(転調)
ただ、“音”だった。
e8e8eg+<b>d+e8e8e8eg+<b8b8bf+b>d+<b8b8b8b>cc+8c+8c+d+g+c+c+8c+8
空気が波を形成し、蝸牛がそれを受容して脳に伝達するという、物質的なプロセスさえ存在しない、純粋な知覚としての“音”
それが世界の全てだった。
その知覚の主体は、現象を伴わない“音”のみで満たされた
散在する“音”から、共感覚の経路を逆に辿って現象を『連想』する。色を、匂いを、感触を、味を、あるいは違う音を。
それは、ネイティブではない言語をヒアリングするのに似て、非常にもどかしい作業だった。
c+8c+d+<a8a8a>a8c+<b8b8
手当たり次第に情報を取り込んで、希薄になりつつあった自我を補強していく。やがて、手近な“音”から自身の過去に関する記述を拾い上げた。
自らの記憶を客観的に意識へ投射する。
中村ヒロトがそこに居た。
記憶の中のヒロトは、幾分か疲労している様子だった。それは、サナの葬式から帰ってきた直後のヒロトだった。
リビングで座って、身じろぎもせずに虚空を見詰めている。やがて、その足元に猫が擦り寄ってきて鳴いた。緩慢な動作でそれを見下ろすと、立ち上がってキッチンへ向かい、猫の食事を用意する。しばらく餌と格闘する猫を眺めたあと、冷蔵庫からコンビニ弁当を取り出してレンジで暖め、自らの食事とした。
b>d+<b8>e8e8eg+<b>d+e8e8e8eg+<b8b8bf+b>d+<b8b8b8b>cc+8c+8c+d+
一口二口食べたところで、やおら口を押さえて立ち上がり、トイレに駆け込む。食べた物を、全て吐き出してしまった。
音が、聴こえない。
コンビニ弁当の味など、そもそも大して良質の音を生じさせるようなものではなかったが、それでも普段何気なく聞いている音を全く感じないというのは、ヒロトにとって味覚の半分を喪失したに等しかった。
味覚だけではない。サナが死んだという知らせを受けてから、世界からあらゆる音が消え失せていた。
乾いた世界。灰色の世界。ヒロトにとっては、無音の世界。
何よりも苦痛だったのは、音を感じなくなったからといって、生きる上では何の不自由も無いという事だった。
失くした知覚はあくまで余剰であり、本来なら不必要なものだったのだ。
一体なぜ、そのような知覚を得て今まで生きてきたのだろう?
ギフトではなかったのか。
価値のあるものだと信じていた宝物が、ただの石ころでしかないと、誰かに突き付けられたような。
そんな気がした。
g+c+c+8c+8c+8c+
やがて、吐く物がなくなったヒロトはリビングへ戻ると、そのままソファの上で寝てしまった。
そこまでの情報を読み終えたヒロトは、その記憶をそっと意識から引き剥がした。
d+<a8a8a>a8c+<b8b8bb>d+8
まだ足りない。
唯一の知覚から得られる情報を、片端から翻訳していく。
e8<b8>e<b>g+d+e8eb8be8<b8b8bf+b>d+<b8b8>f+8<b>cc+8c+8c+d+g+c+c+8<g+>cc+8
奇妙な音を拾った。
長大な振幅。複雑な波形。安定しない周波数。フラクタル構造をとっているのか、巨視的に見ても微視的に見ても、その構造は損なわれずに続いていた。
これがもし、肉体を通して蝸牛内部の基底膜から受容した音であれば、恐らくただのピンクノイズにしか聞こえなかっただろう。しかし、これがピンクノイズのように単純な雑音ではない事が今のヒロトには理解できた。
それでも、かろうじてその旋律の一端に触れられる程度ではあったが。
c+d+<a8a8a>aac+<b>a+#4b#5bb<bb>d+8e8<b8>e<b>g+d+e8eb8be8<b
知覚し得る範囲で『連想』を試みる。
突如発生したアポーツ現象。混ざってしまった二つの世界。それによって、存在し得ない歌が生まれてしまった。それは、世界に予め組み込まれていた復元機能のトリガーとなった。
そして、今。
この軸を“今”と呼んでいいのなら、今。
エラーが発生していた。
復元に応じなかった個体があったのだ。
それはどうやら、特別な個体のようだった。ヒロトと同じ、
ヒロトは
どこかに居るはず。
8b8bf+b>d+<b8b8>f+8<b>cc+c+g+8c+d+g+c+c+e8c+g+8
──居た。
存外簡単に見付ける事が出来た。
カクテルパーティー効果だろうか。聴き覚えのある音だったのだ。
だが、その音は今、世界との協和を欠いていた。世界のファンクションを阻害するアヴォイド・ノート。流涕に濡れて。それでもなお、美しいまま。
ヒロトは想像した。ピッチを整え、パンを振り、倍音を削って世界をアヴォイド・ノートに馴染ませた。
世界はその修正を受け入れた。そうしてようやく、全ての音が協和した。
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