イントロ

1.



 家に帰ると、見知らぬ少女が立っていた。姿見の向こう側に。もはや疑いようもない。どうやらこれが、現在の自分の姿のようだ。

 玄関で立ち尽くしたまま、トオルは姿見を眺めた。

 どこをどう見ても女の子。しかもかなりかわいい。年頃は自分とほぼ同じくらいだろうか。いや、自分自身の年齢を自分と同じくらいと評するのも妙な話ではないか。そもそも、目の前に立っている少女を自分であると言ってしまっていいものかどうか。

「さっぱりわけが判らない」

 とりあえず胸を揉んでみる。

(あ、ブラしてんのか。……という事は)

 制服のスカートを捲った。女物のパンツだった。

「おおおおおおおおおおおおおおおおっ」

 妙な背徳感を覚えた。が、自分自身に興奮している場合ではない。当然の事ながら、あるべきものがそこにはなかった。一応、パンツを下ろして確認するべきだが、ここは玄関だ。それは部屋に帰ってからのお楽しみにしておこう。

 いそいそと自室へ。



「ふぅ」

 女の子についての知識が身に付いた。ついでに、冷静な思考も取り戻す事が出来た。

 冷静な頭でトオルは、自分の身に起こっている事について考える事にした。まず、なぜ女の子の身体になってしまったのか。

 可能性その一。何かの病気でこうなった。

 かなり無理のある仮説だ。まず、服装まで女子の制服になっているという時点でおかしい。さすがにこれは除外していいだろう。同様に、肉体のみが変化したという系統の仮説は全て除外しても構わないはずだ。

 可能性その二。どこかの女の子と精神が入れ替わった。

 出来の悪いオカルトだが、自分の身に起きている現象自体が既に理解の範疇を超えているので、一概に無いとは言えない。そういえば、この身体になる直前、制服姿の女の子を見かけたではないか。あの時、瞬間的に視界が変わったせいで混乱していたが、自分の立っていた位置はちょうど女の子が居た辺りだったように思う。となると、急に男の身体になって戸惑っている女の子がどこかに居るはずだ。踏み切りの向こう側、最初に自分が立っていた辺りはどんな様子だったか。よく覚えていないが、サラリーマン風と女子大生風と自転車男の三人しか居なかったように思う。いや、あの時は電車で視界が遮られていたのだ。その間に、どこかへ行ってしまったという事も充分に考えられる。かなり有力な仮説と言えよう。

 可能性その三。宇宙人にさらわれて女の子に改造された。

「いや待てよ」

 これはひどい。だが、思い付いてしまったものは仕方がないので、そのまま考察を進めた。

 まず、一瞬で立っている場所が変わったという点。これは実のところ、記憶が抜け落ちたという可能性も考えられるのだ。前後の記憶があまりにシームレスに繋がっているのが不自然といえば不自然だが……。それも、宇宙人がやったと考えれば、どうとでもなる。記憶が途切れているという前提の仮説であれば、まず確認すべきは現在の日時だ。

 トオルは携帯を取り出して、時間を確認した。最後に時計を見た時点から現在時刻までの辻褄は合っている気がする。日付も今日の日付だ。だがしかし、宇宙人は携帯の時刻も操作しているかもしれない。部屋の時計、カレンダーを確認する。いずれも今日が今日である事を示していた。次いでPCを立ち上げる。PCの時刻も正常。適当にニュースサイト等を見て回ったが、日時に破綻は見られなかった。やはり宇宙人説は無理があったようだ。

 そうなると、精神入れ替わり説がもっとも有力な説という事だろうか。しかし、ひとつ気に掛かる事があった。今のトオルの顔は、男だった時のものと非常によく似ているのだ。

兄妹と言っても差し支えのないほどに。

 本当にこの身体は、赤の他人のものなのだろうか……?

 いずれにしても、これ以上考えていても埒が明かない事は確かだった。今、自分が石田トオルであると証明できるのは、自分自身のみなのだ。今はまだ誰も家に帰ってきていないが、パートに出ている母親もじきに帰宅する。何を言っても、自分がトオルであるとは信じてもらえないだろう。今出来る事は、どこかに女の子の精神入りの自分が居ると信じて、それを探す事だ。そうと決まれば、行動は早い方がいい。

「その前におしっこ行こう」

 ちょっぴりワクワクしながらトイレに向かった。



「ふぅ」

 女の子についての知識がさらに身に付いた。

 私服に着替えて、いくつかの荷物をバッグに詰める。

 両親には書き置きを残したが、これで時間を稼ぐ事は難しいだろう。今まで、特に素行が悪かったわけでもなく、家出らしい家出をするのはこれが初めてなのだ。なるべく早急に自分の本体を見つけなければならない。

(父さん、母さん、心配掛けて──ごめん)

 両親に懺悔しながら、家を出た。



 自分の本体を探すといっても、手掛かりは非常に少ない。トオルは、とりあえず例の踏切に足を運んだ。しかし、やはりそこに自分の姿を見つける事は出来なかった。

 既に日も暮れている。まずは当面の宿を確保する事が先決だろうか。

(ふーむ、一体どうすれば…………あ)

 そういえば、最初に着ていた制服はうちの学校のものではないか。制服の中に何か手掛かりがあるかも知れない。ポケットの中に生徒手帳なんかがあれば儲けものだ。制服ならバッグに詰めて持ってきてある。

 今ここで女子の制服を広げるのはまずい気がしたので、ひとまず人気のない場所に移動する事にした。

(この辺でいいか)

 早速荷物を検める。バッグから制服を取り出し、ポケットを確かめた。果たして、生徒手帳はそこにあった。

(ビンゴ! どれどれ……)

 中を確かめて、愕然とした。


   二年二組 石田トオル


 確かにそう書かれている。

 同じ学校、同じ学年、同じクラス、同じ名前。そして、全く知らない女の子。

(なんで……どういう事だよ一体。あり得ない!)

 まるで異世界にでも迷い込んだかのような錯覚を覚えた。

(異世界だって?)

 馬鹿馬鹿しいなどと笑う事は出来ない。もしかしたらここは本当に、異世界なのではないか。いわゆるパラレルワールドというやつだ。トオルが女として生まれたifの世界。

 女になってからの記憶を辿る。今までに、トオルの事を知る人間とは一切接触していない。確認しなければ。果たして、女のトオルを知っている人間がこの世界に居るのかを。

 トオルは駆け出した。



 家に辿り着くとトオルは、乱れた呼吸を整えながら、この後の行動をシミュレートした。この時間なら母親も既に帰宅しているはずだ。

 まず、顔を合わせた最初の反応を見る。もし我が子として接してきたなら、妙な書き置きを残した事を謝って、そのまま帰宅してしまえばいい。この時点で問題は何ひとつ解決しないが、当面の生活基盤が保障されるという点で、かなりの余裕が出来るはずだ。

 逆に、もし母親がトオルをトオルと認識出来ないようなら……。

(その時は、トオルのクラスメイトを演じるんだ)

 緊張の面持ちでインターフォンを押す。

 予想通り、母親が出た。

「はい…………どなた?」

 初対面の対応だった。

(──あれ?)

 正直、予想はしていたが想像は出来ていなかった。ここは、パラレルワールドではない?

 そこでふと思い至る。今トオルが着ている服は、男物の服だった。トオルの部屋にあったものなのだから、当然だ。

 そうだ、あの部屋は間違いなく自分の部屋だった。男である自分の。

「あ……の……」

 上手く言葉が出ない。訝しげな目で母親がこちらを見詰めている。

 失敗した。目を合わせられない。どうしよう。どうする?

 気が付けば駆け出していた。いや、逃げ出していた。

 全速力で夜道を走り抜ける。一刻も早くこの場を離れたかった。

(くそ……! 何なんだ、この世界は一体何なんだよ!)

 がむしゃらに走った。


     *


 薄暗い部屋でひとり、中村ヒロトはPCに向かっていた。

 室内は種々の音楽機材で取り囲まれ、そのうちのいくつかはLCDやLEDが無機質な光を放っていた。それらは無造作に配置されたスタンドライトやスポットライトによって淡く照らされており、二種類の対照的な光が室内を独特の雰囲気で包んでいた。

 これらのライトは、インテリアとして置かれているわけではない。

 ヒロトは暗い部屋を好んだが、部屋の照明を落としてしまうと室内の明かりはPCのモニタのみとなる。高価な機材もあるこの部屋で、行動が制限されない程度に明るく、眩しさが気にならない程度に暗い照明として、適当に選んだものを置いているに過ぎなかった。

 照明も含め、完全に音楽制作に特化したこの部屋で、以前は一日の大半を過ごす事も珍しくなかったが、ここ二ヶ月ほどの間、この部屋から新しい音楽は生まれていない。かつて、あんなにも激しく自らを掻き立てた作曲に対する衝動が、今は枯渇していた。

 所在なげにマウスを操作する。モニタには、DAWと呼ばれる音楽制作システムの画面が映し出されていたが、ピアノロールのウィンドウにはひとつのノートも打ち込まれてはいなかった。

 無為に時間を消費している自覚はあったが、頭の中にはけし粒ほどのアイデアも浮かんでこない。

 ひとつため息をいて、まっさらなプロジェクトを閉じた。代わりに、“on_sana_018.cpr”というファイル名のプロジェクトを開く。立ち上げられたウィンドウにはいくつものトラックが表示され、それぞれにオーディオやMIDIのイベントが配置されていた。

 ひとつだけ、イベントの置かれていないトラックがあった。そのトラックには、小さなフォントで『vocal』と書かれていた。

 ゆっくりとポインタを動かし、再生ボタンの上に乗せる。

 人差し指は動かない。

 どれくらいの時間そうしていただろうか。結局何もせずに、そのプロジェクトも閉じた。

 空腹を覚えて立ち上がった。食料はもう無かったかも知れない。冷蔵庫を確認する。やはりろくなものがなかった。

(コンビニ行くか……)

 財布を持って家を出た。



 少し肌寒い夜の道を歩く。時刻は午前零時を回っていた。

 歩道橋に差し掛かった時、歌声が聴こえた。ふと歩道橋を見上げると、そこにひとりの女の子が居た。この子が歌っているのだ。欄干にもたれかかって、道路を見下ろしながら。近づくと、歌声が明瞭さを増す。繊細でありながら、倍音のよく乗った張りのある音。さして大きな声で歌っているわけでもないのに、その音はノイズを洗い流すかのようによく響いた。印象的なのは長音部で、ビブラートを一切使っていないにも拘わらず、レベルも音程も危なげなく一定の強さ、高さを保っていた。しかし、無機質な印象を与えない。通常、ピッチの揺らぎは音に柔らかさを与える。ビブラートを捨てても尚、音が硬くならないのは恐らく、時折入る、半音ほど下から発音を始めて目的のピッチへ移動させる歌い方のせいだろう。これは特にこの少女特有の歌い方という訳ではなく、むしろ大半の人間が音を取るためにこのような歌い方をするのだが、これが音の印象を柔らかくしている。

(なんて、きれいな音……)

 この瞬間、理想そのものを現象化したようなその“音”に、ヒロトは恋をした。

 音が止んだ。少女がヒロトに気付いたのだ。気が付けば、彼我の距離は互いの顔が識別出来るほどに近づいていた。

 少女がヒロトに背を向けた。

(あ……)

 行ってしまう。理想の音が。

「『空の歌』」

 咄嗟に声を掛けていた。

 ヒロトの声に、少女が振り返る。

「『空の歌』だよね、今の」

 少女の目が驚きに見開かれる。当然だ。マイナーどころの話ではない。恐らく、この曲を知っている人間など世界中を探しても五〇人にも満たないはずだ。四年ほど前、ネットの片隅でひっそりとUPされたその曲のダウンロード数は、アクセス解析によれば、ユニーク数にしておよそ四〇前後。ヒロトはそれを知る立場にあった。

 その曲は、かつてヒロトが作った曲だった。



2.



「あんなとこで何してたの?」

「…………」

 少女を連れて、ヒロトはファミレスに来ていた。

 ドリンクバーを挟んで、差し向かいに座っている。互いに注文は済ませたが、料理はまだ来ていない。

 ヒロトの初ナンパにまんまと引っ掛かった少女は、「トオル」と名乗った。

 注文の際と名を告げた以外は、こうしてだんまりを決め込んでいる。ヒロトはそれを緊張あるいは恥じらいの為と受け取ったが、トオルには別の事情があった。


(女言葉がしゃべれない……!)

 どのような口調でしゃべれば訝しがられずに済むかは判る。だが、有り体に言えば、吹っ切る事が出来なかった。自分は男なのだ。男のメンタリティを保持した状態で女言葉を口にするというのは、殊のほかハードルが高かった。かといって、女の姿で男言葉を使うというのも、妙な気恥ずかしさがあった。違和感のある行動をとって目立つというのは、思春期の少女、いや少年にとっては耐え難いものなのだ。

「ごめんね、急に声なんか掛けて。迷惑だったよね」

 自嘲気味に言うヒロトを見て、トオルは慌てた。むしろ、嬉しかったのだ。誰も自分を知らないこの世界で、初めて声を掛けてくれた人なのだから。

「いや、あの……メーワク、とかはしてない、です」

 しどろもどろになりながら、なんとか受け答える。

「やっぱり」

「え?」

「話す時の声もかわいいね」

 にっこりと笑ってそんな事を言う。

 この時、ヒロトには口説いているという意識は全く無い。素である。

 トオルはズキューン来た。

「は? え、あの、いきなり、そんな……」

 女としてかわいいなどと言われたのは初めてだった。当然だ。女になったのはついさっきなのだから。しかし、そんな事を言われてズキューン来てしまっている事態は憂慮すべきだろう。自分は男なのだ。

「さっきの歌も、すごくきれいだった」

 波状攻撃である。

(これはもしや…………口説かれている!?)

 口説いていない。

 だが、トオルの反応は当然と言えよう。ヒロトの台詞を聞いて誤解するなという方が無理な話なのだ。

 トオルは焦った。男である事を打ち明けた方がいいのではないだろうか。例え信じてもらえなくても。変人扱いされても。

「あ、あの!」

 トオルの言葉を遮るように、ヒロトの携帯が鳴った。

「あ、姉貴だ。ちょっとごめんね」


 軽くトオルに謝罪して、ヒロトは電話に出た。深夜である。いやな予感がヒロトの胸を掠めた。

「もしもし」

「ヒロくん? お姉ちゃんだけど」

「…………何?」

「お姉ちゃん今日、お友達と呑んでたんだけどぉ、終電なくなっちゃって……駅まで迎えに来てほしいのよぅ」

「えー……、今から?」

「うん、今から」

「うーん……」

 予感が当たった。こういった事はこれが初めてではない。ヒロトは独り暮らしだが、姉の住む実家はそう遠くない。姉としては、夜遊びしていて帰れなくなったなどと親に言えるはずもなく、車を持っているヒロトを足代わりに使う事はよくあった。

「ちょっと無理だよ。今ファミレスだし。料理まだ来てないし」

「あらぁ、ファミレスっていつものとこ?」

「うん」

「わかったわよぅ。じゃあお姉ちゃん今からそっちに行く。タクシー使って行くからね! お財布苦しいけど!」

『じゃあ』ときた。その接続詞は何と何を繋いだものなのか。疑問を口にする間もなく、通話は切れた。


「あー、ごめんね、ほったらかしにしちゃって」

「いえ、別に……お姉さん、ですか?」

「うん、まあ、そうなんだけど……なんか、ここに来るって」

「へ?」

 トオルは面食らった。こんな時間に電話をしてきて会いに来るという事は、何か急な用事でもあるのだろうか。

「あのー、何か用事があるなら、えと」

「いやあ、特に用事なんて無いよ多分。変な人だからさ、うちの姉貴」

「はぁ」

「どうする? 出よっか。ごはん来てないけど」

 翻訳すると、逃げたいという事だった。

「いやでも、お姉さんは?」

 あと、ごはん食べたい。さすがにそれは口にしなかったが、どちらかと言えばトオルにとってはそっちの方が重要だった。この身体になって以降、食事は一切摂っていないのだ。

「あんまり会わせたくないんだけどなー。なんか身内の恥を晒すみたいで」

 独り言のようにヒロトが呟く。

 トオルは考えた。やはりここは、自分が引くべきなのだろうか。さっき会ったばかりの男と食事をしている状況で、その家族に紹介されるというのは、さすがに居心地が悪い。

「あの、やっぱり──」

「お待たせ致しました」

 料理が運ばれてきた。

「……食べよっか」

「……………………はい」

 食欲に屈したのだった。



「さっきさあ」

 早々に料理を片付け終えて、ヒロトがトオルに話しかけた。

「はい?」

「何か言いかけてたよね、電話が掛かってきた時」

「あー……」

 そうだ。男である事を打ち明けようとしたのだ。しかしあれは、口説かれている状況を咄嗟に打開しようとしただけで、今はタイミングを逸している気がした。

(どうしたものか……)

 その時、女性客がひとり、店内に入ってきた。

「姉貴が来たみたいだね」

 二人の席に向かってくる。柔らかな雰囲気がヒロトによく似た美人だった。

「ヒロくん……ひとりじゃなかったのね」

「いや、急に電話切るからさ。言う暇無かったよ」

「あの……初めまして」

 互いに自己紹介した。ヒロトの姉は「アヤ」と名乗った。

 ヒロトの隣に腰掛けたアヤが、興味深げにトオルを見詰める。

「それにしても、まさか彼女と一緒に居るとは思わなかったわぁ」

(──彼女?)

「いや、まだ彼女じゃないって」

(──まだ?)

「あら、そうなの? えぇと、トオルちゃんだっけ? ごめんなさいね、なんか邪魔しちゃって」

(──『トオルちゃん』?)

 耳慣れない呼称だった。しかしこれは、反応してはいけない部分なのだろう。女の子がちゃん付けで呼ばれるのは別に特別な事ではない。

(いやでも、トオルちゃんて! え? トオルちゃんなのか? 俺は)

 トオルちゃんは混乱した。

「邪魔してると思ってんなら帰ればいいじゃん。大体何しに来たんだよ」

 姉に対して忌憚無い物言いをするヒロトを見て、トオルは少しヒロトに対する印象を修正した。以外に子供っぽいところもある。

「あらぁ、つれない。今から家帰ってもお父さんに怒られるから、ヒロくんちに泊めてもらおうと思ったのよぅ。それなのに、こんな時間まで女の子連れ回しちゃってさ」

「連れ回してないよ。さっき会ったばっかで……って、そういえばさ、トオルちゃんはなんでこんな時間にあんな場所に居たの?」

 このままこの呼称で定着してしまうのだろうか。ともあれ、ヒロトの疑問は当然だった。

 住宅街から少し外れた市街に、ひとり佇んでいたのだ。深夜に開いている店などもほとんど無い。むしろ、繁華街でうろついていた方が自然と言える。

「えーっと……」

 言葉に詰まる。それを説明しようとすると、自分の身に起こった怪奇現象まで説明するはめになりそうだ。絶対信じてもらえない。

「家出?」

 アヤが尋ねた。

「家出、というか……いや、家出と言えなくもない、ような……」

 先程から、半ば意図的に一人称を避けてしゃべろうとしているため、会話が非常に拙いものとなっていた。

「だめよぉ、親御さんに心配かけちゃ」「姉貴が言うな」

「はい……でも、帰る家が無いというか、いや、あるにはあるんですけど、もはや自分の家じゃないというか……」

「まあ」

 誤解を生むには充分な発言だった。

「じゃ、今日はどこに泊まるつもりだったの?」

 ヒロトが訊いた。

「ネカフェとか……」

「まあ。……ヒロくん、この子泊めてあげたら?」

「「えっ」」

 ヒロトとトオルの声が重なった。

「いきなり何言い出すんだよ姉貴」

「ヒロくん、かわいそうだと思わないの?」

「いや、そりゃ思うけど……でも、彼女だって困るでしょ、見ず知らずの男の家に泊まるなんて」

「大丈夫よ、今日はあたしも泊まるから。ね、トオルちゃん、一晩だけでもどう?」

「あの……でも、ヒロトさんが迷惑なんじゃ……」

「いや、俺は別にいいけど……」

「ほら、ヒロくんもこう言ってるし」

 どうすべきか。トオルは考える。

 当初は、こうなった原因さえ判ればそこから元に戻る為の糸口も見つけられると考えていた。しかし、先ほど母親と会った事で、考えられる可能性は全て潰えてしまった。帰る家も無く、明日を生きる事すら困難なこの状況で、体面を気にして遠慮している場合だろうか? 手持ちの金もそう多くない。一日でも宿泊費が抑えられるのなら、それに越したことは無いのではないか。アヤも泊まるというのなら、間違いが起こる事も無いだろう。

「あの……じゃあ、お言葉に甘えても、いいですか?」

「もちろんよぅ! 歓迎するわ」「姉貴が言うな」

 そういう事になった。

 途中、コンビニに寄ってお泊りセットを買った。あと女物のパンツとか。



3.



「でかっ」

 マンションの事である。すんごいでかいマンションに、トオルはびびった。

 清潔な外観からは、管理がよく行き届いている事が窺い知れる。

「ここに住んでるんですか?」

「そうなのよぅ。いいところでしょ。この子、こう見えても社長なのよ?」

「社長!?」

「余計な事言わなくていいよ姉貴」


 ヒロトは十九歳の若さで、音楽制作チームの代表を務めていた。

 初めのうちは、自身の運営するWEBサイトで、細々と自作の曲を公開しているだけだった。やがて幾人かの音楽仲間と知り合い、ネットレーベルを立ち上げ、チームを組んで音楽を作るようになった。とあるゲームブランドと懇意になってからは、ゲーム音楽などに携わるようになった。いつしか、チームは法人化していた。今では、ゲーム以外でも様々なメディアに楽曲を提供している。

「なんか、すごいんですね、ヒロトさん」

「…………凄くないよ、全然」

 苦々しく呟くヒロトの横顔が、なぜかトオルの胸に突き刺さった。



 部屋に着くなりアヤは、「あたしちょっとお風呂に入らせてもらうわぁ」と言って、ひとりでさっさと中へ入ってしまった。

 アヤと入れ違いで、奥の方から一匹の猫が現れた。ヒロトの足に擦り寄ってくる。

 トオルの目が釘付けになった。猫には目が無い。

「猫飼ってるんですか? かわいいですねっ、名前は?」

「からあげ」

 ヒロトは答えた。

「は?」

「からあげ」

 二回言った。

 この猫は、ヒロトの実家で産まれたものだ。ある日、母猫に寄り添って眠る子猫たちを眺めていたアヤは、唐突に一匹を抱き上げると、こう言い放った。「ほんとかわいいわぁ。唐揚げにして食べちゃいたいくらい」

「──で、からあげ」

「へ、へぇー……」

 トオルはちらりとアヤの消えた方を見た。今頃は風呂の準備でもしているのだろうか。まるで自分の家のような振る舞いである。

(自由な人だ……)

 廊下に面した扉から自由な人が顔を出して、トオルに言った。

「トオルちゃんもいらっしゃい。一緒に入りましょ」

 衝撃的な提案がなされた。

 お風呂。このお姉さんと一緒に? それはまずいのではないだろうか。今のトオルの性別は女だが、メンタリティは男なのだ。

 いやいやでも、黙っていれば判らないわけで、というか、例え言ったとしても信じてはもらえないだろうし、これはチャンスなのでは。

(だだだだだダメだろそんな、人を騙すような事)

「どうしたのトオルちゃん。シャワーの使い方とか教えるから、いらっしゃい」

「いや、あの、でも……」

「入ってきなよ。遠慮しなくていいよ。俺は後で入るから」

 そういう話ではない。

「お、俺、男だからダメです!」

 言ってしまった。静寂と静止が十五秒ほど場を支配した。からあげがあくびをしながらにゃーと鳴いた。

 アヤが口を開いた。

「あらまぁ、若いのに……色々と苦労したのね」

 それ違う。

「そ、そうじゃなくて、別に、女装してるとかじゃなくて……気が付いたら、突然女になってて──」

「うふふ、照れ屋さんなのね」

 全然信じられていなかった。

「大丈夫よ。女同士なんだから、仲良くしましょ」

 言って信じてもらえなかったのだから、これは不可抗力だと、自分に言い聞かせた。

ヒロトはまだ固まっていた。



「でかっ」

 おっぱいの事である。アヤは着痩せするタイプだった。

「重いしラインは崩れるし、あんまり嬉しくないのよねぇ。トオルちゃんはきれいなおっぱいね。うらやましい。触っていい?」

「いっ!?」

「あたしのも触っていいから」

 触りっこした。たゆんたゆんでござった。

(それにしても……)

 思ったよりも、興奮しない。女性と一緒に風呂に入っているのに。あまつさえ、たゆんたゆんをその手に収めているのに。

(心まで女になっちゃってるって事は無い、よな?)

 さっきのズキューンを思い出した。男に口説かれて、不覚にもときめいたのだ。しかし、考えてみればあり得ない話ではないのかも知れない。女の身体になったという事はつまり、脳も女の脳だという事だ。物事に対する考え方、感じ方が女性的になっても、不思議ではない。むしろそれが当然なのではないか?

 しかし疑問も残る。脳まですげ替わったというなら、男だった時の記憶を保有しているはずがない。脳は記憶の入れ物なのだから。

(うーむ……)

 矛盾だらけだ。辻褄が合わない。何もかも。

「……トオルちゃん、そんなにあたしの胸、気に入った?」

「──はっ」



「付いてた?」

 バスルームから出てきたトオルとアヤを見るなり、開口一番、爽やかな笑顔でヒロトが訊いた。

「こんなかわいい子が男の子のわけないじゃなぁい。しっかり、女の子だったわよ」

 トオルは顔を赤らめた。それを見て、ヒロトも赤くなった。ヒロトは後悔した。これはセクハラではないのか。自分の軽率な発言が、女の子を辱めてしまった。

「ご、ごめん……」

「い、いえ……」

「あー、俺も風呂入ってくる」

 トオルから目を逸らしたまま、ヒロトは逃げるようにバスルームへ向かった。


「ごめんなさいね、トオルちゃん」

「あ、別に……」

「ほんと、二人ともかわいいわぁ」

「あはは……」

(男なんだけどな、俺……)

 乾いた笑いと共に、がっくりと肩を落とす。

「……でも、よかった」

「え?」

「あの子、このところずっと塞ぎ込んでたから。トオルちゃんのおかげで、少しは気が紛れたみたいね」

 塞ぎ込んでいた?

「何か、あったんですか?」

「大切な楽器を、亡くしちゃったのよ」

「楽器を、失くした」

「とってもショックだったみたいね。それ以来あの子…………曲を作れなくなったわ」



4.



 予備の布団が一組しかなかったので、トオルはアヤと一緒に寝る事になった。たゆんたゆんが気になったものの、睡魔はすぐにやってきた。色々あった一日だったのだ。疲労が溜まっていた。微睡みの中でトオルは、ヒロトと会った時の事を思い返していた。



 ──逃げるように自宅を離れてから。

 トオルは途方に暮れていた。

(帰る場所が無い……)

 それどころか今、この世界にトオルを知る人間はひとりもいない。たったひとり、世界から弾き出されてしまった。圧倒的な孤独がトオルを襲う。

 一体、自分の身に起きている事は何なのか。考えを巡らせようとしても、思考はとりとめを持たず、だた浮かんでは消えるだけだった。

 気が付けば、歩道橋の上を歩いていた。周囲に人影は無い。それがまた、自らの孤独を際立たせた。

 欄干にもたれて、道路を眺める。車がまばらに走っていた。動いている物を見る事で、少量の安心を得られた。

「つばさーもーなーいーのにー……そらにーいーるーぼーくら──」

 孤独に押し出されて口から漏れたのは、歌だった。ずっと昔、中学の頃にネットの片隅で見つけた歌。正確なタイトルはもう忘却の彼方だが、ファイル名が“soranouta.mp3”だったので、恐らくそのようなタイトルなのだろう。どこの誰が作ったものなのかも判らない。どこかの個人サイトで拾ったような気もするが、よく覚えていない。

 気持ちが沈んだ時には、よくこの歌を口ずさんだ。巷に溢れるどんな音楽よりも、名も知らぬこの歌がトオルの心を落ち着かせた。この歌に出会って、もう四年近くなる。何度も繰り返し聴くうちに、歌詞もすっかり覚えてしまっていた。

 ふと、人の気配を感じて振り返った。ひとりの青年が、こちらに向かって歩いていた。

(やばっ、歌ってるとこ見られた?)

 通りすがりの人に歌を聴かれる事ほど気まずいものはない。込み上げる恥ずかしさを押し隠しつつ、何事も無かったかのように立ち去ろうとする。

「『空の歌』」

 後ろから声を掛けられた。耳を疑った。それは、この曲のファイル名だ。咄嗟に振り返る。先ほどの青年が、こちらを見詰めていた。

「『空の歌』だよね、今の」

 間違いない。この青年は、“soranouta.mp3”を知っている。ずっと、名も無きアマチュアが作った歌だと思っていた。違うのだろうか。実はこれを作曲した人物はそれなりに有名で、この歌も、自分が思っているよりも知名度は高いのかも知れない。

「俺以外にこの曲を知ってる人、初めて会ったよ」

 そう言って、微笑わらった。

 この世界に、同じ歌を知っている人が居る。世界と自分がまた繋がった気がした。繋げてくれた。“soranouta.mp3”が。



(そうだ……あれから結局、上手くしゃべれなくて……あの歌の事、何も訊いてない…………明日、訊けるといいな──)

 そんな事を思いながら、眠りに就いた。


     *


 翌朝、ヒロトはいつもより少し早く目覚めた。

 部屋を出ると、キッチンから耳慣れない音が聞こえてくる。見てみると、トオルが居た。朝食を作っているのだ。軽快な包丁の音、野菜を洗う水の音、低く唸る換気扇の音、鍋を沸かすコンロの音。ヒロトを起こしたのは、ごくありふれた生活音だった。

 やがてトオルは、ヒロトに気付く。手を止めて、振り返った。

「あ、ヒロトさん。おはようございますっ」


 笑顔が“鳴った”


(え────?)

 普通、笑顔は鳴らない。

(気のせい……か?)

「? ヒロトさん? どうかしました?」

「あ、ああ、いや。おはよう。朝ご飯作ってるの? 冷蔵庫、ほとんど何も入ってなかった気がするけど……」

「材料はさっき買ってきました。ほんと、冗談抜きで何にも入ってませんでしたよ。普段、何食べて生活してるんですか」

「コンビニとか、ファミレスとか……」

「やっぱりー。たまにはちゃんとしたもの食べないとダメですよ」

「お金はどうした? 買った分は後で出すよ」

「や、泊めてもらったお礼ですからこれ! 遠慮しないで下さい。こっちこそ、台所勝手に借りちゃってごめんなさい」

「いや、別に気にしないよ。それより、姉貴は?」

「さっき帰りましたよ。朝ご飯食べていきませんかって言ったんですけど、時間無いからいいって」

「そっか」

 確かに、今はもう朝食にしては遅い時間だった。

「はい。もうすぐ出来ますから、座って待ってて下さい」

「うん……」

 新婚さんっぽい。ヒロトはそう思った。

(エプロン……要るな)



「あの……お味はどうでしょう」

 おずおずと、ヒロトの様子を伺いながらトオルが尋ねた。

 豆腐とわかめの味噌汁に、きゅうりとキャベツの浅漬け、大根おろしの添えられた鯵の干物、炊きたてのご飯。なるべく早く作れて、しっかりと栄養の摂れるものをと、工夫の凝らされた内容だった。

「うん、美味いよ。料理、上手なんだね」

「えへへ、うち、両親が共働きなんで……自然と覚えました」

 トオルは照れた。

「ところでトオルちゃん、昨日は帰る場所が無いって言ってたよね」

 箸を進めつつ、ふと思い出したようにヒロトが尋ねた。

「はい……」

「今晩から、どうするつもり?」

「ネットカフェに泊まります」

「友達とかはいないの?」

 返事に窮する。この世界に女のトオルを知る人間などひとりもいないのだ。

 忘れかけていた孤独と絶望がまたトオルを襲った。頼れる者など誰もいない。今のトオルは、社会のどこにも属していないのだ。今後、手持ちの金が尽きたら、まともに生きられるのかすら怪しかった。

「事情を訊いたら、まずいのかな」

 話すべきなのだろうか。

 きっと信じてもらえない。それに、話したからといって、それでどうにかなるものでもない。

 でも、話してしまえば、少しは気が紛れる気がした。それに、この人はいい人だ。例え信じてもらえなくても、相談くらいなら乗ってもらえるかもしれない。

 顔を上げて姿勢を正し、トオルは口を開いた。

「あの……ヒロトさん、ちょっとお話があります」

「何?」

「昨日はなんかうやむやになっちゃったけど……俺、本当に男だったんです。つい昨日まで。それで、急に女になっちゃったから家に帰れなくなって──」

 トオルは事の経緯を洗いざらい話した。ヒロトは、ずっと黙ったまま、トオルの話に耳を傾けた。

「ふーむ。なるほどね……」

「信じられません、よね」

「突拍子もない話だけど……信じてみるのも面白いかもね」

「え……」

「だって、もし君の話が本当だとしたらさ、君の声は、本来この世界には存在しないものだったって事だよね。それって凄い奇跡だ。嬉しいよ。そんな奇跡の“音”に出会えて」

(うわあ……この人って……)

 ロマンチストどころではない。ぶっ飛んでいる。そして、そんなぶっ飛んだ発言を聞いてきゅんきゅん来ている自分が一番やばいとトオルは思った。

「で、ネカフェで生活を続けたとして。それから後の事は? どうするつもり?」

「えーっと……出来れば、元に戻りたいです」

「どうやって?」

「それは……判んないです」

 正直、八方塞がりなのだ。誰かと精神が入れ替わったわけでもない。パラレルワールドでもない。宇宙人の仕業でもなければ変な病気に罹ったわけでもない。手掛かりなど全く無いのだ。考えたくはないが、下手をすれば一生このままという事もあり得る。

「もしよかったらさ、しばらく、うちに住む?」

「えっ……でも、それは」

 大胆な提案をしてくる。トオルは面食らった。ありがたい申し出ではあるが、色々と問題があるのではないだろうか。

「男と一緒に住むってのはさすがに抵抗あるかな。でも、トオルちゃんが男だっていうなら、問題ないでしょ?」

 やはり、見透かされている。しかし実際のところ、ヒロトは無理矢理な事はしないだろうとも思った。それよりも、この人のいい青年の厚意に甘える事に対する戸惑いの方が大きい。

「……あの、お気持ちは嬉しいんですけど、さすがにそこまで迷惑を掛けるわけには……」

「君の声が好きだから」

「え……」

「出来れば、ずっとそばで聴いていたいんだけどな。君のその、きれいな“音”を」

 なぜこうも真っ直ぐな言葉を口にする事が出来るのか。聞いているこっちが照れてくる。

 ヒロトはさらに言葉を繋ぐ。

「別に迷惑なんて事は無いよ。利害は一致してるからね。無理強いはしないけど……どうかな」

 この人は、自分の声に固執している。であれば、これ以上遠慮していても意味は無いのではないか。

「本当に、迷惑じゃないですか?」

「もちろん」

 ヒロトは迷い無く答えた。トオルは腹を括った。

「あの……よろしくお願いしますっ」

 深々と頭を下げた。

「…………髪、味噌汁に浸って──」「知ってます」

 髪の長さに慣れていないのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る