ぐちゃぐちゃになって、原型を失いつつある心は。新しい型を探していた。

 あたたかい。そう感じるものが頬に触れた。そう感じられたことがそもそも奇跡のようにも思えて、ぼくは久しぶりに目を開けてみようと思った。

 薄く確保した視界の先には、殺風景な灰色の部屋がある。様々な拷問器具がある、ということを除けば殺風景な部屋だ。ぼくはどうやら椅子に縛りつけられていたらしい。自分が倒れているのか座っているのか立っているのか、そんなことも分かっていなかった。まるでそういう感覚がなくなったみたいに足元がおぼつかない。

 ぼくの前には、この部屋にもボロボロのぼくにも似つかわしくない、きれいな女の子が立っていた。

 天使。

 一目見て、ぼくはそんなことを思った。

 天使は全体的に色素が薄くて、肌も、髪も、白い色に近かった。着ている服なんて真っ白だ。唯一その瞳だけが赤くて、じっとぼくのことを見つめている。


「復讐なさい」


 天使が、ぼくに、復讐しろと言う。静かな声で、落ち着き払った声で、ぼくの頬に掌を添えて、まっすぐにぼくを見つめて、言うのだ。復讐しろ、と。


「あなたは彼らのことをよく知っている。彼らを捜すのなら、あなたが適任でしょう」

「……、」


 何か言おうと口を開いて、カラカラに喉が渇いていることに気付く。声が出てこないほどに、ぼくの喉は渇いていた。


「あなたが彼らを発見し、拘束できたあかつきには、あなたの立場をお約束します」


 約束、と声にならない声で呟く。天使は頷く。「私の命をもって、お約束します」と。

 天使は、よく通る透明な声で、きれいな声で、ぼくに促す。復讐を。「あなたは充分、彼らに対しての義理を通したはずです。これほどの痛みによく耐えました」そう言って天使はぼくの頭をそっと撫でるのだ。何度も蹴られ、殴られ、薬物で焼かれたぼくの頭を優しく撫でるのだ。


「私が上に掛け合い得ることができたのは、あなたがクレプスクルムの刃として生きるとき、あなたの生命を保障する、というものです。

 このまま自分に向き合わずにいれば、あなたは遠くない未来に死亡するでしょう。

 そうなる前に、自分と向き合うのです。その不幸を見つめ、再び花を咲かせるのです」


 天使の言葉はすっとぼくの頭の中に入ってきた。

 自分のためにいきなさい、と天使は言う。行きなさい。生きなさい。天使は言う。そのために復讐しなさい、と。その気持ちを認めなさい、と天使は。

 ぼくは、涙を流した。その涙にはいろいろな感情が、思いが混じっていた。

 大きく分けて二つだ。

 ぼくはぼくを救ってくれた彼女たちを恨む。憎む。避けてきたその感情に支配されることを望む。その悲しみ。

 もう一つは、こんなぼくをじっと見つめ、頭を撫でている天使への情景。クレプスクルムという最低な場所にいる天使への、優しさをくれた天使への、希望。

 あまりに痛みを受けてきたせいだろうか。それとも、自分が今泣いているせいだろうか。ぼくには天使の背中に大きな翼があるように見えていた。


「復讐なさい」


 天使がぼくに言う。復讐しろと。

 もう名前も思い出せない、顔も思い出せない彼女たちとの、しあわせだった日々。笑い合った日々。

 とっくに色褪せてセピア色になっていた思い出が、完全なモノクロ写真になったとき。ぼくの中でひっそりと花が咲いた。薄い紫のか弱そうな花。そのイメージを見るのはこれで二度目だ。



 ぼくは、彼女たちのことを怨む。憎む。ぼくのために、かつて自分が生きていたその光景を怨む。憎む。

 あの日々のせいでぼくは尊い力を失った。それを取り戻すために、耐え難い苦痛に、死ぬ手前まで耐えた。

 誰もがそうだ。ぼくもそうだ。だから、自分勝手に、自分のために、ぼくは生きる。そのためなら誰かを怨むことも憎むことも仕方がないさ。

 怨むこと、憎むこと、怒ること、悲しむこと、寂しいと思うこと。痛いと思うこと。心がそう感じる、ということ。その正当性。痛みに燃えるこの心の正当性。ミセリアが咲いたのはその証拠だ。

 ぼくは、自ら望んで、クレプスクルムの刃となる。



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