Bメロ

1.



 サウンドチーム『Owl's notes』は、四人のコンポーザと一人のギターによって構成される。メンバーは、中村ヒロト、佐藤ユウイチ、マヤカシ、ぷっつん北川、そしてギターで紅一点のCOOクー。法人としては、これに経理や営業といった人員も数名加わるが、こちらは通常、表には出ない。ブランドとしてのメンバーはあくまでこの五人となる。かつてはこれにボーカルのSANAサナを加えた六人で活動していた。

 楽曲を手掛けるメディアは、ゲームやアニメ、映画、ドラマ、舞台など、多岐に渡る。また、それらとは別に、自社レーベルからオリジナルアルバムのリリースも行った。稀にだが、ライブツアーを敢行する事もあった。

 四人のコンポーザが作るサウンドは、それぞれが豊かな個性に溢れていた。

 例えば、北川はチップチューンを得意とする。ぷっつん北川というふざけたアーティストネームとは裏腹に、メロディアスでどこかノスタルジックな響きを持つチップサウンドは、ファンの間でも評価が高かった。

 ヒロトは過去に、北川からMMLという音楽記法を教わった事がある。これはかつて、DTM界隈で標準的に用いられた打ち込み用の入力方式だが、それはテキスト化された楽譜とも言うべきもので、ちょっとした時に思い付いたメロディをその場でメモしておくには最適なのだった。AからGまでのアルファベットがそのまま音名に対応し、その後に続く数字や記号が音長を表す。例えば、『ド』の付点四分音符なら『C4.』といった具合だ。この他にも音源の演奏を制御するための様々な記号コマンドが存在する。現在でも、MLL入力に対応したフリーのシーケンスソフトは存在し、コアな愛好家の間で親しまれていた。中には、現役で使っているプロのコンポーザも居るほどだ。

 個性的な面子の作り上げたサウンドに、COOの奏でる繊細なギター、そして、サナのボーカルが『Owl's notes』だった。──かつては。

 やがてサナは不慮の死を遂げ、ヒロトは曲の作り方を忘れてしまう。

 そんなヒロトが、自らメンバーを召集してミーティングを行うのは、サナが死んで以来、初めての事だった。

 ヒロトの復帰宣言はメンバーを沸き立たせた。一時期、塞ぎ込んで食事すらままならなかったヒロトを知っている彼らだ。皆一様に喜んだ。

 ミーティングの際にヒロトは、用意していた新曲を披露した。その数七曲。ほぼ一日で作り上げたものだ。いずれもインストゥルメンタルの曲だったが、その煌めくような美しさと激しさは、ひとかけらも失われていなかった。

「みんな、今まで心配かけて本当にごめん。頼りない代表だけどさ、俺はまだ、曲を作り続けたいって思ってる。このチームの一員として。だからこれからも、『Owl's notes』の中村ヒロトでいさせてほしい」

 そう言って、頭を下げた。

 以上が、中村ヒロト復帰宣言の日の、顛末である。


     *


「いやっほーぅ! ロトさん最高ー!」

 先ほどから北川が何事かを叫んでいる。アルコールが入る前からずっとこの調子だったので、ヒロトもいい加減慣れてきていた。他の面子も、もはや北川は完全に居ないものとして、それぞれ雑談に興じている。

 北川がトオルにCDを貸した翌日。

 ヒロトは『Owl's notes』のメンバーと共に、居酒屋のチェーン店に居た。ユウイチが復帰祝いをしようと言い出したのだ。

 最初のうちは、そのように大げさな事は必要ないと断ったのだが、結局押し切られてしまった。

 苦笑しつつ、ひとりはしゃいでいる北川を眺める。

「あんなもん見てたらアホが移るぞ」

 ユウイチが声を掛けてきた。

「あはは、確かに」

 そうは言いつつ、ヒロトはさほど不快ではなかった。確かに馬鹿騒ぎしている北川の姿は例えようもなく哀れでみっともなかったが、全身でヒロトの復帰を喜ぶ様子は、よくよく眺めればどこか憎めないところがない事もなかった。

「しかしまあ、あいつが喜ぶのも判るけどな。なんだかんだ言って、お前の事、一番心配してたのあいつだし」

「ああ」

「ちなみに、俺は戻ってくると信じてたぜ。お前が、音楽を捨てられるはずがない」

 判っている。みんな、それぞれの立場でヒロトの事を案じていた。今まで迷惑を掛けてきた人たちに報いるためにも、これからは身を粉にして働かねばならない。

「ところでヒロト」

「ん?」

「今回のやつは全部インストだったけど。……歌モノは、どうする?」

 歌モノ。それは、今までサナが担っていたものだ。ヒロトはなんとか復帰を果たしたが、サナはもう、帰ってこない。

 歌モノと聞いてヒロトは、サナと、そしてもうひとりの顔を思い浮かべていた。

「……歌モノはもう、やんないよ」

 それは、復帰を決めた時点で、胸に誓っていた事だ。

「そうか」

 ユウイチは、それ以上は何も言わなかった。

「ロトさぁん! なーにサトさんとコソコソしゃべってんすか! 俺も混ぜて下さいよぉ」

 酔っ払いに絡まれた。

「あっ、クーちゃんクーちゃん。ギター! ギター弾いてよねえ!」

 酔っ払いはヒロトの返事も待たずに紅一点に絡んだ。

「はぁ? んなの持ってきてませんよ。見りゃ判るでしょ。北川さん、さっきからうるさいんですけど」

「ロトさぁーん、クーちゃんが俺に冷たい!」

「……いつもの事」

 マヤカシが誰にともなく呟いた。


     *


 トオルは部屋でひとり、膝を抱え込んで座っていた。

 ヒロトの曲を聴いた。『SANA』とクレジットされているアルバムだけは避けて。

 訳の判らない苛立ちが心を千々に乱している。

 突然女になってしまった自分の身体。生活環境の激変。キスへの戸惑い。そして──サナ。

 ヒロトの曲はどれも素晴らしかった。インストゥルメンタルの曲などほとんど耳にする事の無いトオルだったが、歌など無くても、音楽は純粋な美しさを放つのだという事を思い知らされた。

 今やトオルは、『空の歌』のファンではない。『中村ヒロト』のファンなのだ。──だと言うのに。

 床の上に無造作に置かれた数枚のアルバムへ目を向ける。

 ジャケットに書かれた『SANA』という文字が視界に入って、とっさに顔を伏せた。

 胸に渦巻く感情の正体が何であれ、それが汚い物だという事だけははっきりと判った。

(お腹痛い……)

 痛みを庇うように身じろぎをすると、じわり、と不快な感触がトオルを襲った。この感覚が、漏れた時のものなのかどうか、判別が付かない。女の身体になってから、これを経験するのはまだ二度目なのだ。もし漏れてしまっているのだとしたら、下着や服を汚してしまう。確認をすべきだが、今のトオルにはそれすらも億劫に感じられた。汚れた下着を替える時の、あの何とも言えないみじめな気持ちを、なるべく先延ばしにしたいという思いもあった。このまま元に戻れなかったら、これから先、何十年もこれと付き合っていかなければならないのだろうか。

(もう、やだ……)

 膝に顔を埋めてぎゅっと目を閉じる。そうしなければ、今にも泣き出してしまいそうだった。

「母さん……助けて……」

 携帯が鳴った。ヒロトから買い与えられた携帯だ。

 ディスプレイを確認する。アヤからだった。

「……もしもし」

「トオルちゃん? 身体の調子、どう? 生理、もうそろそろかなと思って、電話してみたんだけど……」

 トオルが始めての生理を迎えた時、色々と世話を焼いてくれたのがアヤだった。突然の事態に泣きじゃくるトオルをなだめ、生理用品の手ほどきをし、血で汚れた床を拭いて薬を与えてくれた。

 アヤは遅めの初潮だと思ったようだが、恐らくそうではないのだろう。トオルの身体は、とうに初潮を迎えていたはずだ。ただ、トオル自身にとっては初めての経験だったというだけで。

「昨日……きました……」

「あらまぁ。最初のうちは周期も不安定だし、量もまちまちだから、慣れるまでは大変なのよねぇ。ひとりで大丈夫かしら? 何かあったら気軽に声掛けてね。それとも今からでもそっちに行った方がいい?」

「アヤさん……」

 我慢していたのに。涙が堰を切って溢れ出した。

「あらあら、どうしたの? 何か悲しい事でもあった?」

 あった。

 色々ありすぎたのだ。トオルの心はもう、既に限界を超えていた。ヒロトが居たから、それでも今までやってこれたのだ。なのにそのヒロトは、違う誰かに心を囚われている。疎ましい。そして、亡くなった人にまでこんな汚い感情を向けてしまっている自分が許せない。

 トオルは嗚咽交じりに胸の裡を打ち明けていた。

 その言葉の内容は、整合性も何もあったものではなかったが、アヤは根気よく耳を傾けた。話がサナのアルバムの事に及ぶと、そこで初めてアヤは相槌以外に言葉を発した。

「それじゃあトオルちゃんは、まだ一度もそのアルバムを聴いてないのね?」

「はい……」

「聴いて御覧なさい。いいアルバムだから。保障するわ。聴けばきっと、ヒロ君の事、もっと好きになっちゃうわよ」

「私は別に、ヒロトさんの事、好きなわけじゃ──」

「あらぁ。中村ヒロトのファンじゃないの?」

「うっ、それは……そうですけど」

「ふふ……奇遇ね、あたしもよ。嬉しいわぁ」

 最後にもう一度、体調が優れなければすぐに連絡を寄越すようにと釘を刺されて、通話は終わった。

(聴けば、ヒロトさんをもっと好きになる……か)

 アルバムを見た。『SANA』という文字を目にしても、先ほどのような苛立ちは感じられない。アヤに話を聴いてもらう事で、少しだけ胸のつかえが取れたような気がする。

 それでもやはり、聴くのは躊躇われた。せっかく幾分か心が晴れたのに、これを聴けばまた陰鬱な気持ちになるのではないか。そんな気持ちのまま、ヒロトの曲を聴きたくない。

(アヤさん……もう少しだけ、待って下さい)

 オーディオのリモコンを操作する。スピーカからは、インストゥルメンタルの曲が流れ出した。



2.



 歌モノはもう、作らない。

 復帰する際に、ヒロトが決めたたったひとつのルール。それが、ヒロトのサナに対する礼意だった。古い楽器が壊れたから、今度は別の新しい楽器? それはあまりにも、サナのボーカルを軽んじる行為のように思えたのだ。

 しかしそのルールは、予想以上にヒロト自身を苦しめた。トオルと接するたびに、後から零れ出てくる音のかけら。それらの中には、トオルの歌声という形を取る音も少なくなかった。いや、むしろ、その割合は日に日に多くなってきている。自分にとって、サナのボーカルこそが、最後にして最高の楽器なのだ。それを、自らの手で破るわけにはいかない。

 だというのに。

 なぜ自分は今、歌モノの曲を打ち込んでいるのだろう?

 必死に自分へと言い聞かせる。これは単に、零れた音をすくい取る作業なのだと。これを完成させて、音楽として世に出す事は決して無い。だからこれは、サナへの裏切りなどではないのだ。

 埋まる事の無いボーカルトラック。既視感を覚える。もしかして自分は、サナの時と同じ後悔を味わう事になるのではないだろうか。それも、不可避だったあの時とは違い、自らの手で完成の道を閉ざすという、最悪の形で。

 一体何が正しいのか。今のヒロトには、判らなかった。


     *


 遊園地でのデート以来、トオルとヒロトの関係は、少し変化し始めていた。

 有り体に言えば、距離が出来ていた。キスの事、その直後に知ったサナという存在のせいで、トオルは過敏にヒロトを意識していたし、ヒロトはあれ以来、一日の大半を〈スタジオ〉で過ごす事が多くなっていた。ヒロトはヒロトで、トオルの音に触れる事を恐れていたのだ。これ以上彼女に触れてしまうと、自分の中にある衝動が抑えきれないものになってしまうのではないか。ルールを決めたのであれば、律さなければならない。サナ以外のボーカルで歌モノを作る事はもう、無いのだ。

 ヒロトはひたすら曲を書いた。そうすれば、トオルが近くに感じられた。

 トオルはヒロトの曲を聴いた。そうすれば、ヒロトが近くに感じられた。

 互いに互いを、触れ合わない距離で見つめていた。

 例外もある。

 ある日の朝方、トオルがリビングに顔を出すと、ソファでヒロトが寝ていた。ここ最近は、〈スタジオ〉でそのまま寝入ってしまうか、仕事を終えれば自室へ直行する事が多いので、珍しい事と言えた。テーブルを見ると、飲みかけのグラスが置いてある。恐らく、小休止のつもりで部屋を出て、そのままここで寝てしまったのだろう。

 トオルは部屋から毛布を持ち出してきて、起こさないようにそっとヒロトに被せた。

 久しぶりに間近で見るヒロトの顔。しかも寝顔と来たら、遭遇率は非常に低いレアなシチュエーションだ。

 ドキドキした。

(…………………………………………)

 ガン見である。

 年齢のわりに少しあどけなさの残る顔。二人して並んで歩けば、同い年に間違えられる事もあるだろう。こうして眠っていれば、さらに幼く見えた。肌はきめ細やかで、少し白い。

(もうちょっと外に出て運動した方がいいですよーヒロトさん)

 髪、まつ毛、鼻筋、頬。どこを取っても好ましい形だった。

 唇に目を留めた。キスをしたのだ。この唇と。今でも、その感触は鮮明に思い出せた。

 しかしトオルは、自分の記憶を信用しなかった。もしかしたら、思っているよりもう少し柔らかかったかもしれない。それに、温もりはどうだったか? ヒロトの唇は、温かかったのか、冷たかったのか。

 気になる。これは、もう一度確認した方がいいのではないだろうか。そう、これはキスではなく、単なる確認作業なのだ。特に、もう一度キスしたいという欲求があるわけではない。

 トオルはゆっくりと顔を近づけた。

「にゃー」

「────っ!」

 いつの間にそこに居たのか、からあげの鳴き声でトオルは飛び退いた。

「ん…………」

 ヒロトが顔をしかめた。トオルは脱兎のごとく逃げ出した。

 部屋に戻ってドアを閉めると、そのまま崩れ落ちるように座り込んだ。胸に手を当てると、まだ心臓が跳ね回っている。顔が熱い。大きく呼吸をして、なんとか気持ちを落ち着けようとした。

(はぁ……何やってんだよ俺は)

 キスしようとした。



3.



 バイト帰り。その日は少し上がるのが遅かったせいで、辺りは既に暗くなっていた。こういう時、以前なら心配したヒロトからメールがきて、強引に出迎えにきていたのだが、このところ彼は〈スタジオ〉に篭る事が多い。恐らく今日も、トオルの帰りが遅い事にすら気付いていないだろう。

 人気のない住宅街。

 児童公園に差し掛かった時、トオルの足が止まった。

「歌は、探してる?」

 また、例の少年。唐突に現れた。

(なんでまた、出てくるんだよっ……)

 こんなときに限って、ヒロトは居ない。いや、むしろ、一人だからこそこの少年は現れたのだろうか?

「ねえってば。歌、見つかった?」

「さ、探してないっ!」

 精一杯の虚勢を張って答えた。

「なんで。困るよ。探してって言ったじゃん」

「そ、そんなの、そっちの都合だろぉ!? なんで俺が──」

「あはは。地が出ちゃってるよ」

 興奮してつい「俺」などと口走ってしまっていた。そういえばこの少年は、自分が元男である事を知っている風だった。ヒロト以外、誰にも話していないはずなのに。

「そ、そうだっ、こないだのあれは、どういう意味だよ」

「? あれって?」

「『女の身体には慣れたか』って、言ってただろ?」

「あーあれ。別に、そのままの意味だけど? おねーさん、でしょ?」

 ちょっと待って今なんかすんげえ重要そうな事言った。

「世界が……何だって?」

「……知りたい?」

「──教えろよ」

 トオルの纏う空気が少し変わった。怯えの色が消えて、少年を見据える目付きに鋭さが増す。

 この少年は、自分の身体がこうなった原因を知っている……!

「……まあいいか。今回は時間もあるし」

 少年は頭を掻いてひとつ溜め息をくと、話し始めた。

「……この世界はね、今、現実の世界と可能性世界が混じった状態なんだ」

「え……?」

「世界は、ありとあらゆる可能性が重ね合わさって出来ている。通常、選択されなかった可能性は因果の輪を離れてそこで途切れてしまうんだけど……稀に、そのまま稼動し続ける場合があるんだよね。例えば、おねーさんが男として生まれた世界と、女として生まれた世界……とかね」

 ifの世界。それは、当初トオルも可能性のひとつとして考えていたものだ。しかし、世界が混じる? さすがにそんな突拍子もない発想は無かった。

「あの日、あの時、おねーさんを中心として半径十メートルくらい……かな? とにかく、その辺一帯の空間に穴が開いた。そしてその穴を埋めるように、そこにもうひとつの世界が入り込んだ。同じ時間、同じ座標、同じ大きさの同じ空間がね。二つの世界はとてもよく似ていて、一番の大きな違いはおねーさんの存在だったんだよね。それぞれの世界で、踏切を挟んで、お互いが向かい合うように立っていて。だから、おねーさんの身体が急に女の子になったのは、そういう事」

 いくつもの疑問が沸いた。なぜそのような穴が開いたのか? たまたまそこに居た自分がそれに巻き込まれたというのなら、今こうして立っている自分はなぜ男であるトオルの記憶、人格を保持しているのか。もうひとつの人生を歩んできたはずの女のトオルはどこへ行ったのか。そしてなにより、男の身体はどこへ消えたのか。

「穴が開いた原因は判んないな。多分、こうじゃないかって予想は出来るけど。男の子の記憶しか残らなかったのは……何らかの、外的要因があったのかも。それもよく判んない。消えた分の空間は……やっぱり、消えたんじゃないかなあ。さっきも言ったように、選択されなかった可能性は消滅してしまう。今ここにいる世界が紛れもない現実である以上、その他の全ては、ただの可能性に過ぎないんだよ」

 結局判らない事だらけではないか。しかし、ひとつだけ確かなのは。

「そ……それじゃあ、やっぱ俺は、もう一生この身体のままって……事?」

 もう二度と元の日常には戻れないという絶望。ヒロトとの日常が続けていられるという安堵。果たして、どちらの比重が大き「いや、そうでもないんだなーこれが」

「ちょっ!?」

今ちょうど、この複雑な感情をどうアウトプットしようか戸惑っていたところだというのに。

「二つの世界が混じってるなんて、不安定極まりない状態だからさ。恐らく、決定的な矛盾が発生した時点で…………この世界は、消える」

 少年は言った。今居るこの世界は、やがて途切れて、穴が開いた瞬間──トオルの身体が女になった瞬間──まで遡ってリセットされると。そうすれば、後はもう何事も無かったかのように、世界はまた動き始めるのだと。

 つまり、今のこの女の身体は。ヒロトとの生活は。──うたかたの夢なのだ。

「う、嘘だ……」

「んー。まあ、僕もそれほどその辺の仕組みに詳しいわけじゃないけどさ。消えるのは間違いないと思うよ。可能性と現実ってのは表裏一体だからさ。世界は、より自然な方へと流れていく。よほど大きな力が働かない限り──」

「嘘だよっ! だって、この世界でヒロトさんと出会って、一緒に暮らして、アヤさんとか、なっちゃん先輩とか、からあげとか、あと北なんとかさんって人とも知り合って……ヒロトさんとデ、デートだってしたし……! そういうの、全部、全部無かった事になるってのかよっ!」

「そうだね」

 あっさりと。そう言い放った。

「そ、そんなの……」

 しかしそうすると、どうしても解せない問題がまたひとつ出てくる。彼は、そんな終わってしまう事が確定した世界で、なぜ尚も“歌”を求めるのか。彼がそれを手に入れる事に、どんな意味があるというのだろう。

「逢いたいから」

「え?」

「……その“歌”に、逢いたいから」

 ひどく寂しげな目をして、少年はそう言った。

「それにこれは、ヒロトの為でもあるんだよ。ヒロトもきっと、その歌を探してる」

「そ、それってどういう──」

 この少年とヒロトにどんな繋がりがあるというのだろう?

「サナの歌」

「────は?」

「探して欲しいのは、サナの歌なんだ」

 どこか遠くで、踏切の警鐘が響いていた。



4.



「あっちっ」

 指先に熱を感じて、トオルはとっさに手を引いた。

 鍋の蓋で火傷をしてしまったようだ。

 そうして初めて、トオルは自分が今、夕飯の準備をしていたのだと思い出す。

(サナさんの、歌……)

 少年の口からその名を聞かなければ、今、こんなにも冷静さを欠く事にはならなかっただろう。

 トオルには少年の願いに応える義理など無い。しかし彼は言った。ヒロトもそれを探しているのだと。

『サナの歌』と聞いて、初めに思い浮かんだのが、北川から借りたあのアルバムだった。

 ずっと考えていた。サナに対して目を背けるという事は、ヒロトの曲に対して目を背けるのと同じ事なのだ。サナの歌を聴かずに、中村ヒロトのファンを名乗る資格などあるのだろうか?

 そうしてようやく、トオルはサナのアルバムを聴いた。

 愚かな勘違いに気付かされた。サナの歌声を聴く事で、一瞬にして心が晴れた。そして、だからこそ、サナに向けられていた感情が嫉妬であると認めざるを得なくなった。

(アヤさん……なんであの時、教えてくれなかったんだよ……)

 すぐに聴く勇気を持てなかった自分が悪いのだが、釈然としない思いがある。そもそも、なぜあのような紛らわしい名前を名乗っていたのか。、ヒロトに対するこの気持ちも、自覚せずに済んだかもしれないのに。

「──トオルちゃん?」

 後ろから声を掛けられた。ヒロトだ。心臓が跳ね上がった。

 ここ最近、トオルはずっと一人で夕食を摂っていた。ヒロトの分はラップをしてリビングに置いておき、後で空になった食器を片付ける。そんなすれ違いの日々が続いていたのだ。この時間にヒロトが〈スタジオ〉から出てくるのは珍しい。

「指、どうしたの?」

 トオルは、火傷した指を無意識に庇っていた。

「あ……ちょっと、火傷──」

「! 大丈夫!? すぐに冷やさないとっ!」

 そう言ってヒロトはトオルの手を取り、蛇口の水で冷やし始めた。

(うわあああああああ……)

 トオルの顔がみるみる赤くなる。

 手を握られているだけではない。背中から抱きとめられるように身体が密着してしまっている。

(ヒ、ヒロトさんの体温が! 匂いが! 吐息があああああああああああ……!)

 爆発寸前だった。

「……珍しいね。こういう失敗するの」

「あ、あの、か、考え事とかしてて……」

「そう」

「……………………」

 そして、沈黙。

「ヒロトさんこそ、珍しいですねっ。この時間に、部屋から出てくるなんて」

「うん」

「……………………」

 間が持たない。

「……おいしそうな匂いだね」

「あ! はいっ。えと、今日はシチューなんです。なっちゃん先輩においしい作り方教えてもらって……」

「そっか」

「…………あの、今日は、一緒に晩御飯、た、食べ、たべ……」

 ……たいです? 食べてくれます? 食べましょう? 食べられ──。

「うん。一緒に食べるの、久しぶりだね」

 その瞬間、トオルの頭に花が咲いた。

「は、はいぃっ」

 二人での食卓は、やはりぎくしゃくした。以前はあんなにもトオルに纏わり付いてきたヒロトが、口数も少なく、明らかにトオルと距離を置いている。だからトオルは、余計に判らなくなるのだ。あのキスの意味が。ヒロトの気持ちが。

「…………昔さあ」

 急にヒロトが話しかけてきた。

「は、はいっ」

「昔、一緒に住んでたやつが居たんだよね。……そいつは、料理が下手だった」

「────!」

 サナの話。ヒロトの口から、初めてサナの話が飛び出した。

「まあ、俺も壊滅的に料理出来ないんだけどね」

(あああああ料理の方じゃなくて……!)

 訊きたくても、ずっと訊けなかった事。ヒロトを慮って。訊くのが怖くて。

 しかし今、話を振ってきているのはヒロトの方なのだ。このタイミングを逃せば、また話しづらくなってしまう。

「姉貴も下手なんだよねー料理」

「……ヒロトさん」

「ん?」


「探してる歌は、ありませんか?」


 唐突だった。だがトオルはなぜか、今、この質問こそが核心を突くものだという気がしたのだ。

「どうしたの? いきなり。……歌?」

「はい。サナさんの歌です」

「その名前……! ──まあ、知ってるか。どっからでも耳に入ってくるよな」

「歌、探してませんか?」

 トオルはもう一度、言葉を繰り返した。


 ヒロトは静かに目を伏せて、それからそっと喉の奥で笑った。不思議だ。この少女は、なぜこうも簡単に胸の奥に隠していたはずのしこりを見つけられるのだろう。誰にも、何も話していないはずなのに。

「面白い表現だね。『探してる』か……。確かに俺は、探していたのかも知れない。サナの歌を。今も、ずっと」

(あった…………!)

 少年の言ったとおりだった。ヒロトは歌を探している。探すべき歌は、やはり存在したのだ。

「おいで。聴かせてあげる」

 そう言うとヒロトは立ち上がった。

「あ……ヒロトさん。シチュー、残しちゃうんですか……?」

 上目遣いでトオルが言った。きゅっと握った拳を口元に当てているのは、無意識の所作だった。

「いや、全部食う」



5.



「ここは……」

 ヒロトが導いたのは、〈スタジオ〉だった。

「どうしたの?」

 トオルは、入り口の前で立ち尽くしていた。

「あの……俺が、入っちゃっていいんですか?」

「うん。どうぞ」

 やけにあっさりと、トオルを招き入れた。

 部屋に足を踏み入れる。と同時に、ヒロトが照明のスイッチを入れた。

「わあ……」

 トオルは目を見張った。扉一枚隔てただけだというのに、そこはもう、今まで生活してきた空間とは別の世界だった。

 ギター、アンプ、シンセサイザーといった機材は一目見てそれと判るものだったが、それ以外の大半の機材は、もはや何をするためのものなのかすら判らない。部屋の隅にはデスクトップPCに、二台のモニタ。その反対側には、扉の付いた巨大な箱。

(……ていうより、部屋かあれは)

 トオルが防音室に気を取られていると、不意に室内の照明が落ちた。いつの間にか、そこかしこに置かれたライトが明かりを灯していた。

「ごめんね。明るいと落ち着かないから、いつもこうなんだ」

 そう言ってヒロトはPCの前に座った。

「その辺座っていいよ」

 その辺と言われてもどの辺に座ればいいのか判らない。ヒロトはたまに、こういう場面で極端に気が利かないところがある。

 部屋を見回すと、壁際にあったパイプ椅子を見つけた。トオルは、周りの機材にぶつからないよう、慎重にそれを運んできて、ヒロトの隣に腰掛けた。

 ヒロトの横顔を見つめる。

 なんとなく、この部屋でPCに向かって、淡々と作業をするヒロトの姿が思い浮かんだ。

(ふふ……)

 曲を作っているヒロトを想像すると、あまりにこの部屋に溶け込みすぎていて、少し可笑しかった。

「トオルちゃんは、サナの“音”、聴いた事ある?」

「音……サナさんの歌、ですか? ……はい、あります」

 ついさっきの事だ。それまでは、ずっと逃げ続けていた。かすかな後ろめたさで、トオルは知らず目を伏せた。

「どうだった?」

「えーっと……すごく、素敵でした」

「そっか。ありがとう」

 トオルは、貧弱な表現しか出来ない自分を恥じた。しかし、それでもヒロトは、顔を綻ばせた。

 ヒロトはメディアプレイヤーソフトを立ち上げると、慣れた手つきで音楽ファイルを再生した。

 サナの歌声が流れた。

 あのアルバムにも収録されていた曲だ。胸を締め上げるような切ないメロディ。力強くて、優しくて、甘くて、どこまでも透明な──ヒロトが、愛した音。

「久しぶりに聴いた」

「え?」

「サナの“音”。ずっと……思い出すのが辛くて、聴けなかったんだけど」

「あ……」

 ヒロトにとっても、覚悟の必要な事だったのだ。サナの歌を聴くというのは。

「あの…………いい曲だから、聴かないのはもったいないです」

 まるで、自分に言い聞かせるように。

「あはは。そうだね」

 しかしこれが、あの少年の言っていた歌だろうか。違う気がする。少年は、「ヒロトも探している」と言ったのだ。そしてそれは、ヒロト自身の口からも聞いた。という事は、探さなければいけない歌というのは、ヒロトすらも知らないものではないのか。

「──まあ、聴かせたかったのはこれじゃないんだ。ちょっと待って」

 そう言ってヒロトはDAWを立ち上げると、プロジェクトの使用履歴から“on_sana_018.cpr”というファイルをロードした。

(作曲用のソフト……?)

 ヒロトがマウスを操作すると、曲が流れ出した。

 サナの歌……ではなかった。インストゥルメンタルのようだ。しかし、どこか違和感がある。主旋律が浮いてしまっているのだ。未完成のパズルを、無理矢理違うピースで埋めたようなちぐはぐ感。

「この曲は……?」

「サナの曲。これを完成させる前に……死んじゃったんだ、あいつ」

 平坦な口調にそぐわない、悲痛な目をしていた。隠しているつもりなのか、それとも、自分自身ですら気付いていないのか。

 ヒロトのこんな目を見たくない。トオルはそう思った。

「ヒロトさん、この曲、完成させましょう」

 この曲の本来のピースは、サナのボーカルだ。この曲こそが、あの少年の言っていた『サナの歌』に違いない。ヒロトも知らない歌。ヒロトが探している、歌。

「それは……無理だよ。この曲はサナの音じゃなきゃ駄目なんだ。他のボーカルじゃ、これは完成させられない」

「判ってます。だからちゃんと、サナさんの声で」

「トオルちゃん……?」

 確実にあるという保障は無い。しかしトオルは、何か確信めいたものを感じていた。何より、トオル自身がサナのボーカルによって完成したこの曲を聴いてみたいと思ったのだ。

「俺、音楽の事はよく判んないけど、こういうのって、歌は歌だけで録って後から重ね合わせるんですよね? だから多分、どっかにあるはずです。ヒロトさんが知らない間に録音された、サナさんのボーカルが」

「残念だけど……それは、無いよ」

「どうしてそう言い切れるんですか?」

「歌メロだけじゃボーカルは録れないからね。この曲には……まだ、歌詞が無いんだよ」

「じゃ、じゃあ……歌詞も、こっそり書き上げてたんです。きっと」

「常識的に考えろよ。サナは病気で死の宣告を受けてたわけじゃない。事故で、いきなり死んだんだ。あいつのレコーディングにはいつも俺が立ち会ってた。一度の例外も無い。この曲に限って、俺の知らない間にあいつが歌詞を書いて、ひとりでボーカル録ってたって? そんな都合のいい話、あるはずないよ」

 ヒロトの声に苛立ちが見え始めていた。

「そんな事無いですって! なんで何もしないで諦めちゃうんですか!」

「お前に俺の気持ちが判んのかよ!」

「…………っ!」

 声を荒げているヒロトを見るのは、初めてだった。

「あ……ご、ごめん。でもさ──」

「あ、あるもん…………絶対に、あるもん……っ!」

 半泣きだった。

「だから……無いんだって……なんでそんな──」

「ヒロトさんの、バカ────────────────ッ!」

 そう言ってトオルは部屋を飛び出してしまった。

「ちょ、トオルちゃ────。……くっそ……何なんだよ、もう…………」

 感情のままに苛立ちをぶつけてしまった事への後悔と、理不尽なまでに頑ななトオルへの戸惑いで、ヒロトの心の中はぐちゃぐちゃだった。



6.



 トオルと喧嘩をするのは、これが初めてだった。あんなにも感情を剥き出しにして、女の子を怒鳴りつけるのも。自己嫌悪の四文字が頭の上に重く圧し掛かって、ヒロトはうな垂れた。

(はあぁぁぁぁ何をやってんだ俺は…………)

 何とかして、トオルと仲直りをしなければ。やはり、自分の方から折れるべきなのだろう。先ほどの態度は、あまりに大人気なかった。

 ヒロトから折れるという事はつまり、サナの歌を探すという事だ。在るはずもないのに。

 過去のレコーディングを思い出す。ボーカルのレコーディングは、基本的にこの〈スタジオ〉内で行っていた。ヒロトがエンジニアリングを担当し、機器のセッティングも全てヒロト一人でやっていたのだ。DAWを使ってのレコーディングなので、もし音源があるとしたら、このPC内のハードディスクか、外付けのバックアップ用ハードディスクという事になる。サナは特に、PCの扱いに疎いという事は無かったが、彼がDAWを触っているところを、ヒロトは見た事が無かった。そんなサナが、果たしてDAWを使いこなせたかどうか……? そういえば、この部屋のどこかにMTRもあったはずだ。あれに使われていた記録媒体は何だったか。それも確認する必要があるだろう。いずれにせよ、ハードディスク内に音源が見つからなければ、この部屋にある全ての記録メディアを確認しなければならない。

 ひとまず、ハードディスク内を探す事にする。いくつかのフォルダに目星を付けて、ひとつひとつ確認していく。地味な作業だ。

(やっぱり、無いよな……)

 一通り探してみたものの、それらしいファイルは見当たらなかった。こうなれば、ハードディスク内を全て検索してみる他ない。検索条件は、サナが死ぬ以前のファイルで、拡張子はwavといったところか。他の条件でもいくつか試してみる必要があるだろう。

 この作業にはしばらく時間が掛かる。ヒロトはひとまずPCをそのまま放置して、〈スタジオ〉を後にした。



 トオルは部屋でひとり、三角座りでメソメソしていた。

(ぐすん……ヒロトさんと、喧嘩しちゃった……)

 どうしてこんな事になってしまったのだろう。自分はただ、あの曲が完成すればヒロトが喜ぶと思って提案しただけなのに。なぜヒロトは、頭ごなしにそれを否定するのか。

 その時、部屋のドアがノックされた。

 扉を開けると、ばつの悪そうな顔でヒロトが立っていた。目を真っ赤に腫らしたトオルを見て、少し動揺した様子を見せる。

「あ、あの……さ。探すの、手伝って欲しいんだけど」

「はい……?」

「あの部屋、ひとりじゃ広いから。トオルちゃんも、その……一緒に探してくれると、ありがたい」

「ヒロトさん……」

「さっきはごめん。──実を言うとね、怖かったんだ。サナの音源を探して、それでも見つからなかったら、今度こそ立ち直れない気がして。『無い』事を確認してしまうのが怖くて……それから逃げてた」

 トオルはそこで初めて、自分がヒロトに対してひどい仕打ちをしていた事に気付いた。それでも尚、ヒロトの方から謝ってきてくれたその優しさに、トオルはまた涙が溢れ出した。

「ヒ、ヒドトざん…………うぅ、ごべんだざい……っ。わだぢ、ひどい事言っぢゃいばちだ…………」

 混乱のあまり、ヒロトの前なのに一人称が「私」になっていた。いや、なっていない。嗚咽のせいで。

 涙と鼻水でトオルの顔はぐしゃぐしゃだったが、ヒロトは気にも留めずトオルを抱き寄せた。

「トオルちゃんの言うとおり、最後まで諦めずに……探してみるよ」

 そして…………もしも見つかったら、その時は『あの曲』に歌詞を付けよう。トオルに歌ってもらう為に。

 トオルの“音”を聴きながら、ヒロトはそっと心に誓った。



7.



 結局、ハードディスクの中にも〈スタジオ〉内にも、サナの音源は見つからなかった。ただ、ひとつだけヒロトが気になったのは、ハードディスクタイプのMTRに、使ったような形跡が認められた事だ。それが最近の事なのかどうかは判らない。MTRのハードディスク内にもデータは無かったのだ。いずれにしろ、収穫が無い事に変わりはなかった。

「ブースを買ってからはあんまり行かなくなったけど、昔よく利用してたリハスタがあるんだよね。せっかくだからそこも当たってみるか」

 ヒロトの提案で、レンタルスタジオまで足を運ぶ事になった。



「あーらららららららら。ヒロやんやないのー。久しぶりやわぁ。あんたちょっと見いひんうちにまた痩せたんちゃう? あかんえー、ちゃんと食べんと。あらっ、かわいらしいお嬢ちゃん連れてー。彼女かいな。若い子はええなあ。今日はどうしたん? 急に来られても部屋空いてへんで。来る時は予約しよしていつも言うてるやないのー」

 五十代くらいのファンキーなおばちゃんが出迎えた。

「おばちゃん久しぶり。今日はスタジオ借りに来たわけじゃないよ。ちょっと探し物があってさ。もしかしたらここにあるかもって思って、来たんだ」

 トオルは挨拶をするのも忘れて、口を開けたままおばちゃんに見入っていた。慣れた様子で、いたって普通に受け答えしているヒロトが不思議でならない。

「あらっ。ほんまかいな。そらあかんわー。もー忘れもん多いさかいにいっつも困ってんにゃおばちゃん。何忘れたん? 言うてみよし」

「うーん、具体的に何なのかは判んないんだよね。記録メディアの類だと思うんだけど。サナが最後にここに来たのっていつ? あいつの忘れ物なんだ」

「あー……あの子かいな……。ほんま、惜しい事したなあ。ええ子やったのに……。あんたもええ加減元気出さんとあかんえ。いつまでも引きずっててもしゃあないしな。ちゃんと気持ち切り替えんと、いつまで経っても新しい事始められへんさかいに」

 何気にぐさっと来る言葉だった。

「ああ、うん。それで、サナは──」

「あーはいはい。あの子なー。亡くならはるちょっと前に、ふらーっと顔出してなあ。おばちゃん久しぶりー言うて。あの時はほんま、元気やったのになあ……」

 亡くなる直前に来ていた? ヒロトとトオルは顔を見合わせた。

「で、何? 記録メデアておばちゃんそれよう判らへんにゃけど」

「えーっと、例えば、CD‐Rとかそういう──」

「あーよう忘れていかはるわみんな。ちょっとおばちゃん判らへんし、直接探してみるか? 奥入ってええさかいに」

 そうして、奥の事務所に通された。

「CDとかその辺のやつはそこの段ボールに全部入ってるさかい、見てみよし。あと、おっきい忘れもんは倉庫の方にもあるけど、そっちも見たかったらまたおばちゃんに言いよしや」

「ありがとう、おばちゃん」

「あ、ありがとうございます……」

 早速、段ボール箱を開けて音源の捜索に取り掛かる。

「いっぱいありますね、ヒロトさん」

 全部で三箱。これら全てを確認するとなると、骨の折れる作業になりそうだ。

「まあ、地道に探すしかないよね」

 そうして、全ての段ボール箱を探し終えても、やはり目的の音源は見つからなかった。念の為に倉庫の方も探してみたが、それでも見当たらない。

 結局ここも、無駄足だった。

「飴ちゃん食べるか? いっぱいあるし持っていきよし」

 帰り際におばちゃんから飴を貰って、レンタルスタジオを後にした。



「はぁ……結局、見つかりませんでしたね」

「まあ、仕方ないよ。元々あそこは、本命じゃなかったし」

 そうは言っても、一番の本命だった〈スタジオ〉の中で見つからなかったのだ。トオルは、自分から言い出した手前、余計に落胆が大きかった。ヒロトにも申し訳なく思う。こんな調子で、本当にサナの歌は見つかるのだろうか……。

「そういえば……」

 何かを思い出したようにヒロトが口を開いた。

「はい?」

「忘れ物の中に、USBメモリ、結構あったね。やっぱちっちゃいから、みんな忘れちゃうんだろうな。サナも一個、持ってたはずなんだよなーあれ。どこ行ったか判んないけど」

「…………はい?」

 それは凄く重要な情報ではないのか。


     *


 家中を捜索する事になった。USBメモリを筆頭に、音源を記録出来るメディアは、全部。しかし、それでもやはり、見つからない。

「っていうかこの家、サナさんの持ち物全然無いですよね」

「ああ、そりゃあね。サナの物はほとんど、葬式終わった後にあいつの実家に送ったし」

「ヒロトさん、ちょっと待ってそれ……」

 見つかるはずが無い。しかし、考えてみればもっともな話だった。

 トオルが今までこの家で生活してきて、ヒロト以外の誰かが住んでいたと思わせる形跡を見つけた事など無かったのだ。北川から話を聞くまで、同居人が居たとは夢にも思わなかったのだから。

「サナさんの実家って、どこですか?」

「大分遠いよ。新幹線で三時間……って、トオルちゃん、まさか」

「ヒロトさぁん、トオル、旅行に行きたいなあ。ニコッ」

 本気の目だった。



8.



「わーっ! ヒロトさん、海です海っ!」

「ああ、そうだねえ。海だねえ」

「いいなあ。泳ぎたいなあ」

「もうシーズン終わったから、今泳いだら死ぬと思うよ」

 そう言いつつ、ヒロトの頭の中では水着姿のトオルが笑っていた。

(来年は絶対誘おう……)

 サナの実家へ向かう途中。新幹線から乗り継いで、今は電車の中だった。あれから、トオルはすぐにバイト先に電話を入れて休みを取り、ヒロトに旅館の予約をさせて、翌々日には荷物をまとめて旅立っていた。宿を決める際、ヒロトはどこか適当なビジネスホテルを探して二部屋予約しようとしたのだが、トオルは雰囲気が出ないという理由で旅館を推した。結局、急な事もあって二部屋分の空きがある旅館が見つからず、一部屋のみの予約になってしまった。トオルは「部屋代がもったいないから一部屋でいいですよ」と言ったが、ヒロトにしてみれば、トオルと同じ部屋で寝るというのは、大きな試練だった。ちゃんと自分を保てるかどうか、全く自信が無い。

(何考えてんだかなーこの子は……)

 これからサナの実家へ向かうという時に、こんな事ばかり考えているのは不謹慎だろうか。

「俺、旅館とか泊まるの初めてなんですよねー。浴衣とか置いてあるんですよね? ちゃんと着れるかなあ」

 トオルはトオルで、旅の目的を見失っている気がしてならない。

(ま、トオルちゃんはこれでいいか)

 そうこうしているうちに旅館に着いた。一旦そこで荷物を預けて、レンタカーを使ってサナの実家へ向かう。ここで見つからなかったら本当に手詰まりだ。さすがにトオルもヒロトも、少し緊張した面持ちになっていた。

「ヒロトさんは……行った事あるんですか? サナさんの実家」

「ああ。葬式ん時にね。一度だけ」

「あ……そう、ですよね」

 トオルはやってしまったという顔をした。

「トオルちゃん」

「は、はい」

「もし、見つかんなくてもさ。旅行は旅行で楽しもうよ。せっかく来たんだし、ね」

 サナの歌を探してはるばるこんなところまで来たのは、トオルが探そうと言い出したせいだ。ここまで、全ての探索が空振りに終わって、トオルは少し気落ちしていた。もしかしたら、自分のわがままでヒロトを振り回しているだけではないのか。サナの歌が見つからなければ、余計にヒロトを落胆させてしまうだけなのだ。そんな思いを胸に抱えながら、表には出さないよう、明るく振舞っていたはずなのに、やはりヒロトには見透かされている。そしてあろう事か、逆に気を使わせてしまっているのだ。

「……そうですね。温泉、楽しみです」

 そう言って、微笑む事しか出来なかった。



 サナの家は普通の一軒家だった。表札には「真田」と書かれている。トオルは、なんとなくサナの名前のルーツを知った気がした。

 ヒロトがインターホンを押すと、サナの母親と思しき中年の女性が出迎えた。

「ご無沙汰してます。中村です」

「どうも……お久しぶりです」

 女性は、上品な仕草でゆっくりと頭を下げた。ヒロトとトオルも、それに倣って挨拶を返す。

 彼女を見てトオルは、自分の母親を思い出した。どこか重なる部分がある。我が子を失った親というのはみんな、こんな顔をするのだろうか。胸に痛みが走った。

 サナの実家には、当然あらかじめ連絡を入れてある。用件を済ませる前に、二人はサナの遺影に線香をあげた。

「お電話をいただいてから、こちらの方でも少し探してみたんですよ。お探しの物、もしかしてこれでしょうか?」

 そう言ってサナの母親が差し出した物は、まさしくUSBメモリだった。

「こ、これ……! ヒロトさんっ」

「間違いない。サナの、USBメモリ……」

 信じられない。こんなにあっさり? いや、これ自体はむしろ、あって当然のものだ。問題はその中身だ。これまで、どこを探してもサナの音源は見つからなかった。しかし、使った形跡のあったMTR、亡くなる直前にリハーサルスタジオを訪れていた事実……。希望は、まだある。

「トオルちゃん、車ん中に、ネットブック、あるはずだから……」

「すぐ取ってきます!」

 トオルは外に停めてあるレンタカーへと走った。

「ヒロトさん、持ってきました」

 ネットブックを抱えてトオルが戻ってきた。ヒロトはそれを受け取ると、ディスプレイを起こして、スリープ状態を解除した。側面の端子に、サナのUSBメモリを挿し込む。やがて、OSがそれを認識し、フォルダの中身が表示された。適当に当たりを付けて、階層を辿っていく。


『音楽』


『Owl's notes』


『ヒロト』


『18 ユア・ノート』


 そこで、ヒロトの手が止まった。

「『ユア・ノート』……? ヒロトさん、これは……」

 その名前を、ヒロトは知らない。

 今まで、ヒロトとサナが組んで作った曲は、全部で十七曲。十八曲目を完成させる前に、サナは帰らぬ人となった。

 フォルダをダブルクリックする。その中には、二つのファイルがあった。一方は、テキストファイル。もう一方は──音声ファイル。

 ファイル名はそれぞれ『歌詞』、『テイク1』となっていた。

 ヒロトは、震える指でタッチパッドを操作した。オーディオプレイヤーソフトを立ち上げて、音声ファイルのアイコンをそれに重ねる。指を離すと、アプリケーションは即座にファイルを認識し、再生を開始した。

 ──サナが、歌っていた。

 リバーブもイコライザも通していない、ボーカルのみの、プリミティブな音源。ヒロトの知らない音源。ずっと探していた、それは──最後の、サナの歌だった。

 こうして、ヒロトの元に届くのをずっと待っていたのだ。音楽として、この世に生まれ出るために。

 ネットブックに備え付けられた安物のスピーカから流れ出る音が、サナの波形で世界を揺らす。

 例えば、グラフィーム・カラーと呼ばれる共感覚がある。これは、文字の種類によって実際の色とは異なる色を感じるという症状だ。これと同様に、ヒロトの場合も聴覚から得た情報で別の音を感じる事が出来る。

 サナの歌が、ヒロトの知覚を揺り起こした。

 励起された音のかけらたちが、サナの歌声に重なってゆく。全ての音が、あるべき形を得た喜びに震えていた。


 最後のピースを得て今、『ユア・ノート』は完成した。


 トオルは知らなかった。ヒロトが、こんなにも激しい感情を裡に秘めていた事を。

 いつも超然としていて、余裕の表情で、どこか浮世離れしたところのある、それがヒロトの本質だと信じて疑わなかった。初めてだった。こんな風に、全身を震わせて泣くヒロトを見るのは。

 そう。ヒロトは泣いていた。大声を上げて。子供みたいに。

 それは決して、音源を見つけた喜びによるものではない。心を引き千切られたような痛みに対する、抗議の悲鳴だった。

 生きていてほしかった。歌はこうしてここにあるのに、サナだけが、そばに居ない。歌声だけを遺して勝手にヒロトの前から消えてしまったサナに、憤りさえ感じた。これが最後の歌だと、認めたくなかった。

 ──いやだ。もっとお前の歌を作りたかったんだ。いや、歌ってくれなくてもいい。お前が居るだけで、世界は音に満ち溢れた。それを聴くだけで俺は……幸せだったんだ。

 肩から、かすかな音を感じた。トオルの手が、そこに触れているのだ。この温もりのおかげで、ヒロトは痛みに押し潰される事無く、どうにか耐える事が出来ていた。

 トオルの手に、自分の手を重ねる。

「トオル……」

 嗚咽にまみれた声で、トオルを呼ぶ。

「はい」

 トオルもまた、涙に声を詰まらせていた。

「俺の曲を、歌ってくれ……っ」

「────はいっ」

 それでもはっきりと、トオルは答えた。



 USBメモリを借り受けて、二人はサナの家を後にした。サナの母親には、必ずこの曲を完成させると約束して。

 そうして、旅館に戻って、料理を食べて、温泉に入って、部屋に戻ると布団が二組敷かれていて、でもまだ寝るには早いので少しだけおしゃべりをして、会話が途切れると一緒の布団に入って、その夜、二人は恋人になった。

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