花絵と会った夜から、2週間ほど経っていた。


 うちの会社でちょうど新しいプロジェクトが始まり、にわかに仕事も忙しくなった。その間は社内で適当な昼食ばかりとっていたため、黒崎君と会うチャンスはまだ作れていなかった。

 彼の連絡先は知っていたが、そんなに簡単に済ませられる話でもなく、俺自身にもあれこれ考えている余裕はなかった。


 花絵からは、数日前に連絡があった。

「例の件、ヒロは大歓迎だって〜☆」

 というLINEメッセージと、サルが手を頭上に丸めて「OK!」というポーズをした能天気なスタンプが貼ってあった。


 やっと仕事が落ち着き始め、昼休みに急ぎ足で「Cafe Algorithm」へ向かった。「アルゴリズム」とは、”数学やコンピューティング、言語学その他関連分野において、問題を解くための手順を定式化した形で表現したもの”を指す。……by Wikipedia。


 しばらく昼間外に出ないでいるうちに、空は明るい春の色になっている。


「永瀬さん!」

 店に入ったとたん、窓際の席から声がした。

「最近来ないから……どうしたのかと思ってました」

 黒崎君だ。すごく久しぶりな気がする。少し怒っているみたいだ。


「……よかった、いなくなっちゃったんじゃなくて」

 次の瞬間、笑顔になってそう言った。雲間から太陽の光が溢れ出す——そんな笑顔だ。そして、あの夜頭を離れなかった瞳。


「……うん、しばらく仕事忙しくて」

 俺は、彼の笑顔を直視できずに、ぶつぶつと返事をした。心臓が異常にバクバクしている。

 ……まずい。あの日花絵に言った自分の言葉のせいで、超ギクシャクしてるぞ、俺。


 黒崎優君は、深いグレーにブルーの混じり合った不思議な瞳の色をしている。

それが、切れ長の涼しげな目元とよく調和している。

 北欧系の……どこか異国の血が流れているのだろうか。透き通るように白い肌と、明るい栗色の髪。そう長身でもなく華奢な体つきは、スタイルの良さよりも儚さを感じさせる。

 雪の世界に住む、美しい動物を思わせた。


「黙って急にいなくなったりしないだろ。ははっ」

 変なバクバクをごまかすため、今度は平常を装い元気に笑ってみる。最後の笑いはミッキーマウスのようになった。


「ふうん……なら安心しました」

 血色の良い、美しく描き込まれたような唇が動く。


 彼が望むなら、俺が側にいてやりたい——あの夜、俺は花絵にそう言った。


 あの時は、気分が高揚かつ混乱して、そのまま会社のプロジェクトに突入したりして、自分の心理面が全く整理できていなかったことに、今気づいた。

 そこにこのキラキラな感じのオーラを全開にされては、ますます収拾がつかない。


「……黒崎君、あの、実はちょっと話があって……」

「なんですか?」

 俺は、適当にカフェオレとサンドイッチなどを頼んでから、例の話を切り出した。

「あの……近いうち、引っ越しできる?」

「は??」

「あっ、いやそのあれだよ、えー……もし君が嫌じゃなかったら……俺たち一緒に住まないか?と思って……」


 黒崎君は、コーヒーを口に運びかけて固まっている。

 ……確か今、俺明らかに言い方まちがえたよな?第一、俺自身まだ混乱中だし……

「……」

「ごめん! 意味わかんないよな? 順序よく話すから、最後まで聞いてくれる?」


 俺は、彼と自分自身を落ち着かせながら、説明した。自分と、その彼女と、彼女の親友と、4人で共同生活をするのはどうだろう?という提案について。


「……どうして、そういう企画ができあがったんですか?」

「んと……この前彼女に、君の話をしたんだ。前に話したことあったよね、彼女のこと。そしたら、その彼女の能天気キャラが爆発した……というのか……みんなで暮らしてみたら絶対楽しい、って」

 詳細は省いた。しょっぱなからそんなヘビーな話できるはずがない。


「……で、どうだろう……?」

 おそるおそる、彼の顔を伺った。

 黒崎君は、表情も変えず黙り込んでいる。

「ありえないだろ〜」とかいう返事なんだろうなあ、きっと……



「……嬉しいです」

 !?

 嬉しい、と言ったか、今!?

「僕、そんなふうに誰かと一緒に過ごせるなんて、ほんとに初めてで……

今まで、周りにいる人に関心持ったことなんかなくて……どんなに周りががやがやしてても、ひとりだったから……」


 ……やっぱり、そうだったんだ。

 やっぱり、これ、よかったんだ。

 すごいぞ、花絵!!


「これからは、ここで待ってなくても、永瀬さんの顔見られるんですね」

 次の瞬間こぼれた笑顔に、新たなざわつきが一瞬頭をよぎった……が。

 俺たちは、確かにいい方向に一歩進んだ。……ような気がする。

 そういう思いが、俺の不安定な動揺を鎮めてくれていた。

          


          

        

 それから1週間後。

 俺たち4人は、居酒屋の個室で初めて顔を合わせた。

 会の企画と進行は花絵である。


 ずっと気になっていた佐伯ヒロという女性は——花絵の言った通り、すらりとした長身のずば抜けた美人だ。

 ふちの太いメガネをかけ、長い黒髪をオールバックにして無造作にポニーテールにしているが、その美しさと知的な雰囲気は全く損なわれていない。おまけにボディラインも完璧だ——花絵が惚れるのも納得がいく。


「じゃあ、まず自己紹介。拓海からね」

「えー、永瀬拓海、26歳。普通のサラリーマンで……SEやってます。で、本と宇宙が好き……ぐらいかな。よろしく」

「私は、真木花絵。拓海と同い年で、百貨店に勤めてて……今は拓海とつき合ってます。多分4人の中で、一番能天気で騒がしいヤツね。よろしくね」

「佐伯ヒロ、26です。設計事務所で建築士やってます。花絵の昔のカレシです。人見知りだけど、危害は加えませんのでよろしく」

 ここで、黒崎君の眼が「えっ」となっている。……それはそうだ。


「そう、私とヒロは、高校時代につき合ってたの」

 花絵が、明るく話す。

「私ね、父の暴力が原因で、男性恐怖症なの。そんなふうに見えないでしょ?

でもね、ずっと男の人が怖かった……高校でヒロに出会って、初めて恋が実ったってわけ」

「私は、最初から花絵しか見えなかったし。今もそう」

 佐伯ヒロさんも、さらっとすごいセリフを言う。


「でも、花絵が今幸せなら、私は花絵の親友でいるつもり……幸せなら、だけどね」

 一瞬、彼女の視線が俺に向いたような気がした……と、危うい空気を破り、花絵が続ける。

「じゃ、黒崎君の番ね」

「僕、黒崎優です。21歳、大学生です。児童養護施設で育ったので、父も母も知りません。……で、僕も、女性は愛せません」

「そっかー、じゃみんな同じようなモンね」

 ……花絵のサバサバしたまとめぶりも半端じゃないが。

「すごい綺麗ね、きみ。何かの精?」

 ヒロさんが黒崎君を見つめ、冷静に問いかける。

「何かの精って……ヒロ、それ真顔で言う?」

「いえ、客観的な意見を言っただけ」

 俺の密かな心配をよそに、すでに黒崎君の容姿で場は盛り上がりを見せている……。


「でも、花絵さんは、永瀬さんとつき合ってるんですよね?」

「あ、彼はね、特別なの。女も泣かないようなとこですぐ泣くから」

「……はいはい。そうですね。星観て泣くヤツなんて俺くらいですよね」

「あ、永瀬君怒ってるの? 今のは花絵に褒められたんだよ?」

「そうだよね! ヒロはやっぱり賢いなー」

「俺これから絶対いじられ役だ……」


「……初めてです、こういうの」

 黒崎君が、ふっと嬉しそうにつぶやいた。

一瞬静まり……みんなでなんとなく笑顔を見合わせた。


「よし、じゃ、みんなの通勤通学に困らない部屋、早速探そう!……まあ、安いとこだね。家賃は3人で割る! 優君は無料だよ〜」

「あっそれはダメ……」

「黙ってお兄さんお姉さんに甘えなさい!」

 女は強い。むちゃくちゃ強い……。


 こうして、明るく和やかな共同生活が幕を開ける……どころか、俺たちは次第に荒れてゆく海へと漕ぎ出したのだった。



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