3.
それは不思議な光景だった。
鬱陶しいほど晴れている夏の青空の下を、上下ジャージ姿の
結紅は、ここにはいない。なのに少し先を結紅が歩いている、矛盾した現実。
この辺り、というのに人は含まれず、たとえばコンクリートの路面とか、街灯とか、そういう無機物の記憶、または記録を読み取って、ホロ映像のように具現化している。と彼は言うんだけど…。僕には彼の言葉の半分くらいしか理解ができない。
(無機物の記憶や記録を読み取る? なんだそれ、ゲームじゃあるまいし)
それでも、あの日あの夜、僕の部屋を出て行った格好の結紅が少し先を歩いているのを見ていると、そんなゲームみたいな話でも半分くらいは信じてしまいそうになる。
というか、彼の話を信じなければ、僕の前を歩いている結紅の姿の説明がつかないのも事実だ。
街路樹も減っている町中のはずなのに、蝉の声がここでもうるさい。
じりじりと真上から僕を照らす陽射しは殺人的な熱を含んでいて、コンクリートがゆらゆら揺れている。その陽炎に混じって揺らめく結紅は、駅に向かって黙々と歩いている。
「君さ、ミセリアの種って知ってる?」
蝉の声がうるさくても、冷人の落ち着いた声は僕の耳に届いた。タオルで額の汗を拭いつつ振り返る。暑さを感じていないのか、冷人は涼しい笑顔で僕を見ている。
「ミセリアの種…? 花か何か?」
「違うね。やっぱり結紅から何も聞いてないんだ」
ぐっと唇噛む。そうだよ、どうせ僕は彼女から何一つ聞いてない。
ミセリアの種。花の種って意味じゃないのか。
ミセリア。それが何か見当もつかない。
冷人は晴れ渡った夏空の下をあくまで涼しい顔で歩きながら、
「結紅の言いたいことは僕も理解してるつもりだ。
でも、ここにいる彼は何も知らなくても彼女のことを放っておけないと言う。
大雑把に言えば結紅が彼を巻き込んでしまったわけだから、せめて足手まといにならない程度の知識は持ってほしいんだよね。これから彼女に関わっていこうっていうんだから」
「俺は反対だ。何も知らねェ奴は何も知らないまま、馬鹿でいればいい」
「まぁ、それが本人のためかもしれないけどね。ここは
二人が僕を見る。雷輝は僕を睨んでいて、冷人は涼しい笑顔。
結紅について。知りたいか、知りたくないか。そういう話なら、答えは一つだ。
「知りたい。ユウのこと、なんでもいい」
「それで自分が不幸になっても構わないか」
雷輝が低い声でぼやいた不幸、という予想もしていなかった言葉に、一瞬頭の中に空白ができた。
他人を深く知るということが、幸福とイコールではないことくらい、僕も知っている。
これでも社会人をやってきた。浅く広い人付き合いが一番煩わしくなくて、トラブルにも巻き込まれなくて、そのせいで日常は少し寂しくて物足りないけど、平穏だった。一人の時間が気楽だった。
でも、もうそうは思えないんだ。
たとえ面倒事に巻き込まれたとしても僕は結紅にそばにいてほしいし、できることなら笑ってほしい。きみに笑ってほしい。そのためなら僕はなんだってする。きみが幸せに生きられるなら、僕は、不幸にだってなる。それくらいの覚悟はある。
大げさだって、きみは呆れるかもしれないけど。
「ユウのためなら、不幸にだってなる」
「……馬鹿な奴」
雷輝は呆れた顔で無骨な手を伸ばし、僕の頭をぐしゃぐしゃっと撫でた。それでさっさと歩いていって結紅のホロ映像の隣に立って、微妙な表情で彼女のことを横目で確認し、隣を歩き始める。
なんで今僕は彼に撫でられたんだろう。しかも乱暴に。
くしゃくしゃになった髪を撫でつけていると、冷人がにこりと笑顔を浮かべて僕の左腕を指した。そこには腕時計型の携帯情報端末が、今は腕時計として僕の腕にくっついている。
「雷輝はあれで認めたけど、僕は君の覚悟について、もう少しシビアなことを求めるよ。
それ、今すぐ捨てられる? 自分の手で」
冷人がそれ、で表現しているのはインターフェイスのことだ。生まれたときからそばにある唯一のもの。長年使ってきたからもうボロボロで、買い替えどきが迫っている、僕が持っている唯一の携帯情報端末。
これ一つあれば様々なことが可能だ。地図を出して現在地の確認も、ナビも、ショッピングも、料金の支払いも。これ一つあればなんでもできるのに。これがないと、リアルマネーを持ち歩く手間とか、他の携帯情報端末媒体を持ち歩かないととか、デメリットはあれど、メリットはないのに。
冷人が僕を見ている。君はそれを捨ててまで結紅と関わりたいのか、とその目が言っている。
これ一つあればなんでもできる。日常生活には困らない。
でも、これがあったって、結紅は帰ってこない。彼女には会えない。
……そういえば、初めて会ったあの夜の海で、彼女はこれを投げ捨てていた。そして泣いていた。新調しない方がいい、全部抜き取られる、って言ってたっけ。その言葉の意味も、僕はまだ分からないけど。冷人が僕の覚悟を認めてくれたら、僕はきみのその言葉の意味を知ることができる。
通りかかった場所がちょうど橋だった。
覗き込めば下は川だ。海に繋がっているから少し潮の香りがして、川は緑に濁っていて水中は見通せない。田舎だからきれい、なんて言うけど、田舎の空気も水ももう汚れ始めている。
僕は震える手をぎゅっと握りしめて強く拳を作ってからそっと開き、左手首にいつもくっついている腕時計を外した。
ごくり、と大きく唾を飲み込んで、外した腕時計を握り込む。
大きく振りかぶったとき様々な感情が浮かんだ。でも、最後に残ったのは頭を下げた結紅の姿だった。
あのときは夜だったし、僕は自分の感情の整理で手いっぱいで、きみのことを気遣う余裕がなかったけど。あのとききみはどんな表情で、何を思って僕に頭を下げて、一人夜の中に出て行ったんだろうか。
気付いたら僕は川に向かって腕時計を放り投げていた。唯一の携帯情報端末を捨てていた。
生活防水機能くらいはあるとはいえ、機械だ。ポチャン、と水の中に沈んでいったインターフェイスが使い物にならなくなるまで時間はかからないだろう。ここは海水だろうし、拾い上げたところで復旧も絶望的だ。
水没する直前、インターフェイスが何か言いたそうに光った気がしたけど、気のせいだろう。
僕がインターフェイスを投げ捨てたことで、冷人が表情を緩めた。「充分だ。ありがとう。じゃあ、話すよ。結紅のこと、僕らのこと。それで君が変わらないことを願うよ」
この世界には、不思議な人というのがいる。または、存在した。
それはたとえば『死者と交信できる能力』だったり、様々なものを『透視する能力』だったり、『植物と話せる能力』だったり、『動物と心を通わせる能力』だったり、様々だ。過去のテレビ番組やウェブサイトを調べれば、かつてそういった人々がいた、ということは今でも知ることができる。
そういう人たちは自分で望んでその能力を持って生まれてきたわけじゃない。たいていは偶然、なんらかのきっかけがあってその能力に目覚めた、または気付いたというのが一般的な話だ。
偶然。運命。天命。人によって受け取り方はいろいろあれど、そんな人々が極少数であれど生まれ、生きていた、その軌跡は今も残っている。
世の中の偉い人たちは考えたらしい。その偶然を自分たちで操作できないか、と。
あれば便利なその力を人間の意志のコントロール下に置きたいと考えた人々は、ひっそりと研究グループを募り、ひっそりと研究場所を作った。そこではいわゆる人体実験に近いことが行われたらしい。
実験がどういう過程を辿ったのか、詳しいことは分からない。ただ、その実験は実を結び、結果を生んだ。それを受けて研究所は組織として独立し、その実験成果を世に広げ始めた。
組織の名前はクレプスクルム。表立っては有志で支援者などを集い、必要としている企業や団体に還元するという慈善事業社だ。
イマドキ、金を持て余している一部の人間以外には需要のなさそうな慈善事業。それが国を越えて活動として広まっているというのだから驚きだ。
冷人曰く、クレプスクルムの取引には、それほどの金額が動くのだという。隠れ蓑である慈善事業を行っても有り余るほどの利益があるだろう、と。
「圭紫はさ、好きなときに未来が視れる未来視の力が商品として売っていたらどうする? 好きなときに雨を降らせる力でも、炎を操る力でもいい。しかも手の届く値段で、早い者勝ちで売っているんだ」
「…買う、かもしれないけど」
考えて答えた僕に、冷人は頷く。「そう。買うか買わないかって言われたら買っちゃうよね。つまりそういうこと」と。
まるでゲームみたいな話で、架空の作り話を聞いているようで、あまりしっくりはこない。でも、ゲームソフトを買うような感覚で欲しい能力が買えたら……買えない事情のある人以外、買わないって言う人は少ない気がする。
雷輝の横を歩いていた結紅が立ち止まる。駅構内を見回して、ジャージのポケットをあさった。出てきたのは千円札が一枚と小銭が少し。結紅の所持金はそれだけのようだった。困ったように少し眉尻を下げた結紅は、夜で人も少ない田舎の駅を見渡す。田舎とは言ってもイマドキ自動改札のない駅はない。
自動改札を眺めた結紅は、切符を買うことなく改札に向かって進んでいった。そして、僕らの視界から消えた。
驚いている僕に対して、雷輝と冷人は冷静だ。「力、使ったな」「みたいだね。となると僕で追えるのはここまでか」「乗った電車が分かればいいだろ。さすがに中じゃ一度切ってるはずだ」「かもしれないね」二人の会話についていけない。ただ、結紅が今話していた不思議な力を持っている人なんだ、ってことはなんとなく想像できた。じゃなきゃ今までの話の意味がない。
冷人がいつものいい笑顔を崩して真面目な表情を作った。何かに集中しているようだ。「…最終列車。博多駅行きだ」やがてぽつりとそう呟くと券売機に向かう。僕は慌てて彼についていく。
もしかしなくても。冷人も、そして雷輝も。結紅も。不思議な力の持ち主なんだろうか? だから三人には接点がある。そう考えれば自然だ。
冷人が三人分の博多駅行きの特急券を購入した。当たり前のように手渡されて、乗車代を…とつい癖で左手を見てしまう。もうインターフェイスの電子マネーで支払うことはできないんだった。コンビニに寄ってリアルマネーを引き出して所持しないと。
「で、話の続き。
クレプスクルムは実験を重ねて、ついに人工的な能力の開花に成功した。
必要なのは人間の子供と、能力の源、ミセリアの種。これを埋め込まれた子供がある条件下で能力を発現させる可能性が高いんだ。
なぜ子供かっていうと、人が望むような不思議な力という点において、人間の子供以上に視点を持てる生き物はいないから、だろうね。子供は望みという点において純粋で強欲だから。
そしてもう一つ、ミセリアの種。これが条件が揃うと開花して、能力としてこの世に発現する。
ミセリアが育つのに必要なのは、不幸。不幸せ。強い負の感情がある種の力や願いを渇望することに因果しているんだと思うけど………圭紫、ついてこれてる?」
「ちょっと待ってくれると嬉しいかも…」
冷人は早口ではなかったけど、言ってることがなかなかにぶっ飛んでいて、普段ゲームしている僕でも整理する必要があった。
(ええと。クレプスクルムって組織は、人工的に不思議な力を発現させることに成功して。そのために必要なのが、能力の源っていうミセリアの種と、人間の子供。それから、力や願いを渇望するための環境としての不幸…)
なんとか整理した。ホームに電車が滑り込んできて、夏の熱風に晒されながら、到着した電車に乗り込む。
特急博多行き。
結紅は博多へ向かったのだと冷人は言う。なぜなら、そこにクレプスクルムの支部があるから。結紅はそこへ仕掛ける気なのだ。盗られたものを取り返すために。復讐するために。
昼間の博多行きの電車にはあまり人が乗っていなかった。
雷輝がどかっと席の真ん中に腰かけると、その派手な見た目に乗り合わせていた人が彼を避けて他の車両へ移っていく。本人は不服そうな顔で腕組みしているけど、僕も、彼が知り合いじゃなかったら間違いなく車両を移動している。
雷輝が人払いをしてくれたその向かいに腰かける。背中側から陽射しが当たって熱いというかもう痛いので、ブラインドを下ろした。これで多少はマシになる。
相変わらず涼しい顔をしている冷人は、少し潜めた声で話を続ける。
「で、見事開花したのが僕や雷輝、結紅だ。
それを把握したクレプスクルムが何をしてきたか分かる?」
「えーと…ユウの言葉を考えれば……盗りに、きた?」
「そのとおり。
彼らは勝手にミセリアの種を植え付け、僕らを不幸に晒して能力の発現を促した。それだけでは飽き足らず、僕らからその力まで奪おうとしたのさ。
僕らのこの力は、不幸を代償にして手に入れたものと言ってもいい。たった一つのその力も奪われたら、不幸しか残らない人間は、どうなると思う?」
「…それは……」
どれだけ考えても明るい未来は想像できなかった。
あの夜、海で泣いていた結紅を思い出した。
ああ、泣きたくなって当然だった。結紅が死にたくなっても仕方がなかった。
「クレプスクルムは容赦なくてね。僕らのことを能力を発現させる苗床としか思っていない。だから、用済みな道具は消す。よくても、能力を奪ったあとどうなるのかっていう彼らの研究のための実験体さ」
「そんな…酷すぎる」
「ああ。本当にね。
だけど、僕らだってただ奪われていいように使われてやる気はない。そのために彼らを潰す計画も立てていた」
物騒な言葉と、やわらかい笑顔。その温度差に背中を汗が伝っていった。
車内が極端に冷房が効いていて、寒いくらいだ。
冷人が一つ息を吐いて、座席の背もたれに背中を預けた。「だけど、甘かった。僕らが潰しに行くより早くあちらが仕掛けてきた。そして、結紅が僕らを庇って逃がしたんだ。彼女の能力でね。彼女自身は捕まってしまって、力を抜き取られた」それがあの夜。あの海にいた結紅が泣いていた理由だった。
俯いていた雷輝が顔を上げる。そして「アイツが取り戻したいなら、俺も一緒にやる」と言う。冷人はそれを止めなかった。ただ「難しい状況になると思うよ。僕と雷輝だけじゃ戦力に欠ける」と冷静な視点から意見を挙げた。うぐ、と言葉に詰まった雷輝の視線が泳ぐ。
そこで冷人がなぜか僕を見る。「まぁでも、不確定要素があるからね。勝敗は分からないよ」とにこやかに笑うから、はい? と首を捻る僕。
「君もミセリアの種が埋め込まれている一人だと思う。陽性反応が出たからね」
「は?」
「あー、だから連れて行くって言ったのか…早く言えよ」
「え、ちょっと待った。僕も当事者ってこと…?」
「埋め込まれているだけで、発現はしていないよ。だから僕は君の能力の発現に賭けてるわけ」
そんなことにこやかに言われても困る。とても困る。
困惑している僕を置いて、電車はガタゴトと揺れながら、クレプスクルム博多支部のある博多駅を目指して、進む、進む。
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