04 サンセット・サイクリング


 短い列車は簡素なつくりの吊舟駅で停車した。

 吊舟駅では、一本の線路に面する一面のホームが上下両方向の列車を捌く。スペースがないためではない。

 実際、ホームの反対側にはもう一本線路を引き、さらにホームをもう一面設置できるだけのスペースがある。そこにバラストを敷かれているのが無秩序に伸びる背の高い雑草の隙間に確認できた。さらにその向こうには、雑木林と呼ぶには寂しいまばらな木立があり、そこから軽い下り斜面を経て農地が広がっている。

 ただ、この駅はどちらに行ってもすぐにトンネル区間に差し掛かる。それらは単線のトンネルであり、拡張するのは楽なことではない。よって、間に挟まれた吊舟駅だけ複線や二面ホームにしてもあまり意味がないのだ。

 そもそも吊舟駅の周辺には汐巳高校以外の施設がほとんどない。住宅もまばらであり、登下校の学生を除いてしまえば、利用客は相当少なくなる。そして、汐巳高校の学生も、過半数が駅とは反対方向の幹線道路を通るバス路線を利用するので、実のところ、電車通学はかなりの少数派となっている。

 よって、この駅をほとんどの列車が通過していくのは半ば必然であり、通学の時間帯以外の運行間隔が極端に長いのもやむを得ない。むしろ、停車してくれる列車があるだけ感謝しなくてはいけない。

 そして、やはり停車した列車からホームに降りたのは笹賀谷だけだった。

 中間テスト明けの土曜昼時。こんな時間帯にこの駅に降り立つ人間がそうそういるわけもない。

 笹賀谷は、開放的なホームを流れる風を受けながら、改札に向かって歩いていく。列車は扉を開けてからほとんど間をあけずに閉めてしまう。特に何の放送をすることもない。列車は黙って吊舟駅を後にした。

 笹賀谷は、学生服に普段より大きなリュックを背負っている。荷物が詰まっているようで、かなり膨らんでいる。

 白地に赤い文字で列車が高速で通過することに対する注意喚起をしている大きな看板がある改札を通り抜け、特に何にもない閑散とした駅前ロータリーを斜めに突っ切る。

 学校までは徒歩15分ほどの距離。そのほとんどが農地に面しており、人家はまばらだ。むしろ、数としては農耕機械を入れておく倉庫の方が多いくらいだろう。肥料を撒く時期にはかなりきつい臭いが漂っていることもある典型的田舎道である。


 それは昨日の放課後のことだった。

 中間テスト最終日を終えた解放感のせいか、足は自然と新聞部の部室に向かっていた。すると、田万川と那須原がすでにいて、さらに程なくして嵩間と葵までやってきた。特に活動することにはなっていなかったが、何となくみんなが集まってしまった。

 突然、葵が立ち上がった。視線が集まる。

「合宿をしよう」

「はい?」

 俺の素っ頓狂な声をものともせず、葵は続ける。

「あれだ、校内新聞発行のためだ。文化祭にあわせて発行できるよう、作業を急がねばなるまい?」

「まあ、急がねばならないけど……合宿? いつから? どこで?」

「そうだな。明日から学校で良いだろ。一泊二日だ」

「いや、いろいろ無理だろ」

 汐巳高校は、その敷地が隣接するところに学生寮を所有している。アパートと民宿を足して二で割ったような感じの古い建物で、実際に入寮している生徒はほとんどいない。むしろ、主な使用用途は部活動の合宿だ。

 しかし、いくら自由な校風の汐巳高校と言えど、学生寮まで好き勝手使えるわけではない。合宿計画を書いた申請書に顧問のサインをもらい学校の許可をとり、学生寮については宿泊許可書に親のサインが必要だ。

 笹賀谷は、葵にそのことを説明した。すると、葵は俄然やる気をみなぎらせる。

「それなら今すぐ職員室に行こう。うちの顧問、さすがにまだいるだろ? あの人、押せばどうにかなりそうだから、サインは余裕だ」

「合宿計画は?」

「それは部長の得意分野だろ? 任せる。俺が軽快なトークを繰り広げている間に完成させてくれ。はい、異議のある人は?」

「異議なしー」

 結局、全員が葵のノリに乗せられてしまう。そして、動き出すと何だかどんどん面白くなってきてしまうのが高校生というものだ。

 見事なチームプレーを繰り広げ、試験明けで緊張感の抜けた職員室を制圧、必要な書類とサインをもらい、学生寮の管理人への連絡もしてもらえた。当日、保護者のサイン入りの宿泊許可書を持ってくれば大丈夫ということになった。

 待ち時間に通りがかりの数学の先生が言うには、全員それなりの成績をとっているからサービスしているんだろうとのことだ。アメとムチで言うなら、今はアメを与えるべきタイミングだと判断されたのだろう。

 かくして、試験明けの週末を利用した一泊二日の新聞部合宿が決行される運びとなった。


「あいつはほんとに自由だな」

 笹賀谷は、最終的に合宿ができることになって、子供のようにはしゃいでいた葵を思い浮かべて呟いた。

 中学のときの方が今よりもよくつるんでいた気はするけれど、あの捉えどころのない自由さは治まる気配がない。何度か家にお邪魔したことがあるけれど、家族もそんな感じで、両親とは親子というより友達のような接し方だったのが少し印象的だった。

 笹賀谷の家は、仲が悪いわけではないけれど、互いにあまり干渉しない淡白な関係で、家庭内の雰囲気は対極にあるように思えた。こういうのも家族なのかと、軽くカルチャーショックを受けたのは、多感な時期だからこそだったのだろうか。

 葵は、本当にやりたいように行動する。そんな自然体が周囲に安心感を与えるのか、葵は男女を問わず広く人気がある。

 そして、その自然体が辿り着いたのが、嵩間というわけだった。

 今までも笹賀谷の予想の範疇を大きく逸脱してきた葵だが、ここに極まれりという感じだった。田万川と別れて嵩間に乗り換えるというのは、多くの人にとって正気の沙汰ではない。でも、それでこそ葵という気もした。


 人のいない校舎の薄気味悪さは、新聞部の部室に辿り着くと霧散していた。急に空気が濃くなったかのように、人心地がつく。

 笹賀谷は集合時刻よりかなり早めに来たつもりだったが、そこにはすでに田万川がいた。

 机に突っ伏していたが、扉の開く音を聞いて身体を起こした。

「早かったな」

「まあね。家にいても暇だったし」

 笹賀谷はとりあえず対角の位置の椅子に座った。それから田万川の方を見た。ちょっと気だるそうな感じだった。試験明けだからだろうか。

「お疲れ?」

「んー、どうだろ。とりあえず充電している感じかな」

 田万川の右手のあたりにはスマホが置いてあった。充電中のランプがついていた。新聞部の部室では、壁のコンセントから机のところまで延長コードを引いている。田万川は、そこに充電器を差していた。

「ああ。バッテリー切れたの?」

 田万川は何も言わず、ただ微かに笑った。


 集合時刻までには全員しっかり集まっていたが、新聞部合宿の意義が全員に浸透していたかと言われると、これは相当怪しい。良くも悪くもいつもと同じで、やるべきことはしっかりやっておきたい笹賀谷、気分次第でやったりやらなかったりする葵、とりあえず笹賀谷の指示に最大限こたえようと頑張る嵩間、ちゃんとに作業を進めているように見えるのに実は大して進んでいない田万川、ひたすら場の空気に流され続ける那須原という感じだった。

 部長として場を取り仕切る笹賀谷は、自分でも作業を進めつつ、周囲に発破をかけ続ける。それで一応は校内新聞制作が進んでいく。

 再び手を動かし始めてから10分くらいたったとき、葵がポツリと呟いた。

「そろそろ夕食だな」

 時刻はまだギリギリ三時台だった。

「はえーよ」

 一定時間ごとに駄々をこねる葵の相手をすることに段々とイラついてきた笹賀谷が、少し棘のある口調で答えた。

 葵はあまり笹賀谷を刺激しないよう、手は動かしながら言う。

「鍋だっけ?」

「そうだよ」

 学生寮利用にあたっては、管理人さんの所から鍋セット一式を借りることができるようで、本日の夕食はみんなで鍋をつつき合うことに決まっていた。時期的に少し早い気もするが、夜はかなり涼しくなってきたから、まあ良いだろう。

「買い出し?」

「行かないとな」

「何時頃?」

「作業が一段落したら」

「した?」

「してねーよ、お前が」

 場が静まる。居たたまれなくなった葵が、小さな声で「スンマセーン」と言う。

「でも、この後、寮に行ってから買い出し行くんだよね? 早めに動かないと、食材なくなっちゃうかもしれないよ?」

 田万川がもっともなことを言う。笹賀谷が答えに窮していると、那須原の追撃が来る。

「田舎時間は油断なりませんからね。嵩間先輩、どう思います?」

「農協の直売所に行くんだよね? あそこ、何時までやっているんだろ?」

「知りませんけど、暗くなったら閉まっちゃうんじゃないかって気もしますね」

 再び場が静まる。これは明らかな返答待ちの時間。

 今度は、笹賀谷がたまらず声をあげた。

「あー、分かった分かった。とりあえず今はここで切り上げよう。ただし、あとでしっかり続きやるぞ」

「ハーイ部長!」


 汐巳高校の文化祭は、十一月初めの土日に開催される。

 完全に学生主導の行事であり、教職員は運営面に関して可能な限りノータッチの姿勢を貫き、積極的に加わりたい場合には有志企画を出す。そのため、有志を出さない教職員はかなり暇であり、新聞部の顧問はもともとこの時期に新聞をつくっていたらしい。

 部活動の多くは何らかの形で参加し、また、各クラスも基本的にはすべて参加する。そして、それらを統率する役目を担う文化祭実行委員会が存在し、事務的な処理をしているのだが、あまり強力なリーダーシップや強制力を発動しているわけではない。この高校の基本原理はここでも貫かれていて、あくまで個々の学生の意思が尊重され、各企画のクオリティーにはかなりの差が出てくる。はっきり言って、非常にショボイものも少なくない。

 中間テストから文化祭までは二週間あり、これが実質的な準備期間に相当するが、余程の計画性がない限り、本格的にエンジンがかかるのは直前一週間である。

 このとき、ヤル気に満ち溢れる一部の部活動は、顧問と学校の許可を得て、学生寮の空き部屋を利用することがある。たいてい、一週間前の土日と本当の直前、そして文化祭当日の宿泊申請が多い。

 夏休みなども部活動の利用はあるが、短期間に集中するわけではないので、実は年間を通じて学生寮が最も賑わうのは、この文化祭シーズンということになる。

 しかし、それでもさすがに二週間前の時点で泊まり込みの準備をする部活動は少なく、新聞部は暇を持て余していた管理人夫婦に歓迎された。

「本来男女は別フロアだけど、今日はまだガラガラだから特別に隣同士を使っていいわよ。でも、変に問題起こしたりはしないでね。あと、これ内緒だから学校で言っちゃダメよ~」

 奥さんの方は、会話好きで世話好きで気さくなオバちゃんという感じ。笹賀谷たちが最初の挨拶をした後は、ひたすら喋り続け、ひたすら動き回っていた。そして、物凄く楽しそうでテンションが高かった。

 笹賀谷たちは鍋の道具を受け取り、奥さんと一緒に部屋に入って説明を受けた。男子三人が利用する部屋は少し大きめで、二段ベッドが二つと、折り畳み式のテーブルが置いてあった。女子二人が利用する部屋は一回り小さかったので、鍋は男子の方でやることになった。それぞれの部屋にキッチンはないので、野菜を切ったりするのは、共同の炊事場を利用することになる。

 奥さんは、一通り説明を終えると、世間話をし、それから思い出した追加の説明をし、その後なぜかわざわざ調味料を届けてくれて、最後に「何かあったら遠慮なく言ってちょうだい」と言い残して名残惜しそうに去っていった。その間、新聞部一同は全力スマイルで対応した。

 奥さんの立ち去った男部屋で、五人は扉の方を向いたまま立ち尽くす。部屋は驚くほど静かだった。

「これで嵐は過ぎ去ったか?」

「恐らく……」

「すごいエネルギーでしたね」

「私もお腹すいちゃったから一緒にお鍋突っつこうかしら~♪」

「ダメダメ! そういうこと言うとホントに来ちゃうかもしれないでしょ!」

「わーたーしーのーこーとーよーんーだー?」

「なぜにホラー?」

「あの……」

「ていうか、何か一気に疲れた気がする……」

「予想外にHPを失ったな。よし、俺、上の段~」

「おい、何勝手に! つーか、もう寝るのかよ!」

「あの……」

「お前も上が良いのかよ? あ、それとも俺と寝たい?」

「おい、お前、その発言はいろんな意味でどうかと思うぞ」

「あ……」

「先輩!」

 那須原の声で、葵と笹賀谷はようやく行動をぴたりと止めた。

「嵩間先輩、言いたいことがあるようで」

 那須原はさっと横にどいて嵩間に話を振る。

「あ、いや、もうこんな時間だから、早く買い出し行かないといけないんじゃ?」

 笹賀谷はハッとして時計を見た。

「お! ヤバ!」

 時刻はもうすぐ五時。部屋の明かりをつけていたので気付かなかったが、外は少しずつ日が陰ってきていた。

「買い出し行かなきゃ」

 笹賀谷は、直売所が何時に閉まるのか管理人さんに聞こうと思って忘れていたことをちょっと後悔する。

「ねえ、二手に分かれた方が良いんじゃない?」

 田万川が現実的な提案をする。仲良く全員で買い出しに行くのは時間がもったいない。一応、遊びに来ているわけじゃないし。

「確かにそうだな。ここで鍋の準備をする人と買い出し組に分かれよう」

「ナッちゃんは料理要員だから、準備組ということで。買い出しは……二人で大丈夫か?」

 那須原は唯一の後輩であると同時に、唯一の料理要員であるということは、新聞部の常識だった。よって、那須原は自動的に準備組に割り振られることとなる。

 食材は、すでに各自が家から持ち寄っている分があるので、あまり大量には必要ない。確かに二人いれば十分だった。

「じゃあ、葵とヒロの二人で行ってこいよ」

 笹賀谷は普通の調子で言う。しかし、すぐさま葵が反応する。

「あー、そういう気遣いはいらないから」

 あまりきつい口調ではないが、葵の気に障ったことは明らかだった。場の空気が少しだけ硬くなる。そして、それは葵自身も感じ取る。

「あ、ゴメンゴメン。そうじゃなくてさ。ていうか、普通にジャンケンで良いだろ。負けたやつ二人な」

 那須原以外の四人がジャンケンをした。三回あいこが続き、四回目で二人が負けた。葵が派手にガッツポーズをする。

 負けたのは、笹賀谷と嵩間だった。


 汐巳高校の周辺で買い物ができるのは実質的に二ヶ所しかない。幹線道路沿い、学生の多くが利用するバス停のところにある農協の直売所と、そこからほんの少しだけ行ったところにあるコンビニだ。これらは吊舟駅とは逆方向にあたるが、駅の方にはコンビニがないので、学校の最寄りのコンビニがここになる。幹線道路に面していることもあり、駐車場が広く確保されていて、品揃えもかなり良い。

「自転車借りていこうぜ」

 笹賀谷が学校の駐輪所を指差した。

 駐輪所には卒業生がおいていったものと思われる自転車があって、それらは供用扱いとなっている。誰かが管理しているという話を聞いたことはないが、わざわざ供用を示すステッカーが貼られ、盗難防止のワイヤーロックがかけられている。

 笹賀谷と嵩間は校門を入ってすぐの駐輪所に行った。

「あれ、一台しかないな。絶対全部残ってると思ったんだけど」

 供用自転車は全部で四台存在するはずだが、今は一台しかなかった。

「学校休みなのに、誰が使ってるんだ? まさか、借りパク?」

「うちの学校の生徒は、案外しっかりルールを守るから、それはないと思うけど……」

 自由な校風というやつは、最低限のルールを守れなければすぐに滅びてしまう。にもかかわらず、その体制が維持されているということは、すなわちこの学校の生徒たちにはそういった最低限の良識が当たり前のものとして根付いていることを意味している。

「ま、そうだよな。そう言えば、写真部の部室は人がいたみたいだったから、そのあたりが使ってるのかな?」

「きっとそうだよ。写真部の人、よく学校の周りを散策しているし」

「で、どうする? ……といっても、一台じゃどうしようもないな。大した距離じゃないから歩くか」

 笹賀谷はさっさと歩いて行こうとする。しかし、それを嵩間が引き止める。

「これ、後ろに荷台ついているやつだから、二人乗りできるよ」

 笹賀谷は自転車と嵩間を見ながら少しだけ逡巡するが、結局提案を受け入れることにする。笹賀谷は黙ってしゃがみ、ワイヤーロックの数字を創立記念日にあわせる。それから立ち上がり、自転車のハンドルを握ると、後輪のスタンドをあげてサドルに跨った。

「ほら行くぞ。早く乗れ」

 嵩間は何か言いたげだったが、その言葉は出さず荷台に跨った。

「掴まらないと危ないぞ」

「うん」

 嵩間は恐る恐る笹賀谷の身体に手を回した。笹賀谷はそれを確認し、ペダルを踏みしめた。自転車は少しだけふら付きながら加速していき、校門を出ていった。


 昔はよく自転車であちこち行っていたが、二人乗りは一回もしたことがなかった気がするな。

 幹線道路につながる細い舗装路を進みながら、笹賀谷は昔のことを思い出していた。

 それは小学校四年のときだったと思う。

 当時、笹賀谷と嵩間は家が近くだったので、日常的に関わる機会が多かった。

 ある日、笹賀谷は、空き地で自転車の練習をする嵩間を見かけた。自転車は恐らく中古。補助輪はなく、後ろを支えてくれる人もいなかった。完全に一人だった。

 嵩間の家は、いわゆる母子家庭というやつだった。兄弟もいないので、母親と二人だけの家族ということになる。

 笹賀谷が自分の親から聞いたところによると、この母親が少々厄介だったようだ。今で言うところのネグレクトに近い状態で、たった一人の息子にもかかわらず興味が薄く、生存する上で最低限の面倒しか見ていないようだった。さらに後に聞いたことだが、父親が出ていったのも、この母親の奔放さに愛想を尽かせてのことだったらしい。

 田舎の子供にとって、自転車は単なる交通手段ではない。子供社会における立ち位置を左右する重要な要素の一つである。自転車のあるなしで行動範囲は大きく変わるので、なければ一緒に遊ぶことが厳しくなってくる。学年が上がるごとに自転車を持つ割合は増し、なければ孤立していってしまうこともあるのだ。

 嵩間は、それまで自転車を持っていなかったので、乗ることはできなかった。クラスの大半が自転車を持つ状況で、さすがに堪えかねて母親に懇願したのだろう。しかし、練習相手とはなってくれなかったようだ。

 小石が転がり、所々に雑草が伸びている空き地の中で、比較的平坦な場所を、嵩間はふら付きながら行ったり来たりしていた。しかし、走り出してすぐにバランスを崩し足を着くので、ほとんど乗っているとは言えない状況だった。

 笹賀谷は、気付くと嵩間の所に歩み寄っていた。

「押さえててやる」

「浩ちゃん?」

「ほら、漕げよ」

 嵩間がきちんと乗れるようになるまで、それからかなり苦労したが、笹賀谷は文句一つ言わず根気強く付き合った。

 それから、笹賀谷と嵩間は一緒に行動することが多くなった。小学生ながら、笹賀谷は嵩間が自分に対して抱く強い信頼を感じていた。単純なもので、人からそのような感情を向けられることは気分が良かったし、実際に力になりたいと思っていた。

 そんな二人だが、小学校卒業と同時に嵩間の家が引っ越しとなり、中学は別々となってしまう。これもまた、母親の勝手な都合だったようだ。

 再会したのは高校に入ってからだ。中学の間は疎遠だったので、互いにどこの高校に行くのか知らなかった。まさに偶然の再会である。

 再会後、少し深い話をしたことがあった。

 高校ではかなり改善されているが、嵩間は、小学校の頃は女性不信が顕著だった。理屈では分かっても本能的に女性に対する警戒を解くことができなかった。このことは笹賀谷も知っていたので、嵩間の人格形成に母親が決定的な打撃を与えているのだと漠然と考えていた。

 しかし、本人の口からは意外な言葉を聞いた。

「確かにそれはあると思うよ。でもね、ショックということなら、父親の方が大きい気がする。父さんが家を出てからしばらくはよく分かっていなかったんだけど、ある日、何の前触れもなく、自分が父親に捨てられたんだと理解して、そのときは本当に底なしの穴に突き落とされたみたいな気がしたよ。膝がガクガクして本当に立ち上がれないんだ。それで息が苦しくて、夏でもないのに汗が滴り落ちてくるんだ」

 この言葉は、笹賀谷の頭の中に妙に残った。

 二人の乗る自転車は、真っ直ぐ続く舗装路を安定走行していた。脇を流れる用水路は少し深いので、地平線に迫る太陽の光が届かず暗くなっている。

 黄昏時。影は長く伸びている。

 笹賀谷の口から、唐突に背後の嵩間へ質問が飛び出る。

「お前、昔から男が好きだったのか?」

 笹賀谷は、言ってから聞き方が無遠慮過ぎたと思った。しかし、嵩間は気にせず答えた。

「たぶん」

 その声は、表面的な語意とは裏腹に、迷いの感じられないものだった。

 直後、自転車の前輪が石ころを踏みつけ、軽くハンドルが取られる。

 嵩間は少し勢いづき、笹賀谷の身体により密着する形となる。

 カシャ。

 自転車がまた石ころを弾き飛ばす。

「この辺は石ころが結構落ちてるね。安全運転で頼むよ」

 嵩間は体勢を元に戻す。

「ああ」


 買い出しを終えて学生寮に戻ると、何の説明もなく葵が寸劇を始めた。どうやら一人で全員の役という設定らしい。何となく声音を使い分けている。

「るんたった~♪ コンコン、ガチャ……。冷蔵庫片付けてたら白菜見つけちゃった~」

「何と奥さん! これはまた立派な白菜ですね! 実にみずみずしい!」

「そうでしょ? お鍋には持って来いよ」

「あ、でも今、買い出しに……」

 包丁で野菜を切っている田万川の真似。葵は右手をトントントンと動かす。

「何言ってるのよ~。白菜なんて、どれだけ入れてもどんどん縮んで、こんなにちっちゃくなっちゃうんだから!」

 葵の扮する奥さんは、両手で白菜が縮む様を表現する。かなり豪快な縮みっぷりである。

「奥さん、それは行きすぎじゃないですか? せいぜいこんなもん」

 葵の扮する葵も、両手で白菜が縮む様を表現するが、微妙過ぎて違いが分からない。

「えー、そうかしら? このくらいじゃ?」

 奥さんはもう一発披露する。それもまた違いは分からなかった。エンドレスな展開を恐れたのか、満面の笑みの葵はここで話を収束させようとする。

「ま、どっちでもいっかー。白菜どうもっす!」

 しかし、奥さん侮りがたし。

「え~、白菜欲しいの? どうしよっかな~」

 うわ、メンドクサ!と笹賀谷は心の中で言った。ありがたいことにはありがたいのだが。

 寸劇を一緒に眺めていた那須原が「私も同じこと思いましたよ、先輩」と小さな声で言った。

「……などというやり取りがこのあとも続くわけだが、以下省略」

 普通の喋り方に戻った葵。

「お疲れ様、本当に」

 笹賀谷は心の底からねぎらいの言葉をかける。

「今のが『白菜の襲来編』だけど、『迫りくるシイタケ編』も見たい?」

「いえ、遠慮します」

 準備組にも様々な困難はあったようだが、葵が防波堤となっていたため滞りはなかった。結局、買い出し分も含め、かなりのボリュームとなったが、そのすべてを食い尽くした。

 昼の作業の続きもそこそこに、五人はこの時間を目一杯楽しんだ。さすがの笹賀谷もあまり口煩く言うことはせず、誰もが新聞部で一番楽しい夜だと感じていた。

 この時間がたった一泊で終わってしまうことを、誰もが惜しんでいた。



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