Aメロ

1.



 トオルはよく働いた。朝晩の食事を用意し、洗濯をし、からあげの世話をした。トオルが来てからというもの、不摂生の見本のようだったヒロトの生活レベルは、格段に引き上げられたと言えよう。

 今までたったひとりでどうやって生活していたのかと思うくらい、ヒロトは家事に関与しなかったが、ひとつだけ、トオルに忠告した事があった。

「この部屋だけは掃除しなくていいよ」

 ヒロトはその部屋を〈スタジオ〉と呼んだ。仕事場として使っているが、高価な音楽機材が沢山置いてあるので、足を踏み入れてはいけないという事だった。トオルは素直に聞き入れたが、ひとつだけ気になったのは、その話をする時に少しだけ見せた、ヒロトの遠い目だった。

 トオルは家事の最中、よく歌を歌った。『空の歌』を。

 以前は、ここまで頻繁に歌う事はなかったのだが、ヒロトと出会う切っ掛けとなったこの歌は、トオルにとって今や特別なものとなっていた。自分を救ってくれた歌なのだ。

 ヒロトにしてみれば、毎日歌を歌いながらくるくるとよく働くトオルに不満の出ようはずもなかったが、トオルの方はヒロトに対して少し負い目を感じていた。タダで住まわせてもらっているのだ。少しでも、生活費を入れた方がいいのではないか?


「バイトします」

 ある日、トオルは唐突にそう告げた。

 ヒロトはあまり気乗りしなかった。理由は単純で、トオルと一緒に居る時間が減るからだ。ヒロトは引き留め工作に出た。

「お小遣い渡そうか?」

 完璧に勘違いしていた。トオルは遊ぶ金が欲しいわけではない。稼ぎたいのはあくまで生活費だ。

「そういうわけなので、バイトします」

 聞けば、二人が出会った日に入ったファミレスで、アルバイトの募集をしているのだという。あそこならこの部屋から程近いし、ヒロトも普段から利用している。トオルのシフトに合わせて通いつめる事も可能だ。トオルのウェイトレス姿を思い浮かべつつ、ヒロトは手のひらを返して快諾した。

「じゃ、明日は買い物に行こうか」

「へ?」



 翌日、買い物に出掛けた。

 連絡用にと、ヒロトはトオルに携帯電話を与えた。

「無いと不便でしょ?」

 確かにそうだが、ヒロトがそれを買う義理はない。トオルは固辞したが、結局押し切られて契約する羽目になった。

「月々の支払いは絶対自分でしますからっ」

 ヒロトは自分名義での契約なのだし、気にしなくていいと言ったが、トオルもそこだけは譲らなかった。

「じゃ次は服だね」

 終始、ヒロトのペースで事が運んでいく。確かにトオルは、女物の服を持っていない。外へ働きに出るなら、必要なものと言える。

 ヒロトは片っ端からトオルに試着させ、褒めちぎってはそれを買い与えた。まるで着せ替え人形である。

 トオルもトオルで、戸惑いつつも試着を楽しんだ。褒められて悪い気はしない。乗せられやすい性格なのだ。一度袖を通してみれば、意外と抵抗は少なかった。

 気が付けばヒロトは、大量の買い物袋を抱えていた。

「すみません……お金が入ったら、絶対返しますから…………」

「気にしなくていいよ。トオルちゃんがかわいい服着てると、俺も嬉しいし」

 さらっとこういう事を言う。

「さて、次は下着かな」

「はい……って、ええっ!?」

「いや、要るでしょ」

 確かに、要る。今持っているのは、最初に着けていたものと、コンビニで買った三枚いくらの安物のショーツのみなのだ。

「サイズとか、判る?」

「さ、さあ……」

「まあ、仕方ないか。こればっかりは俺が付き合うわけにもいかないしなあ」

 少し思案して、ヒロトは携帯を取り出した。



「トオルちゃん、久しぶりねっ」

 アヤが来た。

「つーわけで姉貴、頼むわ」

「任せてっ。ばっちり、かわいいの選んであげるわ。あ、それとも、セクシーな下着の方がいいかしら?」

 ちらりとヒロトを流し見る。ヒロトは黙って親指を立てた。

「ふ、普通のでいいですからっ」



 ランジェリーショップに来た。

 店内にひしめくきらびやかなパンツ。そしてブラジャー。この下着を自分が身に着けるのかと思うと…………トオルはちょっぴり、わくわくした。

 そんなわけで、下着を購入したのだった。



2.



 トオルのバイトはあっさりと決まった。例のファミレスである。週四日、トオルは家を空ける事になった。

 面接の際、一番の難関だったのは、言葉遣いだ。ちゃんと女としてしゃべる事。しかしトオルはそれも乗り越えた。仕事なのだ。妙な拘りや体面はかなぐり捨てた。

 トオルが気兼ねなく『俺』という一人称を使えるのは、事情を知っているヒロトに対してのみとなった。

「俺がバイトの日は店に来ないで下さいね」

 トオルの気持ちは判るが、それを聞き入れる気などヒロトには全く無かった。機を見て必ずトオルのウェイトレス姿を拝むのだ。決意を胸に秘めたヒロトの目は猛禽のそれだった。



 やがて、トオルがバイトを始めてから一週間ほども経った頃。

「もしもし、お久しぶりっす」

 ヒロトの携帯に福音がもたらされた。

 ヒロトが代表を務めるサウンドチームのメンバー、北川からだった。ヒロトが曲を作らなくなって以来、こうして時折様子を窺いに電話を掛けてくる。

 昼食に誘われた。ヒロトはファミレスを指定した。それと同時に、いくつかの指示を出しておく。

 一旦通話を切り、再度の連絡を待った。正座で。

「……………………」

 携帯が鳴った。

 くわっと目を見開き、神速で携帯を掴む。

「ボス、手筈どおりに」

「そうか…………時は満ちたな」

 彼にボスと呼ばれた事など無かったが、ヒロトは空気を読んだ。

 かくして、トオルのバイト先へと向かうのだった。



「いらっしゃいませー」

「あ、なっちゃん」

 目つきの悪いウェイトレスがヒロトを出迎えた。

「ぷっつんが来てるけど」

 目つきの悪いウェイトレスは、そう言って北川の居る席を親指で差した。

「ああ、知ってる。なっちゃんが注文取りに来んの?」

「悪ぃか?」

 このウェイトレスは口も悪かった。

「最近新しい子入ったでしょ。石田トオルって子。その子に代わってよ」

「あぁ? 知り合いかよ」

「まあね」

「ちっ、代わってやるけど、そんかし一番たけぇの頼めよ」

 で。

「ご注文はお決まりでしょうか……」

 トオルが注文を取りにきた。苦虫を噛み潰したような表情で。

「いやーごめんねトオルちゃん。来る予定は全然無かったんだけどさ、彼から電話掛かってきちゃって、自分の分の注文も既に済ませてるって言うからさー。あ、彼は北川君ね。うちのサウンドチームのメンバー」

「どもっす。北川っす」

 ヒロトの計画は至極単純なものだった。

 まず、北川を先に店に向かわせ、注文を取っておいてもらう。その後に電話を掛けさせ、さもそこで初めてヒロトを誘ったかのように装うのだ。こうしておけば、ヒロトが能動的に店に来ようとした事にはならず、北川も注文を済ませた後なので、場所を移す事も出来ない。

(この間、姉貴が俺に使った手だ……その名も『這い寄る晩餐ディナー・バインド』!)

 ちなみに今はランチである。

「やっぱ似合うねーここの制服」

「あ、あんまり見ないで下さい……」

 この照れる仕草が見たかったのだ。ヒロトは満足した。

「それにしてもロトさん、いつの間に彼女なんて作ったんすか」

 北川がヒロトに訊いた。

「わ、私、彼女じゃないですっ」

「一緒に住んでるけどね」

「ちょ……!」

 さらっと誤解を招く言い方をする。

「仲良さそうっすねー。うらやましいっす」


     *


「おねーさん」

 ある日の夕方。買い物袋を抱えてマンションに帰る途中、唐突に声を掛けられてトオルは振り返った。

 少年が立っていた。年の頃は十一、二歳といったところか。当然見覚えなどない。知り合いにこんな少年は居なかった。

「な、何?」

 このような子供に声を掛けられる謂れなどない。

「女の子の身体にはもう慣れた?」

「────っ!」

 にっこりと笑って放った少年の言葉は、思いもよらないのものだった。

 なぜ知っている? 女の身体になった事は、ヒロト以外知らないはずだ。ヒロトが誰かに話すとも思えない。そもそも、ヒロトの知り合いにこんな子供が居るとは考えにくい。

「な、何を、いきなり……」

 焦燥と警戒と緊張と不安がトオルを支配する。少年の笑顔がいやに不気味に感じられた。

「そんなに怖がらないでよ。ちょっとね、おねーさんに頼みたい事があるんだ」

「こ、怖がってなんか──」


「歌を、探して」


「──え?」

 どこからか、踏切の警告音が聴こえてくる。

「歌を、探してほしい」

「何、だって?」

 具体性に欠ける、謎掛けのような言葉。

「……意味が判らないんだけど」

「ごめんね、生まれたばっかりだから、今はまだ長くは保てないんだ。詳しく話してる時間が無い。じゃ、頼んだからね」

 そう言って、消えた。唐突に。忽然と。一瞬で。跡形も無く。

「……………………!」

 トオルは脱兎のごとく逃げ出した。

(何も見なかった何も見なかった何も見なかった何も見なかった何も見なかった──!)

 今日見た事は忘れようと心に誓うのだった。



3.



 トオルが歌っている。

 その日ヒロトは、特にする事もなく、リビングでくつろぎながら雑誌を眺めていた。ヒロトがこうして家でだらだらと過ごすのは、特に珍しい事ではなく、むしろ日常と言えた。サウンドチームの代表と言っても、運営はほとんど社員に任せっきりだし、曲を作らなくなってしまえば、やる事など無いに等しかった。一応大学に籍を置いてはいるが、チームを法人化してからは休学している。

 歌声の方へ目を向けると、ベランダで洗濯物を干すトオルの姿が見える。

(いつも歌ってるな)

『空の歌』を。

 トオルの動きに合わせて、エプロンの結び目が揺れる。逆光がトオルの輪郭をけぶらせ、スカートはその光を散らすように舞った。

 静謐で、美しい。

 いつしかヒロトは、トオルの姿に見入っていた。


(────あれ?)

 気が付けば世界から音が消えていた。トオルの歌声も。

 代わりに、世界そのものが音となる。

 空気はパッドとなって空間を満たし、パーカッションが壁掛け時計の針を進めた。

 トオルの動きに合わせてフルートが揺れ、オルガンがトオルの輪郭をけぶらせ、アコースティックギターはそれを散らすように舞った。

(これは……)

 ヒロトはこれを知っていた。

 共感覚シナスタジア

 ある特定の刺激に対して、異なる感覚質クオリアを不随意に生じさせる知覚現象。例えば、視覚から得た刺激に音を感じる共感覚を『音視』という。ヒロトの場合、五感の全てに音が伴うという、出鱈目な“音覚おんかく”を持つ重度の共感覚者シナスティートだった。

 かつて、この世界こそがヒロトの住む場所だったのだ。DAWを通してこの世界を具象化すれば、音楽などいくらでも創り出せた。もう二度と、触れる事など無いと思っていた、音という公理で構築された世界。

(これは……!)

 全身に歓喜が満ちる。目尻から音が零れ落ちそうになるのを、必死で堪えた。

 世界でただひとつだけ、音の形を取らないものがあった。

(トオル)

 ずっとヒロトに背を向けている。

 もしも彼女が振り向けば、彼女もまた、音に還元されるのだろうか。それは、どんな音なのだろう? 知りたくもあり、少し怖くもあった。

 ヒロトは一度、それを失っているから。


「よしっ、終わった!」

 世界に色が戻った。

「あ……」

 気が付けば、空になった洗濯カゴを抱えたトオルが目の前に立っていた。

「どうかしました? ヒロトさん」

「あ、いや…………なんでもない。お疲れ様」

「? もう少ししたら、お昼ご飯の用意、しますから」

 そう言ってにっこりと微笑わらう。

 トオルは一瞬だけ疑問の色を浮かべたが、それ以上ヒロトの様子を訝しがる事は無かった。

「今日はバイト無いんだね」

 本来ならもう出勤しているはずの時刻だ。

「はい。週四日ですから」

「じゃ、どっか出掛ける?」

「へ?」

「いや、せっかくの休みならさ。俺もちょうど暇だし」

 というかヒロトの場合、暇しか無い。

「あーでも、急に言われても……」

「行きたい所、無い?」

 そう言われてトオルは、少し考え込む仕草をした。

 やがて心が決まったのか、顔を上げるとこう言った。

「…………あります。行きたい所」

「どこ?」

「──家に、帰りたいです」



 家に帰りたい。ここ最近、ずっと考えていた事だった。ただ、どうにも踏ん切りがつかなくて、迷っていたのだ。ヒロトからの誘いはいい機会だった。

 いくつか持っていっておきたい日用品もあったが、しかしトオルにとって一番の目的は『空の歌』のmp3だった。

 ヒロトに出会って以来、トオルはよくこの曲を歌うようになった。そして、歌う度に思うのだ。もう一度聴きたいと。

 以前トオルは、ヒロトに『空の歌』のmp3を持っていないかと尋ねた事がある。ヒロトは持っていないと答えた。過去に、ハードディスクをクラッシュさせてしまったのだ。その時に、当時のデータは全て消えてしまったという。それを聞いて、トオルはますます『空の歌』への想いを募らせる羽目になった。

 平日の昼間。父親は当然会社で、母親もパートに出ていて家には居ない。この時間なら、家に帰っても大丈夫なはずだ。

 ──はずだった。

「な……んで」

 玄関先に、母親が立っていた。身を隠す暇も無く、目が合う。気付かれてしまった。

「あなた……この間の」

 トオルは既に、この身体で彼女に会っている。そう、

「あなた、トオルのお友達よね? あの日うちを訪ねてきたもの。ねえ、うちの子、知らない? もう二週間も帰ってこないのよ。携帯も家に置いたままで……」

 彼女からすれば、女のトオルは怪しい事この上ない存在のはずだ。自分の息子がいなくなった日に突如訪ねてきて、何も語らずに走り去った少女。疑うなという方が無理な話だろう。

「あ、あの……」

 縋る様に詰め寄る母親に、トオルは心を乱した。

「すみません、僕たち、トオル君の友達で……僕たちも心配してるんです。ずっと連絡取れなくて」

 とっさにヒロトが助け舟を出した。

「あ……そう、なの。ごめんなさい。取り乱してしまって」

「いえ……お気持ち、お察しします。家族の方なら、もしかしたら何か知ってるかも知れないと思って訪ねてきたんですけど、その様子だと無理みたいですね……。僕たちも、もし何か判ったら、また知らせに来ます。……元気出して下さいね。それじゃあ」

 そう言ってヒロトは、立ち尽くすトオルの手を引いて早々に立ち去った。



「──大丈夫?」

 少し家から離れてから、ヒロトはようやくトオルに声を掛けた。こちらはこちらで、さっきから蒼白な顔をしている。

 ヒロトの言葉に、小さく頷きを返す。口を開く事は出来なかった。それをすれば、言葉よりも先に嗚咽が漏れそうで。

 恐らく彼女は、ずっとああやってトオルの帰りを待っているのだろう。パートも休んで。かなりやつれていた。

 自分が原因なのに、今のトオルには母を安心させてやる術が無い。

 拳を握り締めた。唇を噛み締めた。それでも堪え切れなくて、結局トオルは泣いた。声だけはなんとか押し殺して。

 ヒロトが、トオルの肩をそっと抱き寄せる。

 今、人の温もりに触れてしまうと、涙が止まらなくなってしまうのに。



4.



「ヒロトさーん、今日は唐揚げですよー。からあげと言っても猫ちゃんじゃないですよー」

 キッチンからの声が、おどけた様子で夕飯のメニューを告げる。

 あの日以来、トオルの口から家族の話が漏れることは無かった。

 トオルは、努めて明るく振舞っていた。無理をしているのがありありと見て取れる。そんなトオルを見る度に、ヒロトはいたたまれない気持ちになるのだった。

 どうにか、元気付けてやりたい。

 どうやって?

 そもそも、抜け殻のような今の自分に、誰かの為に何かを為す事など出来るのだろうか。

「にゃー」

 からあげが足元に擦り寄ってきて鳴いた。無意識のうちに抱き上げて、耳をくわえる。

(ふ~む…………)

「ヒロトさん、そっちのからあげは食べちゃダメです」

「……うん」

 料理を運んできたトオルに注意されるが、ヒロトはあまり聞いていなかった。

 ぼうっとしながら、キッチンとリビングを往復して次々と料理を運んでくるトオルを眺める。

 歌っている。いつものように。『空の歌』を。

「──そうか」

 簡単な事だった。



 食事を終えてすぐ、ヒロトは〈スタジオ〉に篭った。

 DAWの画面を前に、そっと目を閉じる。

 思い出す。『空の歌』を構成する全ての音を。

 オケは全て打ち込みで再現出来る。かつて作った曲をただなぞるだけ。ゼロから音楽を生み出す作業ではない。今の自分でも、やれるはずだ。

 目を開いて、DAWの画面を見据える。

 マウスを滑らせて、最初のノートを打ち込んだ。

 そこから先は、自動的だった。



「──ふぅ」

 溜め息をいて、ヒロトは椅子に体重を預けた。

 なんとかオケは完成した。

 モニタには、所狭しとノートがちりばめられたピアノロールが映し出されていた。

 再生ボタンをクリックして、ヘッドホンから流れる音を確認する。ほぼ完璧に再現出来ているはずだ。

(意外と覚えてるもんだな)

 音源を失くして以来、聴いていないにも拘わらず、驚くほどすんなりとここまで漕ぎ着けた。

(さてと、あとはボーカルか)

 歌モノの曲ではあるが、『空の歌』は人の声を使っていない。ボーカルも含めて、この曲は全て打ち込みなのだ。

 ヒロトは、当時から愛用しているボーカル音源を立ち上げた。

『VOCALOID2』と書かれたスプラッシュスクリーンの後、シンプルなエディタのUIが画面を覆う。

 ひとつノートを打ち込んで再生ボタンを押すと、ヘッドホンから「アー」という音が聴こえた。懐かしさに自然と笑みがこぼれる。あの頃は、この音源を使うのが楽しくて仕方なかった。それまで、インストゥルメンタルの曲しか作る事の出来なかったヒロトに、無限の可能性を与えてくれたのだ。当時のヒロトは、取り憑かれたように歌モノを書いた。使い込めば使い込むほど、新たな発見のある音源だった。パラメータの数自体はさほど多くなく、ある程度慣れてしまえば基本的な使い方はそれほど難しくない。しかしこの音源は、発音記号やパラメータの組み合わせ、あるいはノートの区切り方によってさえ様々な表情を魅せてくれた。取り分けヒロトが好んだのは、ノンビブラートのロングトーンだった。そう、トオルのあの歌声のような。『空の歌』でもビブラートは一切使っていない。

(オートビブラートはOFFにして……と)

 設定を確認して、打ち込みを開始する。

 まずベタ打ちでひと通りノートを打ち込み、それに歌詞を乗せていく。自動的に割り振られる発音記号で不自然な部分は、手動で打ち込み直す。

 VOCALOIDは、音声ライブラリと音声合成エンジンによって構成される。ひとつの製品につきひとつの音声ライブラリ。ヒロトが使っているのはシリーズ物として発売された製品の第二弾で、一般には他の製品と比べて癖の強い音源として知られていた。しかし、ヒロトはこれを扱いづらいと感じた事は無い。適切な発音記号を与えてやり、いくつかのパラメータで表情を付けてやれば、それだけで充分なパフォーマンスを発揮してくれるのだ。ただでさえ少ないパラメータの中で、実際に使用するのはほんの三つか四つ程度。むしろヒロトにとってはこれ以上無いほどに扱いやすかった。

 ひと通り打ち込みが終わったら、今度はDAW上で加工してやる。レシオを大きくしたコンプレッサで派手に音を潰し、イコライザでがっちりとハイを伸ばす。こうすることで、非常に硬く澄んだ音が出来上がる。

 色褪せない。

 当たり前の事だが、ヒロトはそれが嬉しかった。それこそがボーカル音源の強みなのだ。人の声は違う。命と共にある事が、最大の魅力であり、そして──弱点だった。



 翌朝、トオルは、ヒロトに呼ばれてリビングへ足を運んだ。

「朝っぱらから機嫌よさげですね、ヒロトさん。何かあったんですか?」

「普段頑張ってくれてるトオルちゃんにプレゼントをあげようと思ってね」

 そう言って一枚のCD‐Rを掲げる。

「それは?」

 トオルの疑問には答えず、ヒロトはオーディオにCD‐Rを差し込んだ。再生ボタンを押す。

『空の歌』が流れた。

「…………!」

 トオルは顔面に三つの丸を作って固まった。丸を貼り付けたままヒロトを見る。笑っていた。

 いくつもの疑問がトオルを満たしたが、それを口にする事は憚られた。だって、今言葉を発せばこの素晴らしい“音”を聴き逃してしまうではないか!

 いつの間にかトオルは、その場にへたり込んでいた。

 曲が終わっても、トオルはそのまま動かない。

「どう?」

 ヒロトの声でようやく我に返った。

「『空の歌』、ですね」

「そうだね」

「え? なんで?」

 前に訊いた時は無いって言ってたのに。

「作った」

 作った? 確かにヒロトは作曲のプロだ。でも、いくらプロでも、オリジナルも無しにここまで正確に再現出来るものなのだろうか?

「まあ、四年も前の曲だし、少し不安だったけど。でも、さすがに自分の曲はちょっとやそっとじゃ忘れないね」

「────────は?」

 トオルは耳を疑った。

「あれ? 言ってなかったっけ」

「聞いてない……です」

 そう。結局トオルは、ヒロトがなぜこの曲を知っていたのかを尋ねる事は無かった。そもそも、ヒロトも自分と同様にネットから拾ったのだろうと思っていたのだ。DL先のサイトが現存しない事は、過去に検索した際に確認していた。

「……ほんとに?」

「ああ」

「嘘みたい」

 トオルの目から涙が零れた。

「ちょ、トオルちゃん!?」

「──え?」

「何で泣くの」

「あ……」

 そう言われてようやく自分の涙に気付いた。

「だ、だって…………俺、誰が作ったんだろうって、この曲の事、ずっと気になってて……ヒロトさんにも、そのうち訊こうって思ってて……それが、ヒロトさんの、曲……?」

「それで、びっくりしちゃった?」

 てのひらで涙を拭いながら、トオルは頷いた。

 ヒロトは子供をあやすような手つきで、トオルの頭を優しく撫でた。

「ヒロトさん」

「ん?」

「──ありがとう」



5.



 ヒロトに何かお返しがしたい。

 しかし、『空の歌』に匹敵する何かをトオルは思い付く事が出来なかった。仕方ないので直接訊いた。

「お返しとか、別にいいよ。そんな大げさなもんでもないしね」

「そこを何とか」

「じゃあ、デートしよう」

「で、でででデェト!?」

 とんでもなく予想外の代物を吹っ掛けられた。

「駄目?」

「うっ……わ、判りました……」

 自分から言い出した手前、承諾するしかなかった。



「デートだと?」

「どうすれば」

 テンパったトオルは、バイト先の先輩に相談した。この先輩は目つきも口も悪いが、意外と世話好きでトオルの教育係でもあるのだ。ヒロトとも面識があるので、相談相手としては打って付けと言えた。

「どうすればって……あんたら、付き合ってんじゃないの? デートくらいした事ねーのかよ」

「あるわけ無いです……」

 あったら大変だ。

「っかー。マジかよ。判ったよ。あたしが直々にデートで男を喜ばすテクニックを伝授してやるよ」

「は、はい……」

 一抹の不安がトオルの胸を掠めた。


     *

 

 当日は、二人一緒に出掛けるのではなく、外で待ち合わせる事になっていた。なっちゃんの入れ知恵である。


 少し遅れて待ち合わせ場所に到着したトオルは、完全武装していた。デート用に。

 アップ気味にまとめた髪に、薄いピンクのワンピース。膝下辺りまで裾を折ったデニムのパンツが短めの裾から脚を覆い、少し底の厚い、丸みを帯びたデザインのサンダルを履いている。

 そしてあろう事か、軽くメイクまでしていた。

 あまりの衝撃にヒロトの思考は停止した。仕方がないので反射のみで対応する。

「今日の格好、すごくかわいいね。こんなにちゃんとおしゃれして来てくれるなんて思わなかったから、ちょっとびっくりしたよ。リップもトオルちゃんらしい色で、よく似合ってる。髪をアップにしてるのも初めて見るから、すごい嬉しいよ」

 全てオートモードである。

「ど、どうも……」

 何より、こんな風に照れているトオル自身が、ヒロトにとって一番の収穫だった。



 遊園地に来た。なっちゃんの提案である。

「じゃ、さっそく」

 ヒロトがトオルの手を引く。

「あ──」

 触れられただけで、鼓動が跳ねるのを感じた。

(だから駄目だって! 鎮まれ心臓!)

 残念ながら、それは叶わなかった。

 絶叫マシンに乗った。

「っきゃ────────!」

 ホラーハウスに入った。

「きゃあ! きゃあ! きゃああああああああああ!」

 また絶叫マシンに乗った。

「きゃううううううううううううん!」

 トオルは死を覚悟した。

「ぜぇ……ぜぇ……はぁ…………つ、疲れた……」

「楽しかった?」

「ヒロトさん、なんで全然平気そうな顔してるんですか……」

「次、あれ乗ろっか」

「ちょっと、休憩させて下さい……」

 近くのベンチで休む事にした。

「いやー今日はトオルちゃんの悲鳴がいっぱい聴けて、新鮮だったなあ」

「は? 悲鳴なんて上げてませんよ俺」

「いや、いっぱい上げてたでしょ。自覚無いの?」

「上げてませんって! なんで俺が女みたいにそんな──ひゃあっ!?」

 ヒロトがトオルの首筋に冷えた缶ジュースを当てた。

「ほら、かわいい悲鳴」

 トオルは真っ赤になってヒロトを睨み付けた。

「怒った?」

「怒ってませんよ、別に」

 そっぽを向いてそんな事を言う。

「別にいいと思うけどね、悲鳴くらい。女の子なら普通でしょ」

「だから! 俺はほんとは男なのに──」

「気持ちは判るけどさ、そもそも男と女じゃ身体の構造が違うでしょ。心とは関係なく、驚いた時に悲鳴が出るのは仕方ないんじゃない?」

 ヒロトの言い分があまりにもっともだったので、トオルは反論する事が出来なかった。憮然とした表情で俯いてしまう。

「トオルちゃんはさ」

「はい?」

「男に戻りたいの?」

 ストレートな質問だ。男に戻りたい? 確かに、戻りたいとは思っていた。だが、男の姿をヒロトの前に晒す事が出来るのだろうか。ヒロトが興味を示しているのは、女の子である石田トオルだ。もしも男の姿に戻ってしまったら、ヒロトは自分に対する興味を失ってしまうかも知れない。その想像は、トオルにとって恐怖以外の何物でもなかった。

 今日という日の為に、入念な準備をして万全の体制で臨んだのだ。時間をかけて服を選び、気合を入れてメイクをし、あまつさえなっちゃんからデートの心得のレクチャーまで受けた。全て、ヒロトを喜ばせる為に。

 デートの準備に勤しむ間、トオルは紛れも無く女の子だった。そして、そんな自分を素直に受け入れてしまっていた。

「男に戻りたいというより……元の生活に、戻りたいのかも」

 女の子としてヒロトのそばに居る事。それ自体はもはや苦痛ではない。しかし、失ったものがあまりに大きすぎた。今までの平穏な生活が全て吹き飛んでしまったのだ。親も、友達も、社会との繋がりが、全て。もしもあの時、ヒロトが声を掛けてくれなかったら、自分は一体、どうなっていた事だろう。

「学校、もう長い事行ってないし……」

 こればっかりはヒロトにはどうしようもない問題だ。

「──ね、あれ、乗ろっか」

「いや、絶叫系はもう──」

「違うって。あれ」

 観覧車だった。



 少し、陽が落ち始めていた。

 ゆっくりと回る観覧車の中から、赤に染まりつつある街並みを見下ろす。いつしか、トオルは歌っていた。『空の歌』を。ヒロトが居ても、出会った時のように気恥ずかしさを覚える事は無い。今はもう、他人ではないから。

 ヒロトはそんなトオルの横顔を、ただ眺めていた。視線に気付いて、トオルが振り向く。それでもヒロトは、目を逸らさずに見ていた。柔らかな笑みをたたえたまま。

 歌を聴かれるのは構わないが、じっと見詰められるのはさすがに恥ずかしい。視線を断ち切るように窓の外へ目を向けて、照れているのを悟られぬよう、言葉を紡いだ。

「俺、初めて会った時もこの歌、歌ってましたよね。ヒロトさんが作った曲だって知った時は驚きました。ずっと、好きだった曲だから。いっつも家でゴロゴロしてるヒロトさんからは想像出来ないですよねほんと。ヒロトさんはもう、曲を作ったりは──」

 しまった。勢いに任せて、今までずっと避けていた話題に言及してしまった。

「トオルちゃん」

「は、はい」

 ゴンドラが揺れた。いつの間にかヒロトの顔が近くにあった。

「ずっと、君の歌を聴き続けられたら──」


 そうすればきっと、新しい“音”も生まれるのに。


(……………………あれ?)

 気が付けば、唇が重なっていた。

 トオルは自然と、目を閉じてそれを受け入れていた。

(これ、いつ終わるんだろう)

 終わるまで待つ必要などどこにも無かったが、トオルがそれに気付くまでに、たっぷり三十秒掛かった。

(……はっ。キスはまずい! キスはまずいって!)

 慌ててヒロトの胸を押して、唇を離した。

「ちょ、いきなり何するんですか!」

「何って……キスを」

「なんで、急に、こんな……」

「したかったから」

 したかったから。じゃああんたは、キスがしたくなったらいつでも、どこでも、誰とでもするのかと。そう思ったが、混乱した頭は言葉を音声化する事が出来なかった。

「嫌だった?」

 そう訊かれて、素直に嫌だったかどうかを吟味する。

 先ほどのキスを思い返した。甘い気持ちが胸いっぱいに拡がった。

「嫌……かどうかと訊かれれば、あんまり嫌じゃなかったかも知れない…………ですけどっ、でも俺、男だし!」

「今は女の子だよ」

 そう言われると、また素直に納得してしまいそうになる。キスをされて、嫌な気持ちにならなかった自分を正当化出来る便利な理由でもあったのだ。

 二人とも押し黙ったまま、ゴンドラが地上に着いた。



 その日の夜、トオルはなかなか寝付けなかった。

 目を閉じれば、遊園地でのキスが頭の中でリフレインする。気が付けば、顔がにやけてしまっていた。

 西日に照らされる中、観覧車のゴンドラで空中のファーストキス。乙女にとって、この上ない最高のシチュエーションだ。しかし問題は、自分が乙女ではないという事である。だからこれは、わざわざ思い返す必要の無いものなのだ。それでも、何度も繰り返し脳内で再生してしまうのは、その度に胸の奥に湧き上がる感覚が、途轍もなく心地いいせいだ。

 甘く、切ない気持ちになる。胸の真ん中が、きゅうっと締め上げられる。恐らく、この気持ちに名前を付けてはいけない。それをしたら、引き返せなくなってしまうから。


     *


 ヒロトはひとり、〈スタジオ〉に居た。

 トオルとのキスを思い出す。

 唇が触れた瞬間、ヒロトはその感触を“聴いた”

 深いリバーブを伴った、リン、という音。

 それは、目に見えぬ波のようにどこまでも拡がっていき、やがて膨大な音楽となってヒロトを飲み込んだ。明滅し、拡散し、圧倒的な量感を持って降り注ぐ音の濁流。

 以前、ベランダで歌いながら家事をするトオルを眺めていた時に発現した共感覚は、やはり偶然ではなかったのだ。

 彼女が居れば、世界は音に満ちる。

(トオル──)

 キスの後の記憶は曖昧だ。気が付けば、ここに居た。この、音楽の生まれる部屋に。

 どこか遠いところで「音楽を作れ」と命令されて、自分の意思とは無関係に肉体がそれに従ってしまっている。そんな感覚を覚えた。

 ならば、作ろう。

 DAWを立ち上げ、新規プロジェクトを作成する。トラックにソフトウェア音源を挿し、音色おんしょくを指定する。

 ピアノロールに、音を打ち込んでゆく。捧げるように、ひとつひとつ。それがまるで、神を讃える神聖な儀式であるかのように。

 いつしかヒロトは、涙を流していた。



 その二日後。ヒロトは、チームメンバーの前でコンポーザとしての復帰を宣言した。



6.



 ヒロトが「仕事に復帰する」と告げて〈スタジオ〉に篭りがちになったのは、トオルにとってはむしろ都合が良かった。どのような顔でヒロトの前に出ればいいのか、判らなかったから。

 それでも、ここ数日、トオルの機嫌はかなり上向きだったと言える。なっちゃんが嘆息しつつ「キメェ」と吐き捨てる程度には。

 浮かれていたのだろう。トオルはそれを認めなかったが。

 そんな折、トオルのバイト先に北川が訪れた。

「どもっす」

「あっ、えーっとなんとか川さん」

「北川っす」

「そうそう、北川さん。知ってましたよ。今日はひとりですか?」

「ええまあ。先日は申し訳なかったっすね。ロトさんの頼みは断れなくって」

「別に気にしてないですよ」

 実際、喉元を過ぎればどうという事は無かった。基本的に、トオルはあっけらかんとした性格なのだ。北川と共に顔を出して以降も、ヒロトはひとりで幾度となく店を訪れているが、もういちいち照れた素振りを見せる事も無い。

「そう言っていただけるとありがたいっす」

 北川はパスタとドリンクバーを頼んだ。

 注文を受けつつ、トオルは少し思案する。

(……この人に、訊いてみるか?)

『空の歌』がヒロトの曲だと知って以来、トオルの中で、ある欲求が芽生えていた。ただ、それを満たすものがどうしても家の中では見つからなかったのだ。ヒロト自身に訊く事も考えたが、さすがにそれは憚られた。

「お待たせしました」

「おっ、美味そうっすねー」

「…………あの」

「はい?」

「ちょっと、頼みがあるんですけど」

「何すか?」

「ヒロトさんの曲が入ってるCDとかって、持ってたりします?」



「すみません何度も往復させちゃって……」

 当然の事ながら、北川はCDを持っていた。

 トオルはいつでもいいと言ったのだが、北川は一旦帰ってCDを取りに行き、トオルのバイト上がりの時間を見計らって、またファミレスを訪れたのだった。

 トオルも今は私服に着替えて、客として席に着いている。

「いやいや、他ならぬアネさんの頼みっすからね。それに、ちょうどよかったっすよ。こっちも、ちゃんとアネさんにお礼言いたかったっすから」

「……アネさん?」

「アネさん、本っ当に、ありがとうございましたっす!」

 北川は大げさに頭を下げた。額がテーブルに当たって、グラスが揺れる。

「はぁ。あの、何の話? ってか、アネさんって──」

「ロトさんがチームに復帰出来たのは、アネさんのおかげっす」

「ああ。そういやヒロトさん、そんな事言ってたっけ。それって私のせい? それよりもそのアネさんってのは──」

「何言ってんすか。アネさんが居なかったら、今のロトさんは無かったっす。アネさんにはほんと感謝してるっす。ロトさん、前はマジやばかったっすからね」

「だからそのアネさんって────やばかった?」

 北川の言葉に引っ掛かるものがあった。

「ああ、アネさんは知らないんすね、サナさんの事」

 聞いた事の無い名前。それを耳にしただけで、冷水を浴びせられたかのように全身が凍りついた。

「…………知らない、です」

「いや、ウチでボーカルやってた人なんすけどね。ロトさん専属で。そのー……事故で、死んじゃったんすよ」

 アヤの言葉が脳裏を掠める。失くしてしまった楽器。いや、薄々は気付いていた。失くしたのではなく、亡くしたのだ。

「ほんと、あの頃のロトさんはひどかったっす。俺ら、ロトさんまで死んじゃうんじゃないかって、本気で心配しましたからね」

 食事も摂らず、ずっと〈スタジオ〉に閉じ篭っていたという。いまだトオルが足を踏み入れた事の無い、あの部屋だ。

「サナさんとロトさんの曲は、大抵があそこで作られたものっすからね。思い出も沢山詰まってるはずっす。ロトさんのCDが見つからないってのも、多分全部あそこにしまってあるんじゃないっすかねー。ロトさんが、CDを捨てるはず無いっすから────あれ? どうかしたっすか?」

 青い顔をして俯いているトオルを訝しんで、北川が尋ねた。

「……その人、ヒロトさんの──」

 彼女だったんですか?

 訊けない。そもそも、そんな事を訊いてどうするのだ。自分には関係の無い話だ。

「ロトさんの? 何すか?」

「──ヒロトさんと、仲良かったんですね、その人」

 話を逸らしたつもりだった。しかしそれは、失敗だった。

「あーまあ、一緒に住んでましたからね、あの二人」

 胃の奥からせり上がる不快な塊が、眼窩に熱いものを送り込んだ。もうこれ以上この話を聞きたくない。

「あの、CD、どうもありがとうございました。聴いたらすぐ返しますから」

 それだけ言って、トオルはすぐに席を立った。

「あ……返すのは、いつでもいいっすからー!」

 背中に向かって掛けられた声が、トオルの耳に届く事は無かった。

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