サビ

1.



 ギターを使う曲の場合、『Owl's notes』ではCOOがそのパートを担当する事になる。レコーディングをどのように行うかはメンバーによるが、ヒロトの場合、まずベタ打ちで大雑把にギターのパートを埋めておき、それをCOOに渡して演奏してもらう、という形を取ることが多かった。『ユア・ノート』もそれに該当した。

「じゃあ、すぐに完成って訳にはいかないんですね」

「ああ。それに、ちょっと手直ししときたい部分も出てきたしね」

 トオルの質問にそう答えた。

 サナのボーカルを聴いて、新たな着想を得た部分もいくつかあったのだ。

「だから、その前に君をうちのメンバーに紹介する」



「は、初めまして……」

 最初の挨拶は緊張した。

 事務所の会議室で、ヒロト以外のメンバーと初顔合わせを行った。北川だけは知っているが、ユウイチ、マヤカシ、COOとは初対面だ。

 サナの新曲。そして、新メンバーの加入。『Owl's notes』の面々にとっては、青天の霹靂もいいところだったはずだ。

(あ、女の子が居る……)

 COOを見てトオルは少しほっとした。とりあえず彼女と仲良くなっておこうと心に決める。

(──あれ? でもそれ、ちょっとおかしくないか?)

 全然おかしくない。

 ミーティングでは、まずサナの新曲を完成させるのが先決で、トオルが本格的にボーカルとして活動するのはそれが終わってから、という事になった。

 途中、COOに声を掛けられたりした。

「よろしくねートオルちゃん。うち、ずっと男所帯だったからさー。結構肩身狭かったんだよね。仲良くしようよ。あ、今度一緒に買い物とか行く?」

「は、はいっ、よろしくお願いしますっ」

(うわー、わざわざ気ぃ使って向こうから声かけてくれた! いい人、この人いい人だっ! おねえさまって呼ぼう。心の中で。あ、でもそれだとアヤさんが……。おねえちゃん? うん、おねえちゃんだなっ。クーおねえちゃんっ)

「どしたの? 急にくねくねしだして」

「──はっ」


     *


 踏切の音が聴こえる。

 夜。誰も居ない児童公園。

 トオルにはもう、なんとなく判っていた。振り返ると、そこにあの少年が居た。

「やあ」

 真っ直ぐな目で、こちらを見つめている。

「サナさんの歌、見つけたよ」

 穏やかに微笑んで、トオルはそう告げた。

「うん。ありがとう。おねーさんのおかげで、ようやく逢えたよ」

 少年にとって、サナの歌に“逢う”事がどのような意味を持つのか、トオルは知らない。だが、自分の行いが少年に好ましい結果を与えたのなら、それは喜ぶべき事だ。いつしかトオルは、この少年に対して妙な親しみを覚え始めていた。

「そういえばさ」

「ん?」

「私、未だに君の名前、知らないんだけど」

「あー。名前ねえ」

 そう言って少年は悪戯っぽい笑みを浮かべると、

「おねーさんは、知ってるはずなんだけどな」

 そう言い放った。

「え?」

 知らない、はず。今までこの少年と会った事は無かったはずだ。

「わからない?」

「……うん」

「わからないならヒロトに訊けばいいんじゃないかな、僕の名前」

 また、ヒロト。本当にこの少年は、一体何者なのだろう。

「君はヒロトさんとはどういう──」

「ヒロトの子、かな」

「…………………………………………は?」

 衝撃の事実を聞いた。

「でででも、ヒロトさんはまだ十九だし、君の年齢的にそれは、その」

 トオルはあたふたした。

「──はっ! ま、まさか……」

 トオルは何かに気付いた。

(未来から来た少年!?)

「……なんか妙な事考えてない?」

「お」

「……お?」

(お母さんは、誰なんだろう……)

 訊けない。そんな事を訊いて、もし母親が自分ではなかったら……。

(って、母親になりたいのかよ俺は!)

 元男の自分がヒロトの子供を産む?

 想像して、トオルは一気に顔が赤くなった。しかしなぜか、悪い気はしない。そんな未来があってもいいのではないか。そう思うのだった。

(そういえばこの子、どことなくヒロトさんに似てるんだよな……)

 あり得ない話ではないのかも知れない。

「おねーさん?」

「ひゃいん!?」

変な声出た。

「僕の名前はヒロトが付けてくれたけどさ、もしまたヒロトの子が生まれたら、その時はおねーさんが付けてくれる? その子の名前」

「え? で、でも……いいの?」

「もちろん。おねーさんも、その子のおかーさんみたいなもんだしね」

 ああ、やっぱり。産むのだ。将来。ヒロトの子を。

 トオルは覚悟を決めてしまっていた。

「うん。わかった。その時が来たら、ね」

「約束だよ」

 少年は無邪気に笑っていた。──せめて、名前くらいは──心の中で、そう呟きながら。


 それから二人は、他愛の無い世間話をした。といっても、少年は自分の事を一切語ろうとしないので、一方的にトオルが話すのを、少年が時折相槌を打って聞くという構図だった。

「──それで、サナさんのボーカルを見つけた時にね、ヒロトさん、泣いてたんだ。ヒロトさんが泣くところなんて初めて見たから、びっくりした。んで、私に『歌ってくれ』って。それ聞いてなんか、嬉しくってさ。つい『はい』って言っちゃった。だからもうすぐ、ヒロトさんの作った曲を歌う事になるんだ。ちゃんと歌えるのか、ちょっと不安だけど、どんな曲か、今から楽しみにしてる」

 嬉しそうに話すトオルを見つめながら、しかし少年の表情にはなぜか翳りが差していた。それに気付いて、トオルが尋ねる。

「? どうかした?」

「……前に言ったよね。『決定的な矛盾』が発生した時点で、世界はリセットされるって」

「……うん」

 嫌な予感が胸を掠めた。

「ようやく判ったんだ。その『矛盾』が何なのか」

「え……?」

「本当は今日は、それを伝えに来たんだよね」

「そ、それって……」

「おねーさんの、歌」

「私の……?」

「そう。ヒロトが、おねーさんの歌を完成させる事。それが、この世界を終わらせる『決定的な矛盾』になる」

 ようやくヒロトとの絆を得たのに。

 まるで、それは禁忌だと、釘を刺されたような。

 そんな気がした。



2.



 新曲が出来た事を、ヒロトから告げられた。

 予想以上に早い。トオルは知らなかったのだ。ヒロトが既に、その曲の大半を打ち込んでいた事を。刻一刻と終わりの時間が近づいている。

〈スタジオ〉で曲を聴いた。秘密の宝物を自慢する子供のように曲を披露するヒロトを見て、胸が痛んだ。

 曲の最後に、印象的だった『空の歌』のフレーズを見つけて、トオルは泣いた。

 これは自分の曲だと、直感で理解した。他の誰のものでもなく、ただ、トオルが歌う為に存在する、トオルの歌。

 だというのに。

「ヒロトさん…………私、歌えません」

「──え?」

「この曲、歌えない……。ダメ……ダメなんです……っ!」

 泣きじゃくるトオルにヒロトは戸惑った。

「な、なんで……この曲、気に入らなかった?」

 トオルは黙って首を振る。そうではない。すごくいい曲だ。むしろ、今までで一番トオルの琴線を震わせた。だが、だからこそ、この曲が『決定的な矛盾』たり得る事を肌で感じたのだ。自分がヒロトと出会わなければ、存在し得なかった曲だと。

「ごめんなさい…………ごめんなさい、ヒロトさん……」

 どう言えば、ヒロトに伝わるというのだろう。歌いたくないのではない。ただ、離れたくないのだ。ヒロトと過ごしたこの世界を、終わらせたくないだけなのだ。


「──いいよ」

「……え?」

「トオルが歌えないって言うなら、歌わなくてもいい」

 それは、一ミリの非難も含まれていない、純粋な肯定だった。

「で、でも……」

「いいんだよ。別に君の歌が目的で付き合ってるわけじゃない」

 サナを失ったヒロトだからこそ、言えたのだろう。トオルに歌ってもらえないのは確かに残念だ。だが、突然目の前から消えてしまわれるよりは、ずっといい。ただ、

「そばにさえ居てくれれば、それでいいんだ」

 それ以上を望もうとは、ヒロトは思わなかった。

 世界をまた、音で満たしてくれた。代わりの楽器などではない、かけがえの無い存在。


     *


 そして、日々はただ、穏やかに過ぎてゆく。

 嫌な事は全て忘れて、ただ、ぬるま湯のような二人の時間を刻み続けた。そうすればいつか、自分の存在も揺るぎ無い現実としてこの世界に馴染むのではないか。トオルはそう思った。それが都合のいい幻想だと、認める勇気を今のトオルは持ち合わせていなかった。

 朝にはキスをして、昼には手を繋いで、夜には体温を交換した。



 目覚めるといつも、隣にヒロトが居る。

 ヒロトが起きていようがいまいが──とは言え、大抵の場合は寝ていたが──、トオルの日課は決まっていた。

 そっと唇を重ねる。

(ヒロトさん、おはよーございます)

 そうしてから、朝食の準備に取り掛かるのだった。



 風の凪ぐ午後。目的もなく、二人でぶらぶらと歩いていた。

「へえ……『共感覚シナスタジア』。不思議ですね」

「ああ。俺もマヤカシに聞くまでこの感覚がそういう名前なんだっての、知らなかったんだけど」

「想像出来ないなあ。どんな感じなんですか? それ」

「うーん、言葉で説明するのは難しいんだけど……」

 そう言ってヒロトは、空を見上げた。雲は少ない。青のグラデーションが、紺碧から、遠く瓶覗かめのぞきへと続いていた。

「空、きれいだね」

「はい……そうですね」

「この『きれい』っていう感覚は、どこから来るんだろう。これは、もともと人の機能として備わっている感覚なんだろうか。もし先天的にある感覚だとしたら、産まれたばかりの赤ちゃんは空を見てきれいだって思う? じゃあ犬や猫は? きれいだと感じる事に、何か意味があるのかな? 未だに判んないんだよね、これ」

「はあ…………」

「『共感覚シナスタジア』は、『きれい』に似てる」

「な、なるほどー……」

 トオルは判った振りをした。

「あ」

「はい?」

「トオルちゃんも、『きれい』だ」

 最近ヒロトは、からかう時だけ敬称付きでトオルを呼ぶ。

 判ってはいても、真っ直ぐに見詰められてそんな事を言われると、どうしても顔が火照ってしまうのだった。トオルはそっと願った。

 繋いだ指からどうか、この熱が伝わりませんように。



 そして、夜にはこんな睦言も。

「ヒロトさん」

「うん?」

「好きです」

「……どうしたの? いきなり」

「ちゃんと、言った事無かったなあと思って」

「そっか」

「はい」

「……………………」

「……………………」

「……あの」

「何?」

「ヒロトさんは、ちゃんと言ってくれた事、ありましたっけ?」

「ああ、そっか。ごめん」

「ごめんじゃなくて──」

「愛してるよ、トオル」

「ひぅっ!」

「?」

 そうして、日々はただ、穏やかに過ぎてゆく。



3.



 ある日、COOからトオルにメールが届いた。

 いつかの約束通り、買い物に誘う内容だった。

(うわー、律儀だーっ! クーおねえちゃん超律儀! 好きっ)

『Owl's notes』のメンバーとして顔を合わせる事は、もう無いのだろう。しかし、そんな憂鬱な事実は、蓋をしてしまえばいいのだ。



 そして。

「あ、この服かわいい。クーさんこんなのどうですか?」

「えー? あたしに似合うかなーこれ。こういうのはさー、トオルちゃんみたいに、女の子女の子した感じの子が着るからかわいいんだよ。トオルちゃんこそ、どう?」

「え……」

 とか。

「ファンデ変えようかなー。トオルちゃんは普段どんなの使ってる? てか、まだ使うような歳でもないかー」

「あー。バイトの時とかは一応……。私もそんなに詳しくないんですけど、これとか、バイト先の先輩に薦められて、よく使ってますね」

「ふーん。ちょっと試してみるかな、それ」

 とか。

「トオルちゃん、バッグ欲しいの?」

「うーん、あんまりかわいいの持ってないから……」

「あーでも、バッグは見た目より実用性じゃない?」

「だ、ダメですよっ! 見た目もよくて使いやすいのが一番ですっ」

「うっ、そりゃあまあ、確かに……」

 などなど。姦しく過ごした。完全にガールズトークである。



 ひと通り買い物を楽しんだ後、カフェでひと休みしていた。

「ねねね、トオルちゃんってさ、うちの代表と付き合ってんでしょ? 北川さんから聞いたんだけど、今一緒に住んでるってマジ?」

「え……あの、まあ、その、一応…………」

「っきゃー! やっぱり! つーかさ、どうやって知り合ったの?」

「あ……えーっと、道で、声掛けられて……?」

「うそーっ。信じらんない。普段はそんながっつくタイプじゃないのに。よっぽどトオルちゃんが好みだったんだねー」

「い、いやあ……」

「ギターのレコーディングしてる時もさー。トオルちゃんの話ばっかしてたよあの人」

「え……」

 ちなみに、レコーディングは外部のスタジオを借りて行われる。ヒロトのマンションにある〈スタジオ〉は、基本的にサナのボーカル以外で使われる事は無かった。

「ど、どんな話を……」

「うーん、どんなって、まあ……ノロケ話だよね。すごくきれいな声だとか、サナさんの音源が見つかったのはトオルちゃんのおかげだとか、トオルちゃんが居たからまた曲を作れるようになったとか……」

 それは、北川も言っていた事だった。ヒロトが作曲活動を再開したのは、トオルのおかげだと。自分が一体、何をしたというのだろう。自分はただ、ヒロトに拾われて、ヒロトに寄り掛かっていただけだ。唯一、ヒロトから乞われた「歌ってほしい」という願いも、結局反故にしてしまった。

「私……ヒロトさんに、何もしてません。ただ……そばに居て、ヒロトさんの厚意に甘えてただけで…………」

「……代表、言ってたんだけどさ」

「え?」

「毎日、トオルちゃんの声聴いてるだけで、後から後から音楽が溢れて来るって。だから、そばに居る事自体が、代表の為になってるんじゃないかな」

「…………」

「それに、ボーカルやるんでしょ? 何もしてないってわけでも無いじゃん。すっごく楽しみにしてたよ、トオルちゃんに歌ってもらうの」

「…………っ!」

 胸を抉られた。『歌う事』は、自分が唯一ヒロトにしてあげられる恩返しではなかったのか。それを、自分のわがままで無下に断ってしまったのだ。

「そういや、あたしもトオルちゃんの歌聴いてみたいな。ね、今からカラオケでも行く?」

「あ……私……、ちょっと、用事を思い出したんで、今日はもう帰ります。ごめんなさい」

「あらら。ま、仕方ないか。んじゃ、また今度ゆっくり遊ぼうよ」

「はい。今日は誘ってくれてありがとうございました。また、メール下さいね」

 いたたまれなくなって、逃げ出した。弱い自分に、吐き気を催しながら。



「ふぅ……」

 家に帰ると、からあげが出迎えた。トオルの足に擦り寄ってくる。

 今日のこの時間、ヒロトは家に居ない。作曲以外でも、『Owl's notes』の代表として外回りをする事はたまにあった。

 しゃがみ込んで、からあげの喉を撫でてやる。するとからあげは、幸せそうに目を細めてごろごろと喉を鳴らすのだった。

 先ほど、COOから聞いた話を思い出す。トオルの歌を楽しみにしていたヒロト。それでも、トオルのわがままを、理由も訊かずに受け入れてくれたのだ。どんな気持ちだったのだろう。

 あの日、サナの音源を手に入れたあの時の、ヒロトの声が蘇った。「歌ってくれ」と。縋るような目で、ヒロトはそう言ったのだ。もしかしてそれは、ヒロトにとって最後の「生きる理由」ではなかったのか。サナを失って、抜け殻のようになって、それでもどうにか己を保っていたのは恐らく、心のどこかでサナの歌を探していたからだ。諦めきれなかったのだ。それをようやく見つけた事で、今度こそ生きる理由を失った。だから、トオルの歌にその理由を求めた。

(クーおねえちゃんは、そばに居るだけでいいって言ってたけど……)

 それでもやはり、ヒロトにとって一番重要だったのは、自分の声なのではないか。そんな気がしてならなかった。

「にゃー」

「あー、はいはい。ごはんね」

 キッチンへ移動して、からあげのごはんを用意した。鼻歌を歌いながら。

(…………あれ?)

 ふと気付く。それは、『空の歌』ではない。一瞬トオルは、自分でもそれが何のメロディだったか判らなかった。が、すぐに思い当たった。それは、トオルの為に作られた、ヒロトの新曲だった。たった一度、聴いただけのはずのそのメロディは、もう既に、当たり前のようにトオルの中に刻まれていたのだ。

(ヒロトさん……)

 トオルの中に、ある想いが芽生え始めていた。



〈スタジオ〉の扉の前に立つ。普段から、鍵は掛けられていない。トオルはそっとドアを開けた。

 中に入ると、迷わずPCへと向かう。OSを立ち上げながら、以前見たヒロトの操作を思い出した。

(確か、これ……)

 DAWを立ち上げ、編集履歴を確認する。その中に、自分の名前が付けられたファイル名を見つけて、それを読み込んだ。沢山のウィンドウが立ち上がって、トオルを多少混乱させたが、目立つところにオーディオのプレイボタンのようなものがあるのを見つけた。とりあえずそれをクリックしてみると、それと同時にいくつかのウィンドウに描画された内容が、横にスライドし始めた。再生の動作を開始した事が窺えるが、音は出ない。

(あ、ヘッドホンか)

 脇に置いてあるヘッドホンを着けた。音楽が流れている。それはまさしく、以前聴いたヒロトの新曲だった。

 曲が終われば、もう一度頭に戻って再生する。何度も繰り返し聴いた。何度も、何度も。いつしかトオルは、その歌を口ずさんでいた。

(歌詞は出来てないのかな、これ)

 以前聴いた時も、歌メロの部分には別の音色おんしょくが割り当てられていて、歌詞はまだ無かった。

 何気なくデスクトップを眺めてみると、“on_tohru_001”という名前の、フォルダのショートカットが目に入った。中身を確認する。“lyrics.txt”というファイルを見つけた。それはやはり、この曲の歌詞のようだった。歌に合わせて、歌詞を目で追う。

(これは……)

 それは、トオルに宛てた、メッセージだった。読み取れる内容は、ただ、『ありがとう』と。出会ってくれて、ありがとう。救ってくれて、ありがとう。笑ってくれて、ありがとう。泣いてくれて、ありがとう。歌ってくれて────ありがとう。

 また、泣いてしまう。

 自分はこれを、無かった事にしようとしていたのか。ヒロトの想いに目を背けて、ただ自分の望むままにこの世界を繋ぎとめようと。

 遠くから、踏切の警鐘が聴こえてきた。

「──その曲、歌うの?」

 あの少年が、すぐそばに立っていた。

「判らない…………どうすればいいの? 何が、正しいの?」

「それは……おねーさんが、決めればいいよ。僕にも、何が正解かなんて判らないしね。この矛盾を回避しても、いつか違う矛盾が世界を終わらせるのは間違いないと思うけど……でも、それがいつになるのかはやっぱり判んないし。もしかしたら、何十年も先の事かも知れない」

 それは、トオルにとって甘い誘惑だった。しかし同時に、何十年もの間、ヒロトを苦しませ続けるという可能性も示していた。

(そんなの……出来るはず、ないよ……)

「ねえ」

 トオルは問う。

「何?」

「もし、さ。世界がリセットされて、またあの踏切からやり直しになったとして……そしたら、その世界でも私とヒロトさんは、出会うのかな?」

「…………どうだろうね。おねーさんの歌がこの世界における矛盾である事を考えると……難しい気もするなあ。そもそも、おねーさんとヒロトが出会ったのは、おねーさんがその声を持っていて、『空の歌』を知っていたからなんだよ。女の子のおねーさんは『空の歌』を知らなかったし、男の子のおねーさん(?)はその声を持っていなかった。本来なら……出会うはずが、無かったんだよね」

「……そっか……」

 それはやはり、トオルにとって辛い事実だった。それに何より、自分と出会わなかったヒロトは、その後どんな人生を歩むのだろう。ちゃんと立ち直って、また音楽を作り続けていくのだろうか。それだけが心配だ。

「──でも…………。いい曲だよね、これ」

 そう言った少年は、どこか誇らしげで。

「……そりゃあ、ヒロトさんの曲だもん」

 トオルもまた、誇らしげにそう答えた。

 その日の夜、トオルは、レコーディングを行いたいと、ヒロトに告げた。



4.



「ヒロトさん、よろしくお願いします」

「うん。まあ、あんま固くならないで。てきとーに肩の力抜いて歌ってくれればいいよ」

 そう言ってヒロトはトオルの頭の上にぽん、と手を乗せた。

 急に新曲を歌いたいと言い出したトオルの真意は判らなかったが、ヒロトにとってそれは単純に喜ばしい事だったので、深く考えずに了承した。

 数日の準備期間を経たこの日、レコーディングの運びとなったのである。

「じゃ、とりあえず準備するからちょっと待ってね」

 ヒロトは早速機器のセッティングに取り掛かった。

 DAWを立ち上げ、プロジェクトを読み込んでオーディオトラックを録音可の状態にする。コンデンサマイクを防音室内のスタンドに設置し、ファンタム電源へと繋ぐ。ファンタム電源からはシールドを経由して、PCに接続されたオーディオインターフェースへ。これには他に、ヘッドホンが二つ接続されており、一方は防音室内に置かれた。

 一連の作業を見ていたトオルが、疑問を口にした。

「ヒロトさんヒロトさん、膜が無いですよ?」

「……膜?」

「ほらあの、金魚すくいのアレみたいな感じの膜。よくマイクの前に置いてあるじゃないですか。で、なぜかヘッドホンに手を当てながら眉間に皺寄せて歌うんですよねっ」

 握り拳を作って力説する。どうやら、トオルには理想のレコーディング像というのがあるらしかった。トオルの説明でようやく何の事か判ったヒロトは、苦笑しながら答えた。

「ポップガードの事? サナの時は使わなかったから忘れてたな。でも、トオルはレコーディング初めてだろうから、あった方がいいね。どこにあったっけなー。いくつか持ってたと思うんだけど」

「あれって、何のために置いてあるんですか?」

「見たまんまの用途だよ。ポップノイズって言って……まあ、マイクに息が掛からないようにする為だね。サナは蝋燭ろうそくの前で歌っても火を揺らさないような奴だったからなー」

 そう言いながら、ヒロトは〈スタジオ〉内を探し始めた。

 そんな話を聞くと、トオルにも沸々と対抗心のようなものが沸いてくる。

「ヒロトさん。やっぱ要りません」

「へ?」

「無しでいいです。ちゃんと歌えますから、私」

「いやでも、あった方が歌いやすいよ? そりゃ、こっちとしてはダイレクトに音を拾えた方がありがたいけどさ」

「なんなら試してみますか? 蝋燭で!」

「いや、いいよ……そんなに言うなら、ポップガードは無しで行こう」

 どうも、妙な方向にトオルを刺激してしまったようだ。

 いずれにしろ、一テイクでレコーディングが終わる訳ではない。もしどうしてもポップノイズが入ってしまうようなら、その時に改めてポップガードを使えばいいだけの話だ。

「じゃ、準備出来たからトオルはあの中に入って。あそこで歌ってもらう事になる。中に入ったらヘッドホン着けてね」

 ヒロトの指示通り、防音室へ。扉を閉めると、室内は完全に無音となった。自身の血流さえ耳に障るほどの静寂。マイクスタンドに吊られたコンデンサマイクと、歌詞のプリントが置かれた譜面台、そしてスタンドの支点に無造作に引っ掛けられたヘッドホン。それがこの部屋の全てだった。

 トオルの胸にかすかな不安と既視感がよぎる。いきなり女の姿になって、この世界との関わりの一切を断たれた時の、あの感覚だ。少し震える手で、ヘッドホンを着けた。

「トオル」

「わっ」

 いきなりヒロトの声が聞こえた。

 その瞬間、すうっと空間の尺が拡がったような感覚を覚えた。ひと続きの場所にヒロトが居る。そう理解した途端、手の震えは止まった。

 ガラス窓からヒロトの方へ目を向けると、こちらに向かって手を振っている。ヘッドホンを着けて、グースネックタイプのマイクを手元に置いていた。

「どう? ちゃんと聞こえる?」

「あ、はい、聞こえます」

 慌てて答えた。

「ああ、しゃべる時はマイクに向かって。音が遠い」

「あ、そか。……もしもし。ちゃんと聞こえます」

 トオルは赤面した。

「OK。じゃあ、ひとつ質問。俺の曲で、トオルが一番好きな曲は?」

「え? えーっと……『空の歌』……。あ、でも今は、この新曲が一番好きかも」

 脈絡の無い質問に、トオルは少し戸惑ったが、とりあえず思い付くままを答えた。

「なるほどなるほど。ありがとう。どこが好き?」

「どこが……うーん、いい曲だし、歌いやすいし…………ヒロトさんが、その、わ、私の為に、作ってくれた曲だから……」

 自分で言いながらトオルは照れた。



 それからもしばらく、あまり中身の無い会話が続いた。

 これは、全く意味の無い会話という訳ではない。こんな会話をする理由は二つあった。ひとつは、マイクの調子や録音のレベルを確かめる為。そしてもうひとつは、トオルの緊張をほぐす為のものだった。普段、人の機微に頓着しないヒロトからは想像出来ないが、ヒロトにとって今のトオルは、繊細な楽器そのものなのだ。そのコンディションに気を使うのは、ヒロトにしてみれば当然の事だった。

「じゃあ、そろそろ始めようか」

 そうしてようやく、レコーディングが始まった。

 最初のテイク。ヒロトは、軽い試し録り程度のつもりだった。何しろ、トオルはレコーディング経験ゼロ、この曲も、特に練習をしていたという訳ではなく、腹の底から声を出して彼女が歌うのはこれが初めてなのだ。むしろ、今日一日を丸ごとリハーサルに使うくらいの心持ちでレコーディングに臨んでいた。しかし、ヒロトが耳にしたのは、全く予想外の、だった。

 心に思い描いていた、イメージそのままの音。体中に戦慄が走り抜ける。今、初めて知った。トオルの、ボーカリストとしての天性の才能を。まさしく、歌う為に生まれてきた少女だ。自分が最初に見つけて、そして手に入れた。

「ヒロトさん?」

 トオルの声で我に返った。慌てて録音を停止する。

「あ、あのー、どうでした?」

 どうもこうもない。完璧だ。何なら、このままレコーディングを終えてしまってもいいくらいの出来だ。

 しかし、世界はまだ続いている。この曲は、これで完成ではないのだ。

 ヒロトはまた、トオルのボーカルから新たな音を手に入れていた。

「うん、いい感じだったよ。ちょっと休憩挟もうか」

「え? でもまだ、一回しか……」

「ああ。ちょっとメロディを変えてみたいんだよ。それが終わるまで、待ってて」

「はい?」

 負けていられない。トオルの才能に寄り掛かって、それで満足していてはいけないのだ。彼女が天才だというのなら、そのポテンシャルを最大限に引き出すのが自分の仕事だ。イメージ通りのものが出来上がったのなら、今度は、イメージ以上のものを。

 ピアノロールのウィンドウを開いて、ノートを移動し、追加し、削除していく。ベロシティやADSRといった細かいニュアンスは、後からまたじっくりといじればいい。今はただ、トオルが歌えるように音高さえ整っていれば。

 手早く仕上げたオケと歌メロをトオルに聴かせて軽く打ち合わせをする。彼女はやはり、飲み込みが早かった。

「もっかい、これでいける?」

「大丈夫です」

 そうして、テイク2。

 ヒロトは、トオルのボーカルをモニターしながら、手元に用意しておいた歌詞のプリントに目を通した。赤のペンで気になった部分に注釈を書き加えていく。それを元に、次のテイクを録音する。また新しい別の紙に注釈を入れる。そんな作業を繰り返しながら、十八テイク目。

 プリントはモノトーンのまま、録音が終わった。

「トオル、ちょっと休もう」

 そう告げて、今録ったばかりの音を確認する。オケをミュートしていても、共感覚が全ての音を補完した。それは、一点の曇りも無い、空そのものを音に還元したかのような、そんなサウンドだった。

(タイトル、どうしようこれ。『空の歌』はもう使っちゃってるしなあ……)

 いずれにしろ、もう録れる音は全て録った。レコーディングはこれで完了だ。後は、手を加えたベタ打ち部分をちゃんと仕上げて、MIXをすればこの曲は完成する。

「ヒロトさん」

 いつの間にか、すぐそばにトオルが居た。

「ああ、今、確認してたんだけど、問題ないね。これで終わりだ。お疲れ様。初のレコーディング、どうだった?」

「はい。すごく楽しかったです。また…………やってみたい、かな」

「何度でも作るよ、君の曲。こっちからもお願いする。これからもずっと、トオルに歌ってほしい」

 それを聞いてトオルは、泣きそうになった。顔に出てしまう前に、それを隠した。ヒロトの胸で。背中に手を回して、ぎゅっと力を込める。しっかりと、その感触を刻み付けるように。

「トオル……?」

「……………………」

 何も答えずに、ただヒロトの胸に顔を埋めている。

 トオルの様子に微量の違和感を感じつつも、ヒロトはそっと抱き締め返した。

「ヒロトさん」

「ん?」

「今まで、ありがとうございました。ヒロトさんに出会えて本当によかった。私を見つけてくれた事、すごく感謝してます。誰かに必要とされる事が、こんなにも生きる希望になるって、知らなかった。ヒロトさんが居なかったら私、きっとこの世界で死んじゃってました。そばに居られて…………本当に、幸せでした」

 おかしい。トオルの感触が、匂いが、なぜこんなにも悲しいメロディを響かせるのだろう? それに、トオルの言葉はまるで…………別れのような──。

「ヒロトさん…………好きって、言って下さい」

 縋るようなその言葉に、警鐘を聴いた。

 それでも、ヒロトの答えは決まっていて。

「好きだよ」

「私も…………好きです」

 そして、口付けを交わす。長く、深く、強く。

 唇を離した時にはもう、トオルの顔は笑っていた。

「新曲の完成、楽しみにしてますね。出来上がったら、一番に聴かせて下さい。約束ですよ?」

「ああ、約束する」

 そうして、最後の会話を終えて、トオルは〈スタジオ〉を後にした。

 残されたヒロトは、ざわついた心を抑え付けるように胸に手を当てて、ぎゅっと拳を握った。かすかに湿った感触が手のひらに伝わる。トオルの涙。それもまた、悲しい音だった。

「……………………」

 考えていても仕方が無い。今はただ、この曲を完成させよう。そうすればきっと、トオルもまた笑ってくれる。『空の歌』をプレゼントした、あの時のように。

 ヒロトは、PCに向かって、残りの作業を開始した。


     *


 耐えられなかった。ヒロトのそばに居ると、わがままを言って困らせてしまいそうで。

 気が付けばトオルは、マンションを飛び出していた。

 走って、走って、やけに呼吸が乱れると思ったら、涙で顔がぐしゃぐしゃになっていた。

 踏切の音が聞こえる。あの少年は居ない。いつの間に、こんなところまで来ていたのだろう。そこは、始まりの場所だった。トオルが女として生まれ変わった、あの踏切だ。

 もうとっくに、終電の時間は過ぎている。とすれば、この警鐘は貨物列車を待つものなのだろう。

(ヒロトさん……)

 肩で息をしながら、上を向いて涙を飲み込む。目を閉じれば、ヒロトの笑顔が、優しい声が、手のひらの温もりが、トオルの脳裏に蘇った。

 これらの全てを、失ってしまう? せっかく手に入れたのに。もう二度と、あの人のそばで穏やかな幸せに浸る事は出来ないのだ。世界はリセットされて、自分は男に戻って、互いに互いを忘れて、まるで何も無かったかのように日常に飲み込まれていく。

「そんなの……」

 受け入れられない。やはり自分は、ヒロトのそばに居たいのだ。例えそれが、うたかたの夢であっても。

 嫌だ。自分は、選択を間違ったのだ。戻るのなら、この踏切ではなく、昨日までの日々に戻ってほしい。

 トオルの中で、嵐のような後悔が荒れ狂った。

「ひっ…………う、うぅ……うわあああああああああああああああぁ────……っ!」

 泣き叫んだ。力の限りに、この残酷な世界を呪って。

 ──ヒロトさん。あの曲は完成させないで。ずっと一緒に居ましょう? 掃除だって洗濯だってするし、ごはんも作るし、夜にはヒロトさんの望むままにしたっていい。私とヒロトさんとからあげと、二人と一匹でずっと一緒に暮らして、そのうちそれが三人と一匹になって、そうしたらどこかに一戸建てを買って、そこでしわくちゃになるまでみんなで笑って過ごしましょう? ねえ、ヒロトさん。こんな理不尽、嫌なんです。お願いします、どうか──。

 トオルは叫び続けた。あんなに歌った直後だというのに、声が嗄れる気配も無く、ただひたすらに。

 やがてそれも、迫り来る貨物列車の騒音に掻き消されて、世界は、唐突に終わった。

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