「お勤めの時間です」


そう言って自室の扉が開いたのは、オレの数えで73日。二月半経った時だった。

やっと開いた扉に、止まっていた血液が急激に動き出したかのように心臓がせわしなく動く。

震える足を何とか動かし、いつもの王子の寝室へとたどり着き扉を開くと―…そこには既に王子の姿があった。



「アルタイル様…!」

数か月ぶりに見る王子。

ソファーに腰掛けてるその姿はいつもの王家の服装と違い鎧姿で、そして日に焼けたのか、真っ白だった肌が少し小麦色になっていたため、やけに逞しく見えた。

オレの声にすぐに立ち上がった王子は、駆け寄るオレの方へガチャリと鎧を鳴らして歩み寄ると

「……今帰った」

そう言ってオレの頭と頬を撫でてから、目元に溜まってしまっていた涙を優しくぬぐってくれた。

少し触れられただけなのに久々に感じる王子の体温をやけに強く感じて、本物のアルタイル様だぁ…と実感する。


「っ…お帰りなさいませ…どこもお怪我はされてませんか?」

見える範囲に怪我は見当たらなかったが、鎧で覆い隠されたその下のことまでは分からない。

不安になりながら視線を王子の体中に彷徨わせていると、王子がふっと微笑んだ。

「どこにも怪我はない。私…ではなく、この国の兵士は優秀だからな。傷一つ付かなかった」

(よかった…)

ほっとした途端に、ぶあっと涙が溢れる。

王子の無事を願って信じていても、1人きりの閉じ込められたあの空間の中では…どうしても不安になって、最悪の想像をしてしまうこともあった。


「…すぐに帰ってくると言ったのに、遅くなってすまない」

「……いえっ…ご無事で、本当に良かったです…」

(よかった…よかった…)

溢れ出る涙を手のひらや袖で必死に拭っていると王子が鎧をガチャガチャ鳴らしながらオレの背中をぽんぽんと摩った。


「少しでも早くと急いだのだが…この格好だと抱きしめることもままならないな。着替えついでに湯浴みをしてくる。少しだけ待っていてくれ」

最後にもう1度優しくオレの頭を撫でてからガシャガシャ音をたてながら動き出した王子の足は、廊下へと続く扉ではなく、この部屋に備え付けられている浴室へと向かっていた。

「っ…お背中、流しましょうか…?」

初めての出来事に慌てて声をかけるが

「1人で大丈夫だ。お前は布団に入って待っていろ」

そう言って王子は一人浴室へと消えていった。




そわそわ…そわそわ…

久しぶりの王子との夜に、どうにも気持ちが落ち着かず、心臓が信じられないほど煩く素早く鼓動を鳴らしていた。


(アルタイル様がここの浴室使うのは初めてなのに…オレ本当に何もしなくていいのかな…?)

(やっぱり背中流した方が…いや、でも断られたのに行くのは逆に失礼なのかな…いやでも…)

ぐるぐるぐるぐる同じことが何度も頭を巡っているうちに時間はしっかり進んでいたようで、ガチャリと浴室の扉が開き、湯気にまみれたアルタイル様が姿を現した。


「…っ」

湯船であたたまったその体は赤く色づき、蒸気を滴らせた肌に綺麗な白金の髪がしっとりと濡れている様は、男のオレから見ても見惚れてしまうほど美しかった。

「待たせたな。…まだ布団に入ってなかったのか?」

「あ…えと…っ」

王子は微笑んだままため息をついて、そのままオレに近づいたかと思うとオレを抱き込むようにしてベッドの中に入った。


「アルタイル様…」

「………」

しばらく無言のままぎゅうっぎゅうっと、まるで自分が求められてるのではと錯覚してしまうほどキツく抱きしめられ、一瞬呼吸の仕方も忘れる。


「…私がいない間、ゆっくり休めたか?」

しばらくの沈黙の後突然ぽつりと王子が耳元でそうささやいたので、オレは無意識に王子の腕をぎゅっと握ってしまった。

「いえ…なんだか気が気じゃなくって……アルタイル様にもしものことがあったらどうしようと…とても不安で、怖かったです。…あと、寂しかったです」

どぎまぎしながら馬鹿正直に答える。

何の娯楽もなく話し相手もいないあの閉じられた空間で、何ヵ月も日にちを指折り数え、なかなか戻ってこない王子の身を案じることは…正直、気が狂いそうになるほど怖かった。


「…そうか」

王子の抱きしめる力が強まった。

この部屋に来るだけで早まっていた鼓動が、触れられる度にどんどん早まり、今にも壊れてしまうんじゃないかと思うほどにバクバクしている。

「…私もあまり寝付けなかったが…今日は久しぶりによく眠れそうだ」

そう言って王子がぐっとオレを引き寄せたので、オレは王子の胸元に抱き付くような形になる。

「こうしていると安心する…」

「……」


どくんどくんと、王子の心臓の音が聞こえる。

人のものをこんな風に聴いたことはないので、その音が他と比べてどうなのかよくわからないが、王子の心臓は大きな音をたてているけどテンポはいたって普通で、オレのように早まるってるようには思えなかった。


(…オレはこんなに、緊張しているのに…)

自分がこんなに心臓が壊れそうなくらい早く強く鼓動を打っているのに、王子はオレに安心してドキドキすることなんてないのだと思うと…王子と再会してあんなに嬉しかった気持ちが、嘘みたいに沈んだ。


(王子が従者のオレなんかにドキドキする訳はないのに…)

…ただの従者なのに、自分はなんておこがましいのだろう。

疲れているのか、あっという間に呼吸を落ち着かせて寝てしまった王子。

その綺麗な寝顔を見て、なぜかぎゅうっと胸が締め付けられる。

この苦しい胸をなんとかしたくて、寝てしまって意識のない王子に自ら抱き付くが…もちろん寝ているから抱き返されることなどなくて。

こんなに近くに触れているのに、なんだかひどく空しかった。





そんなオレの気持ちを知ってか知らずか、王子が戦地から帰ってから、オレと王子の関係は少し変わった。


「お前の出身は北の方だったか?私は北の方に行ったことが無くてな…どんなところか教えてくれるか」

「はい。えと…私の出身地は北のはずれで、とても田舎なのですが…自然がいっぱいで、とても綺麗です。山も海も空も澄み渡っていますよ」

「ほぅ…海か。王都には海がないからな。私はあまり見たことが無い」

「そうなんですか?私は子供の頃よく泳いだり魚を捕ったりしていました」

「自分で捕れるものなのか?それはすごいな…」

「普段は釣竿で釣るのですが…海に潜ると、北の海にしかいない魚もいるので、とても楽しいですよ」

今までのように寝室に入ってすぐ寝巻に着替えて布団に入るのは変わらないが、歌の前後に会話をするようになった。


今までほとんど会話などなかったのに、故郷や家族、幼少期について聞かれたり、時には王子自ら自身のことを話してくれることもあった。

本来従者のオレが、王子やその周囲のことを詮索することは規律違反だが、それでもどうしても気になって、

「戦はもう完全に終結したのでしょうか?もうしばらくの間アルタイル様は戦地に赴くことはないですか?」

と、失礼を承知で聞いても王子は気にした風もなく、

「あぁ。南は完全に落ち着いたし、他の地域も今のところ何もない。しばらくは平和が続くだろう」

そう言って優しく微笑んでくれた。


「……よかったです」

以前は無表情だった王子が最近よく微笑むようになって、その度にオレの心臓がどくりと不自然に脈を打つ。

会話が終わり、眠りにつく時にはいつも抱きしめられる形になるので、王子の胸にすり寄るように胸の鼓動を確かめるが、王子の鼓動が早まることは1度もなくて、その事実に手で思わず抑えたくなるほど胸がぐっと締め付けられた。



以前から王子に抱きしめられることに、慣れるどころか、日に日に鼓動が激しくなる自分に気づいてはいたが、

最近度々胸が苦しくなるのをうけて…オレはようやくその理由に気がついた。

いつから、どうして…

そんなことは分からなくても、この気持ちが何なのかなんて、王子に会うたびに嫌なほど思い知らされた。


だけど、こんなに側にいても王子の鼓動が高鳴ることはない。

抱きしめ合っても王子がオレに手を出すことはないし、色んな話をしても奥方様の話だけは決してされない。


自分がどんなに王子に思いを寄せようとも、王子と親しくなり、抱き合って眠ろうとも…オレは夜伽の相手なのに、奥方様の代わりにすらなれない。

どんなに頑張ってもオレは所詮、ただの従者でしかないのだ。



(こうしてられるのは、あとどれだけなんだろう…)

今日も安らかな寝息を立てて眠る王子を起こさぬよう、静かにそっとしがみつく。


奥方様が子供を産むまでの約9ヵ月。

その期間だけ自分が耐え忍べば、家族が幸せになると思ってこの道を選んだ。

だけどいつからか…

この仕事が、王子と供にいるこの時間が、楽しくて、待ち遠しくて、切なくて…


(いつまでもこの時間が続けばいいのに…)

オレがどんなに願っても、いつかは終わりが来ると分かっていた。

だけどどうしても、願わずにはいられなかった。

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