06 コンフェッション
新聞部の合宿から早くも十日が経過した。文化祭、すなわち校内新聞発行予定日は刻一刻と近づいてきていた。
この十日間、笹賀谷は一度も部室に現れなかった。部活動以外の場面では、それ以前とあまり変わらない様子だったが、新聞部の話題に関してはやんわりと避けられた。
嵩間、葵、田万川、那須原が、それぞれ部室に来るよう提案したり、何か手伝わせて欲しいと言っても、取りつく島はなかった。
文化祭は土日開催である。その前日である明日は丸一日授業がなく、朝から晩まで準備にあてることができるわけだが、当初の計画通りであれば校内新聞の印刷をして配布のための準備をすべて終えることになっている。そして、二日前の本日は文化祭前最後の平常授業ということになり、放課後から校内は文化祭の準備一色となる。
ホームルームが終わった二年一組の教室で、笹賀谷は鞄を持って立ち上がった。すると、葵が駆け寄って来た。
「ササ! ちょっと待て!」
笹賀谷は別に逃げたりしないが、だからと言って談笑する気もなかった。新聞部に関連する話題を振られることは確実で、それに対してはこの十日間と同じ対応をすることになる。
「どうした? 校内新聞なら、すでに言っている通り心配は……」
「それはそうかもしれないけれど、そういうことじゃなくて……まあ、とりあえず少しだけ待ってくれよ」
かなり本気で止めにかかってくるので、笹賀谷はその場に留まる。しかし、葵は何も用件を言わない。
「それで、いったい……」
「ああ、それはな……。あ、とりあえず廊下に出よう」
笹賀谷は葵にせっつかれるように廊下に出る。すると、嵩間、田万川、那須原がいた。久々に新聞部の全員が揃った。
笹賀谷は、四人が手に一枚の紙を持っていることに気がついた。
葵は周囲に人がいないことを確認し、その紙を笹賀谷に見せた。他の三人も同じように見せた。
それは退部届だった。
葵が四人を代表して説明する。
「もしお前がこのまま戻って来ないつもりなら、新聞部はもうやめにしようということになったんだ」
「俺のことは気にしなくていいと……。せっかく部室があるんだから、そんなことをする必要はないだろう?」
笹賀谷は四人の予想外の行動に少しだけ動揺したが、それでも定型句を繰り返した。しかし、葵は続けた。
「いろいろ話し合ったんだけど、ササが来ないなら新聞部の部室とは呼べない……ただの空き教室に過ぎないと思ったんだ。そして、俺たちはそれが欲しいわけじゃない……。だからササ、戻って来いよ」
そして、那須原も口を開く。
「実は、先輩に手伝って欲しいことがあるんです。とりあえず、部室まで来てもらえませんか?」
笹賀谷は、校内新聞の原稿をすでに完成させていた。あとは、明日印刷をかけるだけである。この状況で自分に何を手伝って欲しいというのか?
笹賀谷は、ただの口実なんだろうと、半信半疑でついていった。
十日ぶりだが、感覚的には半年ぶりくらいに感じる部室。笹賀谷は躊躇しつつも足を踏み入れた。
特に何の変わりもない部室だった。ただ一つ、普段は棚に入っているノートパソコンが机の上にあること以外は。
笹賀谷は、ノートパソコンの前の椅子に座らされる。
ノートパソコンの電源が入れられ、デスクトップに置かれた見覚えのないファイルが開かれる。
「見て欲しいのはこれなんです」
それは、見覚えがないのはもちろん、指示も出してないし、ネタ帳にすらない新規の記事だった。
仮のものとしてつけられている記事のタイトルを見る。
「〈新生・新聞部のあゆみ〉……これは?」
「とりあえず、中身を読んでください。待っているので」
記事の分量はかなりのものだった。文章の癖から、四人が合同で書いたものだと分かる。
本文に目を通す。それは、昨年十一月から今月まで、つまり新聞部が再始動してからのおよそ一年間の経緯をまとめたものだった。
年表のようなお固い客観情報だけでなく、思い出深い出来事をピックアップしてかなり詳しく記述されている。そして、随所に四人による生の声が挟まれていた。
先日の合宿についても触れられていて、部長が来ない日々も記されていた。そして、記事の最後は、今日の日付だけ入った大きな空白。
目にしみるような空白をじっと見つめる笹賀谷に、みんなが言う。
「記事の最後と、文章チェックをお願いしたいんです」
「浩君が手伝ってくれないと完成しないんだよ」
「部長がやらないと締まらないというもんだ」
「勝手に進めちゃって悪いんだけど……」
笹賀谷は、長く息を吐く。無駄に張っていた気を外に追い出すように。
それから言った。
「まったく……。校内新聞の原稿はもう完成して、あとは印刷に回すだけだったんだよ。仕事増やしやがって……」
顔はパソコン画面に向けて、四人から窺い知ることは難しかったが、その声は憑き物でも落ちたような、穏やかでどこか嬉しそうな感じだった。
誰も多くは語らなかった。しかし、自然と助け合い、最適な作業分担が成立していた。それは、歯車が噛み合って回り出したような心地良い時間だった。
笹賀谷は、そんな気持ちを真っ白な空白に落とし込んでいった。華美な装飾をしなくても問題ない。素直な気持ちは簡単に隙間を埋めていった。
そして、西日が校舎の奥深くに侵入してくる時間帯になってきた。学校にはまだ多くの生徒がいて、それぞれが熱心に作業を進めていた。
「できた! 完成だ!!」
部長による校了宣言が部室に響いた。両手を突き上げ天を仰いでいる。
「よっしゃー!!!」
「良かった!」
「ふう……」
「一件落着ですね!」
それぞれが思い思いに快哉を叫んだ。胴上げでもしそうな勢いだ。
笹賀谷が最終チェックに入ってからの数分間は、なぜか呼吸することすら憚られるような緊張感が漂っていた。みんな、気配を読みながら祈るような気持ちで最後の言葉を待っていた。
「みんな、本当にありがとう。そして、本当に……たくさん、迷惑を……」
いろいろな記憶が一気に押し寄せてきて、笹賀谷はこみ上げてくるものを抑えられない。言葉はスムーズにつながって出て来なかった。
「ちょっとちょっと先輩、まさか涙脆いキャラですか?」
「いや……別に泣いてないから……」
「ナッちゃん、男泣きってやつだ。放っておいてやってくれ」
「だから……」
「浩君がやっぱり一番頑張ったよ」
「あ、そうだ……」
嵩間が制服のポケットに折り畳まれていた一枚の紙を取り出した。それは、自分の名前の入った退部届だった。
「そうか。もういらねえもんな」
葵も取り出した。そして、一瞬だけ眺めた後、グシャグシャに丸めると、扉の横にあるゴミ箱に投げた。それは綺麗な放物線を描いて中に入った。
田万川と那須原も同じように投げ込んだ。距離が近かったこともあり、二人の退部届もゴミ箱に落ちていった。
それから、少し距離はあったが、嵩間が狙いを定めて放った。それはしっかりと綺麗な放物線を描いてゴミ箱に向かっていった。誰もが入ったと思った。
しかし、その軌道は微かにそれる。不意に扉の隙間から風が吹き込んだのだろうか。丸まった退部届はゴミ箱の縁にぶつかり、真上に跳ね上がる。まるでスローモーションのようだった。再びゴミ箱の縁にぶつかる。そして、それは残念ながら外側に落ちて、扉の前の床に転がった。
「残念……」
そのときだった。
全員の注目が集まる部室のドアにノックの音。すりガラス越しに三人の人影が見えた。
「どうぞ」
笹賀谷が扉の向こうに答えた。
扉が開いた。
「失礼しまーす。あ、笹賀谷」
「あー、いたいた。ほら」
「確かに……それっぽい気はするけど」
三人のうち一人は、笹賀谷のクラスメイトだった。他の二人は、確か二組の生徒。
三人は部室の入口の所から、笹賀谷たちを見て何やら話していた。そのうち一人は、何かを持っていて、他の一人とそれを覗き込み、笹賀谷たちとの間で視線を行ったり来たりさせた。
「どうかした?」
笹賀谷が歩み寄ると、葵たちも集まって来た。
手に持っていたものは、一枚の写真だった。
二人乗りの自転車。それを真横から捉えたものだが、鮮やかな夕日を浴びて強い逆光になっているせいで細部は見えない。ただ、学生服から二人とも男子生徒だと分かる。
ノスタルジックな朱色の空気、自転車のボディーが幾何学的に生み出す影のコントラスト。瞬間を切り取られた二つの影は、今にも動き出しそうでありながら、同時に時を奪われ閉じ込められ途方に暮れているようにも見える。
それはもはや一つの絵画だった。ただただ美しい一つの作品だった。
手前で焦点がぼけて映り込む雑草の先端と相まって、絶妙な奥行き感が出ていた。それは、明らかに撮り慣れた人間によるものだった。
「綺麗……」
那須原の声は、心の底から自然と湧き上がって来たものだった。それに葵と田万川も深く頷いた。
「これは?」
田万川が尋ねた。写真を持っていた二組の男子が説明する。
「写真部の知り合いのやつなんだけど……文化祭に展示するやつね。それで、そいつが会心の一枚って言って見せてくれたんだけど、写ってる二人は誰なんだろうなって話になってさ」
もう一人が続ける。
「これが昨日今日と密かに話題になってて、一組の笹賀谷と二組の嵩間なんじゃないかって説が有力になってきたから、これは本人たちに確認しようぜという流れになったんだ」
「で、実際どうなんだ? 心当たりとかある?」
一組の男子が笹賀谷と嵩間に尋ねる。
「そうだな、正解だよ。これは新聞部の合宿のときのやつだ。夕方に買い出しに行ったとき。全然気付かなかったけれど」
「供用の自転車はやっぱり写真部が使ってたんだね。ほら、駐輪所に一台しか残ってなくて」
「そうだな。そのせいで二人乗りするハメになったんだよ」
「そうかそうか。これですべて解決だな」
一組男子は満足気に頷いて見せた。
「あ、ちょっと。もう一つ確認したいことがあるんだけど。本当にくだらない話なんだけどな……いや、やっぱりいいか」
「そこまで言ったら気になるだろ。どうした?」
笹賀谷は言い淀むクラスメイトに言った。クラスメイトは渋々話した。
「いや、あのさ、実はこれを見たヤツが、こいつらホモじゃね?とか言ったりしてて。ほら、結構密着してるじゃん? これが男女なら完全にラブラブだろうと。だったらこれはホモに間違いないってさ」
彼は、あまり真に受け取られないよう、少し大袈裟な身振りを交えて冗談めかして言う。しかし、その努力虚しく、場は急に静まってしまった。
笹賀谷の表情は、冗談で済ませないと書いてあるようなものだった。
「それって、誰が言っているんだ?」
「え……まあ、誰と言われても。一人や二人じゃなくて、わりとみんな普通に言ってたから。もちろん本気じゃないと思うけれど」
「当たり前だ。俺にそういう趣味はない。ふざけんなよ」
「まあ落ち着けって。ただの噂だから……」
「噂って……」
「笹賀谷は知らないかもしれないけど、嵩間についてはもとからホモ説を唱えるやつがいたから、出所はそのへんだと思うが。あ、でもこれもただの噂だから気にするなよ」
嵩間の方にも念を押す。
「それで何で俺まで。完全に巻き添えだろ」
三人はやや気まずそうに新聞部を立ち去った。
部室の扉が閉められる。
五人はノロノロとした動きで部室の中に戻っていった。みんな少し俯き気味だ。
たっぷり一分の沈黙が続いた後、それを最初に破ったのは田万川だった。
「……でよ」
よく聞こえなかった。校内のどこかから聞こえるざわめきや金槌の音の方が大きく感じられた。
「なんでよ」
田万川は繰り返した。今度はもう少し大きな声だったので聞きとれた。
「友里」
葵が短く名を呼んだ。それは、続きの言葉を押し留めようという意図を含んでいた。
しかし、田万川はやめなかった。
「浩君、言ったじゃん……」
「やめろ、友里」
「二人を応援してくれるって言ったじゃん。でも……本当に分かってない。全然分かってない!」
「どういうことだよ」
笹賀谷が言い返す。
「だって、結局、軽蔑しているんでしょ?」
「なんでそうなるんだよ」
「聞いていれば分かるよ! 浩君は二人のこと応援なんかしていない。軽蔑している……」
「友里、少し黙れ」
葵が語気を強める。
「どうして? 史人、軽蔑されているんだよ? ムカつかないの? 悲しくならないの?」
「友里、いいんだ」
「何が? 何がいいの? 良くないでしょ?」
「だから、いいんだよ、本当に」
「どうして? それじゃ分からない!」
「だからさ、求め過ぎなんだよ。そこまで何もかも理解して受け入れてもらおうだなんて、虫が良すぎるんだ。俺は……もし本当にササに軽蔑されていたとしても構わない。その中でうまくやっていける。仲良くできる」
「何それ? おかしいよ。そんなんで仲良くできるわけないじゃん」
「じゃあさ、聞くけど……。お前は俺のこと理解してるの? 受け入れられるの?」
「理解してるよ。受け入れられるよ。そもそも、私のことふったのは史人の方じゃん」
「そうじゃなくてさ。お前は、広海のことが好きな俺を受け入れられるの?」
「受け入れられるよ。だから、応援してるって……」
「だから、それがそもそも違うんだ」
田万川は、葵の言いたいことが分からなかった。葵はそれを確認してから深くため息をついた。
「言うけどさ、言いたくなかったけど……」
葵が浮かべたのは、諦めの表情。崩れゆくものを静かに眺める顔。
「俺は、お前のプライドを守るための道具なんだろ? 付き合ってたときから、そういう気はしてたけど」
「え……?」
「お前こそ、俺たちのこと応援していたのか? むしろ、俺たちのこと、本気だと思っていなかったんじゃないのか?」
田万川の表情が強張ってくる。でも、葵は止まらなかった。
「いろんなやつからチヤホヤされるような自分がふられて、しかもふった相手が男と付き合うなんて、プライドが許さなかったんじゃないのか? だから、別れた後も恋人のフリをしようなんて提案して。カモフラージュのためとか言って、結局は自分のプライドのためだろ?」
葵は憐れむように笑いかける。田万川の引きつった頬を涙の滴が落ちる。
「ササに応援を強要することで、心から応援しているフリをしていたんじゃないのか? もしくは、自分自身を騙そうとしていたんじゃないのか?」
田万川は半ば茫然自失となり、涙が次から次へと溢れだしていた。
「そういうのは、偽善と言うんだ」
葵は、静かに吐き捨てた。
「史人君……」
嵩間も、目の前で繰り広げられる光景にショックを受けていることは明らかだった。それでも、この状況に必死に立ち向かい、何かを伝えようとする。
「僕は……」
「広海」
嵩間の声は、他ならぬ葵によって遮られてしまう。
「お前も求め過ぎだ。ササに過度に理解を求めようとし過ぎだ。お前の勝手かもしれないけれど、正直、良い気分じゃなかった」
嵩間が泣くことはなかった。ただ、静かに悲しそうに葵のことを見た。
「理想ばかり求めず、理解を求めることはある程度の所で諦めて、それなりの付き合いをすればいいじゃないか」
その言葉は、誰に向けてのものだか分からなかった。嵩間に言っているのか、この場のみんなに言っているのか、それとも自分自身に言い聞かせているのか。
言葉が途切れる。田万川の微かな嗚咽だけが規則的に耳に届いた。慰めようとする人は誰もいなかった。
「広海……」
葵は、嵩間のことを見ないで名前だけ呼んだ。
「良い機会だから、はっきりさせたいことがある。広海が本当に好きなのは、笹賀谷……そうだよな?」
笹賀谷はその言葉が、自分を殺そうとする殺人鬼のナイフのように思えた。何もしなければ、それは確実に自分の心臓を貫くと思えた。逃げなくてはいけない。でも、なぜか身体は動かないし、耳も塞げない。
嵩間は笹賀谷のことを見る。申し訳なさそうに曖昧な笑みを浮かべて。
そして、告げる。
「そうだよ。僕は、浩ちゃんのことが好きだ」
すべての音は消えた。完全なる無音。深宇宙のような掴み所のない闇がすべてを連れ去った。
「浩ちゃん。僕は、浩ちゃんのことが好きだ。たぶん、ずっと前からそうだった」
間が生まれる。その間を、嵩間と出会ってから今までに起きたすべてが駆け抜けた。
駆け抜けた先にあったのは、汐巳高校の新聞部部室だった。
笹賀谷は、一瞬、自分がなんでここにいるのか分からなくなった。でも、確かにここに立っていた。
笹賀谷は、嵩間を見る。不安な様子のまったく感じられない、落ち着いた表情だった。
笹賀谷は言う。
「ゴメン……」
「うん」
「俺は、ヒロと葵のことを理解し、応援したいと思っていた」
「うん」
「本気で応援したかったんだ。でも……俺は、そういうのを本質的に受け入れることができなかった。頭で納得しようとしても、心が拒絶するんだ…………気持ち悪いんだ」
笹賀谷は、いつの間にか部室の床を睨みつけていた。誰のことも見れなかった。
やがて、嵩間の声だけが聞こえた。
「そうだよね。気持ち悪いよね……ゴメンね」
嵩間の目から涙が溢れるのを感じた。
笹賀谷は思った。あの日に掴んだよろめく自転車の後ろを、最後まで支え続けることはできなかったのだと。
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