2.


 結紅ゆうべにが僕の日常からいなくなって、一日。

 その日は日曜日だった、ということに仕事が休みで気がついた。

 アラームで起こされるいつもの時間に目が覚めてしまうのがもったいなく感じるけど、一週間のうち仕事で起床する時間の方が多いという悲しい現実が生活習慣を作ってしまっている以上仕方のないことだ。

 朝起きて、つい癖でベッドを見てしまう。もう結紅はいないのに。

 当然ベッドは空っぽで、眠っている結紅がもぞもぞと起き出して簡単な朝食を作ってくれる、ということもない。

 ……というか、僕はどうしてベッドで眠らなかったんだろうか。当たり前のようにソファで眠っていたけど…。

 のっそりと起き上がって、寝癖のついている髪に適当に手櫛を入れつつ、空っぽのベッドを一つ撫でた。

 今日から僕はここで寝ていいんだ。うん。

 つけっぱなしだったエアコンを一度切って、結紅の真似で起きてすぐ冷蔵庫を覗いてみる。今日も明日分も食材は適当に買ってあった。野菜も、肉も、調理しないと形にならないものがゴロゴロ入っている。

 料理は、しようと思えばできるけど。できるならしたくはないというのが本音だ。仕事を終えた日は調理なんてする時間も精神的余裕も残ってないし。男の一人暮らしなんてみんなそんなものだろうけど。

 だからってこのまま食材を放置していたら腐るだけ…しばらくはなるべく調理して食べるしかないかなぁ。

 仕方ない。仕事のない日曜日くらいは男料理をしよう。

 久しく握っていなかった包丁を握って、大雑把にキャベツを刻む。こっちはちょっと細かめににんじんとじゃがいもを角切りにして、ボウルにひとまとめに。それから卵を三つ割り入れてよく混ぜて、塩コショウなどで適当に味付け。フライパンに油を垂らして、ボウルの中身を流し込んで、蓋をして、あとは焼くだけ。

 もう少し格好を整えればスペインオムレツ? あれになるのかもしれないけど、僕は効率よく物が食べられればそれでいいから、もうこれでいい。ごっちゃ混ぜにして焼いて食べるだけ。フライパン一つあればおしまい。

 たったこれだけの作業でもうじわりと汗が滲み出している。ああ、夏は嫌いだ。

 睡眠くらい快適に、が心情の僕は、節約も兼ねて、今はエアコンを我慢する。

 出来上がるまでの間、インターフェイスを起動させてホロ映像をON、適当にチャンネルを回してみる。朝だからニュース番組が多い。結紅はニュース番組を気に入らない目つきで睨んでいたから、いつも適当な、何かの再放送とか、そんなのを流していたんだっけ。

 気付くと結紅のことばかり考えている自分がいる。

 結紅、昨日はどこで眠ったんだろう。僕のジャージとTシャツを着ていたから、スリップドレスよりはいろいろと大丈夫なはずだけど。


「ユウ、どうしてるかな」


 ぽつりと独り言をこぼして、いやいや、と頭を振る。

 彼女は僕の助けなんていらないと僕の手を振り払ったんだ。たとえばもう一度彼女と会うことができたとして、僕が力になりたいって言ったって、彼女は必要ないって言うに決まってるんだ…。それが分かっているのにもう一度振り絞るだけの勇気は、僕には残ってない。

 今日が日曜日で休日であることを、僕は初めて呪った。

 仕事がない。時間が過ぎない。貴重な休日であるはずなのにちっとも喜べない。

 時間がある。それが僕が結紅のことを考える理由になってしまっている。今日仕事があったなら、仕事のことで頭をいっぱいにして、夜まで結紅のことを少し思い出すくらいですんだのに。

 なんで今日は日曜日なんだ。どうして結紅のことばかり考えているんだ。どうして。

 どうして、きみは、僕の手を払いのけたんだ。

(…焦げ臭い……あっ)

 はっとしてガスコンロを見に行くとフライパンから少し煙が出ていて、慌てて火を消した。嫌な予感を覚えつつ蓋を取ってみると、フライパンに接している面がこんがり焦げている料理とご対面だ。

 はぁ、と溜息を吐いて、とりあえず中身を皿にうつした。焦げている部分を避けつつ適当につついて食べることにする。

 こたつ机の上で、ざらつくホロ映像のドラマを見ながら一人焦げたご飯を食べる。…虚しい朝だった。



 一週間で一番好きなのは、土曜日の夜から日曜日の夜までだ。そこでさらに絞るなら、土曜日の夜かな。なぜか? 次の日が休みで、仕事がないからが理由。だから日曜日の夜は少し憂鬱だ。なぜか? 次の日から仕事が始まるって分かってるからだ。

 すぐに眠れるのは僕の特技だけど、あまり眠りたくもなくなる。眠ったらもう月曜日になっているから。

 ポチポチと携帯ゲーム機のボタンを押す。一昔前のゲーム機だけど、ホロ投影機を買う必要がないから僕は好んで古いタイプのゲームをプレイしている。この方が何かと低コストだし。まぁ、中古の機体が壊れたらそれまでだけど。

 じりじりと暑くなってきた部屋で、扇風機だけで暑さをしのぎながら、無心になることを目指してポチポチとボタンを連打する。

 僕はなるべく何も考えないことを目標に、今日という休日が過ぎ去って、寝る前は明日からの仕事のことで頭を埋めて、彼女のことを忘れようとした。

 でも、うまくいかなかった。

 あまりに汗をかいていたのでシャワーでも浴びようと着替えを探して引き出しを開けたときに見つけてしまったのだ。結紅が着ていた白いスリップドレスを。


「…………だめだ」


 自分でも渇いていると思う笑いをこぼして、白いスリップドレスを握りしめる。

 結紅を捜そう。きっとまだ近くにいるはずだ。彼女は僕が預けたお金しか持っていない。そのお金だって食材なんかを律儀に買ってくれていたからあまり残っていないだろう。移動手段は徒歩かもしれない。そうしたらそんなに遠くへは行っていないはず。

 決意を固めた僕は、さっとシャワーを浴びた。エアコンを入れた部屋で汗が引くのを待ってから着替えて、少し遠出するつもりでタオルや汗をかいたときの着替えなどを鞄に詰め込んで、結紅捜索の準備をする。

 彼女がいなくなってから気付くだなんて、本当に馬鹿だなと思うんだけど。どうやら僕は彼女のことを放っておけないし、たとえ拒否されたって、傷ついたって、僕は彼女に傷ついてほしくないみたいなんだ。

 僕の心がガラスの破片になって彼女のサンダルで粉々に踏まれることになったって、いい。いや、本当はよくないけど。でも、いいよ。結紅、きみになら、僕は何度だって心を砕くよ。

 どうやら僕は、控えめに表現しても、きみのことが気になって仕方ないみたいだからさ。

 つまり、好きみたいだからさ。だから、きみのことを捜して、止める。

 帰る場所がないって言うなら僕のアパートの部屋を帰る場所にすればいい。狭いし、いい場所に住んでるともとても言えないけど。そんな部屋でもよかったらきみの帰る場所にすればいい。

 そして、きみがそれを望んでくれることを、心から願っている。

 エアコンを切って、ジーパンにTシャツ、陽射し対策に薄手のカーディガンを羽織り、いざ、真昼の夏の空気の中へ。

 ガチャン、と扉を開けて、僕はまず驚いた。そこに結紅が立っていたからだ。僕のサンダルに白いスリップドレス、上にパーカーを羽織っている。「ユウ?」僕は思わず彼女のことを呼んで、それから既視感、あるいは違和感を覚えた。

 今そこに立っているユウは、僕が彼女をここに連れてきた、彼女に初めて会った日の格好だということを思い出す。既視感と違和感の正体はそれだ。


「ビンゴみたいだね」


 横から聞こえた声にはっとして顔を向けると、人の良さそうな笑みを浮かべた好青年がアパートの壁に背中を預けていた。「はい…?」その言葉の意味するところが分からなくて首を捻る。


「ほんと便利だな。お前のソレ」


 反対側から声が聞こえたと思ったら、にゅっ、と結紅を通過して無骨な手が現れた。

 結紅の、顔から、手が突き出ている。その手ががしっと僕の襟首を掴んで玄関から引きずり出した。

 結紅をすり抜けて現れたのは、改造インターフェイスを使っていそうなTHE・不良という感じの青年だ。頭は派手な銀色、瞳は赤。一度見たら嫌でも印象に残る。東京なら違和感なくこういう見た目の人が闊歩しているのかもしれないけど、ここは田舎だし。

 バン、と扉を蹴って閉めた彼は、僕の背中をその扉に叩きつけた。痛い。それでこっちを睨みながら結紅のことを指して「お前、アイツのこと知ってんだろ。教えろ」と低い声で言う。

 いや、ちょっと待って。待ってほしい。頭がいろいろ、追いつかない。


「その、ユウは。何? ホログラム?」


 どうしても気になって、殴られるのを覚悟で訊いてみる。

 銀髪の青年はこめかみ辺りをぴくっとさせたけど、アパートの廊下の壁にもたれたままのもう一人の青年はのんびりした感じで「まぁ、似たようなものだよ」と僕の言葉を肯定した。僕が襟首を掴まれて脅されているという点についてはとくに手助けする気もないらしい。「じゃあ、きみたちは、ユウの何」「なんだっていいだろうが。ぶん殴るぞ」銀髪の青年は気が短いようだ。殴られるのはやっぱり嫌だな…。でもこの二人がユウの何なのか、によって、僕は彼らに話せることと話せないことができてくる。

 僕が唇を引き結んで思考を巡らせていると、動かなかった青年の方が諦めたような息を吐いた。


「あのさ、雷輝らいき。昔の不良じゃないんだからそういう原始的なことはやめよう」

「うるせェ。じゃあお前がやれ。涼しい顔してサボってんじゃねェ」

「はいはい」


 雷輝、と呼ばれた青年が僕の襟首を離した。げほ、と一つ咳き込んで首元をさする。

 雷輝に制止をかけた青年の方がにこりと人のいい笑みを浮かべた。その顔で僕が襟首掴まれて脅されてるのを眺めてるんだから、いい性格してると思う。


「まず、自己紹介かな。そっちの乱暴で短気なのは雷輝。口は悪いし手は早いけど、そう悪い奴でもないよ」

「殴るぞ冷人れいと

「で、僕は冷人。人捜しをしててね。君が知ってる結紅のことを教えてほしい」

「…どうして?」

「どうして、か。そうだな…。

 たぶんだけど、彼女がピンチだと思うんだ。人に迷惑をかけたくないって理由で突っぱねる人なんだけど、まぁ、僕らは彼女に恩があるから。結紅はきっと放っておけって言うだろうけど、放っておけなくてね。だから勝手に助けに行こうとしてるところ」


 冷人、というらしい彼の言葉をうるさい蝉の大合唱の中から拾い上げ、理解するのに少しかかった。

(結紅がピンチ?)

 不安を煽る言葉に覚えがあって、暑さも手伝って、背中を汗が伝い落ちる。

 結紅は言った。『盗られたものを、取り返さなきゃ。復讐しなきゃ』と。

 その言葉の具体的な意味は彼女のことをちっとも知らない僕には理解できなかった。でも彼らなら。結紅のことを知っている彼らなら、心当たりがあるかもしれない。

 二人のことが信用できるかと言われたら、正直よく分からない。一人は銀髪の不良みたいな人だし、もう一人は好青年な顔していい性格してるし。でも現状僕が一人で結紅を捜すより、彼らに協力した方が彼女を発見できるだろうことも分かる。

 僕はカラカラに渇いている喉で、声を絞り出した。


「ユウは、昨日、出て行ったんだ。盗られたものを、取り返さなきゃ。復讐しなきゃ、って言って」


 僕はそれを止められなかった。なけなしの勇気が砕かれて、そのことに傷ついて、動けなかった。結紅を追いかけることができなかった。そんな自分を恥じる。

 もし今同じことが起きたら、僕は今度は彼女を追いかける。絶対に。それでまた傷ついても、僕の心が砕けても、痛くても、彼女を捕まえるんだ。

 僕の言葉に冷人がやっぱりという感じで溜息を吐いた。雷輝がちっと舌打ちして何か言いたそうに結紅のホログラムを睨みつける。「…あの。ユウはやっぱり何か、危ないことをしようとしてる?」そろりと尋ねた僕に冷人の方が首を傾げる。「それを君に言う必要があるのかな」と。

 ああほんと、いい性格してるなこの野郎。情報を引き出せたらそれで僕は用済み、ってか。

 こうなったらもうやけくそだ。

 勇気を出せ。心を死なせちゃ駄目なんだ。息をさせなきゃ。息をしなきゃ。心を動かしたいと、心を傾けたいと、そう思える相手ができたんだから。

 ガラスみたいに脆くて弱い心でも、勇気でも。きみに届くと信じて。


「ユウのことが好きなんだ。だから今から捜しに行こうと思ってたし、きみたちがユウのことを助けに行くって言うんなら、僕もついていく」


 夏の蝉のうるさい叫び声に負けないよう、やけくそになりながら僕も叫んだ。叫ぶというほど大きな声にはならなかったけど、気持ちは叫んでいた。

 冷人はきょとんと目を丸くして、雷輝は逆に目を眇めて僕を見た。結紅に会って間もない奴が何を言ってるんだって顔だ。

 ほんと、僕も自分で自分が不思議だよ。会って間もない人のために行動しよう、なんて。そんなふうに思うことが不思議で。でも、なんとなく、そんなふうに思えたことが嬉しくもあるんだ。

 冷人が考え込むように僕を眺めた。「うーん。一般人が来ても何もできないとは思うけど…」「邪魔だろ。どう考えても」雷輝はズバッと僕を切り捨てた。だけど意外なことに、冷人の方が「連れて行こうか」と言う。雷輝が顔を顰めて何か言いかけるを横目に、発言が撤回されないうちに頭を下げて「お願いします!」と頼み込む。必要なら土下座だってする。僕はもう結紅を思うだけ思ってもやもやした気持ちで時間を過ごすのは嫌なんだ。


「恋は奇跡を呼ぶっていうしね」


 降ってきた言葉に、まさしくそうだな、と思った。

 こんな僕でも勇気を出そうと思えた。きみのために何かがしたいと思った。それがもう奇跡に近い。

 僕と出会ってくれた、きみへ。

 きみのために、僕は今から夏の空の下を歩き出す。

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