1.不幸せだから得るもの

1.


 僕の仕事というのが地味なもので、街頭のホロや町の看板のホロ、その他視覚的効果として建物の内装に使用されているホロの投影機などなど、それらの機材や映像に異常がないかチェックする、というものだ。

 出社したら、まずは自分の携帯情報端末と会社の端末を有線で繋ぎ、担当社と担当地区のメールのチェック。依頼が入っていれば優先して出向く。それが第一に優先させるべき仕事。次に、投影機などの定期的なチェック項目で引っかかった機材の点検作業。これはあったりなかったりするけど忘れちゃいけない作業。

 とくに雨や雪で機材にダメージのいく天候だった場合、機材保有者が気にかけていないと、驚くほどダメージがいっていたりする。投影機のホロ自体は雨だろうが雪だろうが表示されているから忘れがちなんだろうけど、機材は機械なんだから、大事にしてほしいところだ。と、ここ最近雨で機材を故障させたお客を何人か対応した僕は思ったりするわけで。

 僕が住んでいるのはわりと田舎に分類される場所なので、ホログラムを使用している場所はそんなに多くはない。東京なんかへ行けば目が回るほどの仕事量があるのだろうけど。そこは田舎のいいところだ。田舎だから、今じゃ外せない業務でも、比較的楽にこなせる。

 ただ、海が近いから、どうしても潮の影響で機材の調子が悪い、という内容のメールが届くことは多い。今日も三件ほどそういった問い合わせがきている。

 この辺りは漁港もあって海で売り出している場所が多いから、今日も自然と海辺付近を回る仕事になる。

 有線を引っこ抜いてくるくる巻いて鞄にしまう。定期チェックは移動の合間にすまそう。「外回り行ってきまーす」返事があろうがなかろうが出社している人間に声だけはかけて、インターフェイスに該当メールを表示させつつ、電話をかけてアポを取る。

 修理道具は持っては行くけど、酷い場合は専門の修理業者に委託か買い替えが必要で、そういったときのためのパンフレット、レンタルの機材など、一式揃えて回るのはなかなかに大変だ。

 とくに、今は夏。

 暑い。とても暑い。クールビズでネクタイを外していようがスーツであることに変わりはないし、暑い。

 ああ、ほんと、今日も暑い。

 気温が何度か、インターフェイスに訊けばすぐ分かるだろうけど、知ったところで暑さも変わらない。むしろ知らない方がいい。

 ジーワジーワジーワと蝉がうるさい中、投影機が入って重たい鞄をぶら下げつつ、自分の車に乗り込む。

 今日は三件の海辺のホロ投影機を見て回り、一つは修理、一つは分解しての丁寧な掃除で直った。

 もう一つが僕の手に負えないタイプの大きめの投影機だったので、会社に持ち帰ることにして、代わりにレンタルの投影機を使ってもらうことにする。表示するデータは移行すればいいだけなので問題ないだろう。まぁ、ちょっとホロ看板のサイズが小さくなるけど。

 そうして外回りの仕事を終えて、コンビニに寄り、炭酸飲料とサンドイッチを購入。しゅっ、と小気味いい音を立てて蓋を捻り、中身を呷る。

 うん、うまい。夏はやっぱりこの喉越しだな。

 昼飯代わりにサンドイッチをかじりながら会社に戻り、インターフェイスを繋いで、投影機の修理の案件をあげておく。そしてまたメールのチェック。夏は一番機材の故障が多いから気は抜けない。機械は暑さが苦手なのだ。とくに、暑さと湿気でダブルパンチを食らわせてくる日本の夏は大敵。

 予想どおり、一件暑さで故障したのではないかというメールが入っていた。また外回りだ。会社の自分の席に座っている時間なんてそうはない。

 これが、どこにでもある、退屈な社会人の仕事風景。

 うんざりするほどに当たり前の日常。嫌気がさしていた、明日も明後日も繰り返される毎日。

 だけど、今の僕には、仕事を終えたあとにささやかな幸福が待っている。


「おかえり」

「ただいま」


 狭いアパートの一室は少しきれいになって、それから少し狭くなった。

 きれいになったのは、散らかっていたゴミや洗濯物がなくなったから。狭くなったのは、僕の他にもう一人、同居人がいるから。

 結紅ゆうべにはジャージ姿で僕を出迎えた。おかえり、と。そして僕は彼女にただいま、と返す。

 結紅は、あれからずっと僕の部屋に居座り続けている。そして、僕は彼女を追い出そうとしない。

 お金を預けて行くと、結紅は冷蔵庫を食材でいっぱいにし、必要なら消耗品の補充もしてくれている。そして、帰ったら彼女のご飯がある。それが僕の今の日常だ。

 今日のメニューは白いご飯にハンバーグ、野菜の付け合わせ。

 ずっとコンビニかスーパーの弁当ですませてきた僕にはありがたすぎるご飯だ。


「ユウは料理上手だね」

「そう? 普通だよ」

「おいしい」

「当たり前。レシピどおりに作れば、誰だってこの味になるよ」


 というのが結紅のいつもの言い分で、おいしいと素直に褒めても彼女は喜ばない。むしろどこか拗ねたような顔さえする。女の子って難しい。

 僕は、結紅の笑った顔を見たことがない。

 僕が仕事に出ている間、彼女は何をしているんだろうか。何を思っているんだろうか。

 一度だけ結紅がシャワーを浴びている間に部屋の中の金品がなくなっていないか確かめたことがあるけど、イマドキみんなリアルマネーよりも電子マネーを使う時代だ。金品、と呼べるような高価なものが僕の部屋に存在しているわけもなく、また、なくなっているな、と思うものも心当たりはなかった。結紅が思うままに片付けたから、どこに着替えや床に散乱していたものがあるのかよく分からない、というのはあるけど。

 彼女が濡れた髪をドライヤーで乾かし終えた辺りで、僕は彼女に話しかける。


「ユウはいつも何してるの? 僕が仕事に行ってる間」

「家事」

「えーと…それはその、やらなくてもいいんだよ? ご飯は、コンビニ弁当でよければ買ってくるし。掃除はほら、まぁ汚くても僕は構わないし。家事だって別に、助かってるけど、しなくてもいいんだよ?」

「………わたしに出て行けって言ってる?」

「出て行けっていうか……帰る場所、本当にないの?」


 僕が気がかりなのは一点だ。

 結紅が僕の部屋に居座るようになって、なんだかんだでもう一週間近くになる。

 仕事から帰れば結紅がご飯を作って待っていて、相変わらず僕はソファで、彼女はベッドで眠る。そんな毎日に疑問を持たなくなってきた。それがマズい、と思う。僕らは友達でも、ましてや恋人でもないのだ。

 結紅。きみにどんな事情があるのか、話してくれないから、僕には分からない。きみにとってこの生活がどんな意味を持つのかも、僕には分からない。

 できるならきみのことを守ってあげたいと思ったのは今も本当だ。

 だから。

(ちゃんときみの話をしてほしい。どんなことでも驚かないから。話してくれたら、僕は全力できみに協力するから)

 結紅は黙り込んだ。それなりに長い間。

 僕はテレビも置いてない自分の部屋を呪いつつ、沈黙に耐えかねて、腕時計型のインターフェイスを起動させる。適当なテレビ番組をホロ表示させ、こたつ机の上に置いた。

 かなり年季が入っている僕のインターフェイスはノイズ混じりの音声を吐き出し、ホログラムの映像も粗が目立つ。そんなものでも突き刺さる沈黙の痛さをやわらげる効果くらいはある。

 やがて、見るともなく眺めていた番組がCMに入った。新しいホロ投影機のCMに仕事を思い出しかけて視線を外す。

 その先で、結紅は沈んだ表情をしていた。


「そうね。わたしに、こういうのは似合わない」

「…ユウ?」

「わたしには、帰る場所も、持つべき日常もないけど……それでもしたいことなら一つある」


 彼女は立ち上がった。その瞳には今まで見たことのない強い感情が宿っていた。出会ったときのあの儚さとは真逆の意志。

 ……嫌な予感がした。

 僕は、彼女に僕を頼ってほしかった。そうしたら僕も心置きなく、疑問に思うこともなく、結紅のために力を貸そうと思えた。

 僕は自分が不安だったから、その不安を彼女に消してほしかった。

 そんな理由で、彼女の中の深淵のスイッチを押してしまった。


「盗られたものを、取り返さなきゃ。復讐しなきゃ」


 物騒な言葉をこぼしてふらりと玄関に向かう結紅に、慌てて立ち上がる。「待ってユウ、僕が言いたかったのはそういうことじゃなくて」「ううん、これがわたしのすべきことだった。したいことだった。でも、逃げてたのね。ケイが気付かせてくれたの。ありがとう」結紅はもうサンダルに足を突っ込んで玄関の扉を開けようとしている。

 違う、と僕は頭を振る。

(違う、違う違う違う! 僕はそんなことがしたかったわけじゃない!)

 僕はただ、きみに、頼ってほしかっただけで。きみが助けてほしいと一言でも僕にこぼしてくれれば、僕は何も迷うこともなくきみのためになる、その勇気がほしかっただけで。少し背中を押してほしかっただけで。きみを追い詰めるつもりじゃなかった。追い詰めるつもりじゃなかったんだ。

 雑巾みたいに心をぎゅっと絞って、勇気を絞り出して、僕は彼女の手首を掴んだ。

 エアコンの冷たい空気に晒されて冷えた肌だった。

 力加減を間違えたら脆く崩れてしまうんじゃないか、と思うような、細い手首。女の子の。

 言うんだ。ちゃんと。もう結紅を追い詰めちゃ駄目だ。僕は彼女を助けたい。だから、ちゃんと、自分で言うんだ。心を雑巾のように絞って、勇気を絞り出せ。


「僕は、きみを、たすけたい」


 なけなしの勇気で吐き出した言葉は少し震えていた。

 僕の手を振り払おうとしていた結紅の動きがピタリと止まる。

 でも、彼女は僕の手を振り払った。ぱしん、と乾いた音が響く。


「わたしは、誰の助けもいらない。必要ない」


 ……結紅は強かった。僕が思っているよりもずっと。

 彼女は一度も、助けてほしいと、言わなかった。僕に助けてほしいとは言わなかった。

 ガチャン、と扉が開く。夏の夜の生ぬるい空気と蝉の合唱声が部屋に入り込む。彼女は躊躇うことなくその空気の中へ踏み出し、動けない僕を振り返って、ぺこりと頭を下げた。長い黒髪がさらさらと揺れる。


「だけど、あなたは助けてくれたのよね。ありがとう。お世話になりました」


 バタン、と扉が閉まる。ざりざりとサンダルの足音が遠ざかる。

 僕は振り払われた手でぐっと拳を握って、自分の膝を殴った。

 拒絶されて。動けないなんて。子供じゃないんだから。今すぐに結紅を追いかけて、復讐しなきゃなんて言っていた彼女を止めなきゃ。引き止めなきゃ。

 そう思うのに、心は傷ついていた。絞り出したなけなしの勇気が叩き壊されて、その破片が足元に散らばっていて、動けない。

 普段からもっと心を動かしていたら。勇気ってものを持てる自分だったなら。それの使い方を知っている自分だったなら。こんなとき、すぐに行動して、結紅、きみを。

 結紅。


「ユウ」


 呼んだところで、彼女が戻ってくる気配はない。

 扉の外からは、夜でも鳴き止まない蝉のくぐもった声がここまで届いている。

 僕は力なくうなだれたまま、叩き壊されてガラスの破片のように散らばった勇気を眺めていることしかできなかった。


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