覚えてる。

別に彼だけじゃなかった。

本気でもなかった。

誰でも良かったかもしれなかった。


でも、彼だけ。あなただけが、言ってくれたのよ。





「この本さ、どこに売ってんの?」


彼がその言葉を私にかけたのは、ちょうど秋の、すごく冷たい風が部屋に差し込む、朝方のとても穏やかな時間帯だった。


「えっと、何処だったかな?忘れちゃった。適当に入った古本屋さん…かな?」


私は少し乱れた自分の髪をさらにくしゃくしゃにしてみた。

焦りを、自分の表情の変化を、髪の毛に彼の視線がいくようにして隠したかったのだ。


「へえ。続きとか、あんのかな?1って書いてあるし、きっとあるよな、これ。」

「そうだね。あるんじゃないかな。でもそれ、ほんとに隅っこにあったやつだから、もう廃盤かもね。」

「そうなんだ、残念。面白かったのに。こういうのがさ、なくなっていくから、世の中ほんと理不尽だよな。良いものはさ、しっかりと残していかないと。それが一番大切なことだろ。俺はそう思うんだけどな。」

「そう…だね。」


その本は、私が自主出版した作品で、それは残りの一部で、それは自分用に取っていたもので、私はその言葉で、全てが救われたような気がした。

メールやレビューでくるネット上の文字での評価は確かに嬉しかったが、直接言われる感想がここまで嬉しいとは、正直私には夢にも思っていないことであり、私は純粋にその言葉が嬉しかった。

たとえあなたが、何気なく発した言葉だとしても、私に、小説家を目指していた私には、とても嬉しかったのだ。


「いい加減にこれ、外してくれないか。頼む。」

「人にお願いをする時は、そういう風に言わない方がいいんじゃないんですかね。」

「……」

「ほら。何か言いたいことがあるのではないですか?」

「これを外して下さい。お願いします。」


こんなことをしたかったんじゃない。


「聞こえないですね。」

「う…これを、外して下さい。お願いします。」

「聞こえないですね。もう一度。」

「これを外して下さい。お願いします。」

「もういち…」

「お願いします!これを!外して下さい!お願いします…どうか…頼む…」

「頼む?」

「どうか、頼みます…」


こんな声を聞きたかったんじゃない。


「いいですよ。外しましょう。ただし、その手のやつ、だけです。」

「お前まじでふざ…」

「口の利き方には気をつけた方がいい。あなたは余計なことを言いすぎる。独り言も多い。寝言もね。」

「何言って…」

「世の中には様々な便利な高機能な物がそれはもう数多くありますからね。」

「お前、まさか…」


こんなことをしようと思った訳じゃない。


「何言ってるんです?私がされたことがあるんですよ。大変なんですよ、売れっ子小説家というのはね。」

「さっきとキャラ違うく…う!」

「キャラではないです、個性と言いなさい。全くこれだから語彙力の乏しい人は困るんだ。」

「外せよ。何でもするから。まじで頼むよ。」


そんな言葉が、そんな台詞が聞きたいんじゃない。なかったはずなのに。

こんな状況に追い込む気など、きっとなかったはずなんだ。なのに何でいつも私はこんな…


「面白かったよ。お前の小説。それだけは、よく覚えてる。」

「え。」

「あれ、お前のだったんだろ、前に読んだあの、タイトル忘れたけど、表紙はよく覚えてるよ。花柄のすごく印象的な色だったから、良く覚えてる。」

「薔薇だよ。」

「そうだな。良く覚えてる。綺麗だったから。内容もちゃんと、だからそれだけはまじで覚えてるんだ。」

「そうなんだ。」


私はまた、この人の言葉に振り回される。この人の態度に振り回される。

それでもいいと、少しだけなら、それでもいいと、思ってしまう。思ってしまった。


「亮ちゃん。」


私はまた、この人の名前を呼んだ。


「何だよ。」

「私の名前、覚えてる?」


私は、可能性を信じた。

少しでもいい、ちょっとでもいい、名前の一欠片でも覚えていてほしいと、思ってしまった。


「ごめん。」

「やっぱり、外すの止めますね。」

「おい!待ってって…おい!」


どうやら夜は、これからのようですね。

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