02 シオミハイスクール
週末の乱れた生活リズムを引きずる月曜。昼食の弁当が本格的に消化され始め、脳味噌の血流が悪くなる午後。その上で、先生の体調不良により急遽自習となってしまった六限。
これほどの条件が重なっても、熱心な受験生なら頑張ることができるかもしれない。しかし、二年の夏休み明けというのは、高校生活の折り返し地点であると同時に、怠惰の頂点を極める時期でもある。
故に、このだらけた空気に対抗する術など残されていなかった。
笹賀谷は教室内を見渡した。
当然のように眠気に潰れているのが数名。何人かはお喋り。読書も数名いるようだが、コミックや週刊誌が大半だろうか。一応、ちゃんと自習しているように見える人も一人か二人いるが、こういうところで差がついていくのだろう。
六限開始のチャイムが鳴って1分。隣のクラスの世界史の先生がプリントの束を持って教室に入って来たときが本日最高の盛り上がりで、途端に「自習! 自習だ!」のシュプレヒコールが巻き起こった。テンションマックスの教室内で、もともと覇気のない年輩の先生が、白いチョークを手に取り、期待通りに大きく自習と書く。そのまま、自習の文字の下に、少しだけ小さな字で、やるべき課題が記され、さらに「教室から出ることなく静かにしていること」と続く。教卓の対面席の生徒にプリントの束を託すと、結局一言も発することなくその場を立ち去ってしまった。
課題は10分とかからず片付くようなものだった。みんなその10分だけは真面目に取り組み、そしてそこで集中の糸はブツリと切れた。
笹賀谷は自分の手元に視線を戻した。そこには、少し小ぶりなA5サイズのノートが開かれていた。
日付とその日の出来事が列挙されているが、日記帳ではない。それはネタ帳だった。
笹賀谷は新聞部に所属しており、しかも部長だった。もともと責任感の強い笹賀谷は、自ら望んでなったわけでもないのに、部長として記事のネタになりそうな出来事を記録するようにしているのだ。
笹賀谷は、ページをめくりながら付箋をつけたり新たな書き込みをしたりしていく。それから、今後のおよそ一ヶ月間のスケジュールを思い浮かべ、これもメモしておく。
やっておきたかった作業を一通り済ませると、教室の時計に目をやる。ひと眠りするには半端な時間だった。
何の気もなしに、教室内で唯一談笑に興じている窓際に視線を流した。
そこにいたのは、クラス内でも一番騒がしいグループだった。さすがに今は音量をセーブしているが、昼休みなどは教室内に声が響き渡っている。
そのグループの会話の中心にいるのが、葵だ。
目立つ長身、やや切れ長の目、軽い癖っ毛はちょっとだけ染めている。変に気取ったところはなく、たいてい誰とでもフレンドリーに関わることができた。表情は子供のようにコロコロ変わって、自然体を地で行くタイプだった。
笹賀谷は、葵と中学のときに知り合った。その時点からすでに人の輪の中心にいるようなタイプだったことを考えると、天性なのかもしれない。人を寄せ付けやすいオーラを発しており、当然のようによくモテた。
葵が田万川と付き合いだしたのは、昨年の夏のことだった。田万川はその時点ですでに校内男子の注目を浴びる存在であったため、笹賀谷も彼女のことを知っていたし、かなり気になっていた。しかし、そんな田万川が葵と付き合いだしたと聞いたときには、自然の摂理というやつを思い知らされた気がした。
笹賀谷の視界に映る葵は、今日も変わらず葵史人のはずだった。それなのに、急によく分からない人間に思えてきた。いや、もしかすると、今までも実のところ全然分かっていなかったのかもしれない。
あの学年屈指の美少女、田万川と別れて、嵩間と付き合うことになるなどとは、世の中分からないものだなと笹賀谷は思った。
一昨日、話を聞いてから少し調べてみたが、葵は両性愛者というやつなのだろうか。決して短くない付き合いのはずだが、全然考えもしなかった。
六限がもうすぐ終わることに気付いた笹賀谷は、ネタ帳を手にとった。急に、その中に蓄積してきたネタが、どれも記事化するに値しないものに思えてきた。本当のドラマは、もっと違うところにあるんだなと思った。
二年二組の教室。普段より数分遅れてやってきた年輩の世界史の先生は、いつも通りの退屈な授業を続けていた。
筆圧が弱く板書が見にくいことは、生徒たちの学習意欲をじわじわと削いでいった。しかも、結局試験直前にまとめプリントをつくってきて、それがわりとそのまんま出題されることは誰でも知っていた。
そのため、割り切って居眠りしている生徒も少なくはない。先生は全然厳しくないし、教卓と黒板以外に注意を払っていないので、他の生徒に迷惑をかけない限り、互いに不干渉が貫かれている。
しかし、そのような中でも嵩間は毎回しっかりと漏らさず板書をとり続けていた。勉学に対して何か強い意志があるわけではないので、ほとんど惰性と言ってよいものだったが、黒板の文字を自分のノートに写し取り続けていた。
気付くと、先生は黒板と教卓の間の往復運動をやめていた。教卓の上で自分の授業ノートをめくっていく。
いま黒板にある文字を写し取り終えた嵩間は、時計を見る。授業時間はまだ15分くらい残っていた。
先生は不意に話を始めた。単元的にキリが悪いということで、残りは適当に雑談をするようだ。普段、授業内容以外のことはまったく喋らないので珍しい展開だったが、雑談の内容はやはりつまらなかった。生徒は一人また一人と自分の机に着陸し、睡眠モードに入っていく。
嵩間は居眠りこそしなかったが、教室を見渡しながらぼんやりと物思いに耽った。
嵩間の座席は、後ろの扉の近く。教室の中央付近には田万川の席があり、自然と視界に入った。田万川は睡眠モードだった。
嵩間は、田万川が自分と葵の仲を応援すると言っていたことを思い出した。
嵩間と田万川は、それまで一対一の関わりなどほとんどなかった。新聞部の面々がいる中で、その構成員同士という程度の関係で、教室で会話をすることすら皆無だった。正直なところ、嵩間は田万川に苦手意識を持っていた。だからこそ、その提案は意外であり、同時に後ろめたさも感じていた。
それから、葵に告白された一ヶ月前の出来事や一昨日の吊舟駅のホームでのことを思い起こした。浩ちゃんは、本当にびっくりしていたなあ。
嵩間は笹賀谷の驚いた表情を思い起こし、クスと小さく笑ってしまう。それから、誰かに見られていないかと周囲の様子をうかがう。幸い、誰も自分に注意を払っていなかったようだ。
時刻は六限終了の5分前になっていた。先生の言葉が途切れがちになる。もとから面白くなかったわけだが、それすらも尽きてきたようだ。先生は、教室の時計を見て、自分の腕時計も見る。それから自分の授業ノートや筆記具をまとめると、そのまま教室を去ってしまった。
先生が教室の扉を閉める音は、授業終了の合図に他ならなかった。
生徒たちは談笑をし始める。とりあえず、先生の雑談のつまらなさについて面白おかしく意見交換しているようだ。
嵩間の近くの女子の集まりもそういう話を始め、嵩間にも意見を求めてきた。
「嵩間君も微妙だと思ったよね?」
「うん、まあ。あんまり聞いていなかったから分からないけれど……」
嵩間が微妙な笑みで返すと、別の女子がすかさず口を挟む。
「嵩間君が聞く気も起きないんだから、やっぱり微妙ってことだよ。一人も聞いてなかったんじゃない?」
そう言うと、その集まりにいた女子数名が示し合わせたように同時に何度も頷く。そして、あまりにぴったりのタイミングで頷いたことが可笑しいらしく、誰ともなく笑いだした。
すると、一人の女子が手をあげる。
「ハーイ、私は聞いてたよ。とても良い話でした。感動した!」
「じゃあ、どんな内容だった?」
「んーーー。ワシは……とにかく感動したのじゃ!」
全然似ていないし訳も分からないが、先生の真似ということなのだろうか。とりあえず、再び笑いが起こる。
嵩間は、会話に積極的に参加することはなく、その向こう側を眺めた。すると、再び田万川が視界に入った。すでに起きているが、自分の席の近くで会話をしている女子たちの輪には入らず、教卓の周辺にいる人たちと談笑していた。男子五人、女子二人くらいのグループで、笑顔を振りまいていた。
程なくして、六限の本当の終了を告げるチャイムが鳴り始めた。
汐巳高校は、周辺に農地の広がる地域にあり、敷地面積は公立高校としてはかなり広い。
地域の人口流出もあり、生徒数は減少傾向。現在は各学年三クラスという体制である。そのため、もとからスペース的なゆとりはあったが、さらに空き教室も増えてきた。
関係者としては由々しき事態かもしれないが、これが逆にプラスに働いているのが、部活動である。グラウンドがメインとサブの二つあったり、柔道場、剣道場、弓道場があったりして、施設としては十分だし、住宅地と面していないので特に余計な配慮をする必要もなく、多くの種類の部活動が存在している。生徒たちの自主性を重んじるという名目の放任主義も、周囲からの苦情を気にしないで良い立地によるところが大きい。
そして、多くの運動部や、理科室、家庭科室などの特別教室を必要としない部活動には、空き教室が割り当てられるが、新聞部もその中の一つである。ただし、他の室内系部活動が集まるエリアからは少し離れた僻地、荷物置き場と化している普通教室の並ぶ一角にあるので、扱いには差があると言えるだろう。
笹賀谷が扉を開けると、すでに他の部員は揃っていた。
部室は、空いている普通教室の机や椅子を後ろに寄せて使っている。壁際にはあまり大きくない本棚と備品棚があるわけだが、本棚はほぼ空で、備品棚もノートパソコンと校内新聞のバックナンバー以外、特筆すべきものは何もなかった。
教壇側の広く空いたスペースには机をいくつか連結してあり、そこに嵩間、田万川と、唯一の一年である
「あ、部長来た」
那須原が声をあげると、葵は読んでいた雑誌を閉じた。
「ササー。お疲れさん」
「いや、別に疲れてないけど。ていうか、六限、自習だっただろ」
「いやいや、ずっと何か作業してたじゃん。あれ、新聞部関連だろ?」
「まあ、そうだけどな」
笹賀谷は、たったいま印刷してきたプリントを部員に配った。
「さすが部長」
田万川も同調する。笹賀谷も椅子に座った。
「さて、手書きでちょっと見にくいんだけど……」
みんなプリントに視線を落とした。そこには笹賀谷の几帳面な字で〈校内新聞について〉と書かれていた。
「なんやかんやで、あと一ヶ月くらいだから、そろそろ本格的に作業を進めようかと。基本的には五月のときと同じだけどね」
汐巳高校新聞部は数年の休部期間があり、それを昨年十一月に笹賀谷たちが再始動させたという経緯がある。休部期間中は、ちょっと暗い雰囲気の顧問が年に二回だけ校内新聞を細々と続けていて、笹賀谷たちがその紙面上の勧誘記事に目をつけたわけだ。
再始動メンバー四人は、誰ひとりとして新聞に興味はなかったので、完全に不純な動機ではあるが、汐巳高校特有の甘さで自分たちのテリトリーを確保することに成功した。そして、校内新聞について当面は年二回の発行ペースで構わないという言質を取ることもできた。
笹賀谷と以前から交友関係のあった嵩間、中学からの仲である葵、葵について来る形で田万川が集まった。笹賀谷と田万川、嵩間と葵、嵩間と田万川はそれまで直接かかわったことのない仲だった。
笹賀谷は特にやりたくなかったが、なし崩し的に部長になってしまった。責任感の強い性格でもあるので、このメンバーにおいては適任だと思われている。部長になってからは、しっかりと新聞部のために行動し、再始動したからには盛り上げていきたいと考えるようになっていた。
今年四月には、校内掲示板の勧誘記事を見ていた那須原を、笹賀谷と葵が連れてきた。結局彼女は、笹賀谷の真面目な勧誘と葵のノリに押される形で入部してしまう。那須原は周囲に流されていくことも多く、押しに弱い性格なのだ。
それからは、直後の五月に再始動後で初の校内新聞を苦闘の末に発行し、紆余曲折を経て今に至っている。なお、次の校内新聞は、十一月初めの文化祭の時期に発行される予定だ。間に中間テストがあるので、それほど悠長に進めていくわけにはいかない。
「……という流れでやって行こうと思うけれど、何か質問ある人いる?」
笹賀谷は、次の校内新聞発行までの流れを一通り説明した。五月のときと基本的には同じ流れなので、みんな問題ないというリアクションをする。
事前にプリントでまとめてきたこともあり、意外と時間が経過していなかった。話が止まり、これからどうするかという空気になる。
「説明は一通り済んだけれど、今日、もっと話を進めておこうか?」
笹賀谷がみんなに尋ねる。あんまり乗り気とは思えなかったが、さすがにこれだけで解散というのは良くないかなと思った。
すると、田万川が発言する。
「それ、あまり急ぎじゃないなら、代わりにちょっと話しておきたいことがあるんだけど……」
笹賀谷はピンと来た。田万川は、嵩間と葵のことを那須原にも説明するつもりなのだろう。
現時点で、二人のことを把握しているのは、当人たちの他は田万川と笹賀谷だけと聞いている。つまり、この新聞部において知らないのは那須原のみということになる。
今でも表向きには葵と田万川が付き合っているということになっていたが、人数の少ない新聞部でそれを貫くのは面倒だし、何より那須原を疎外しているように感じられて良い気分ではない。田万川も、よく那須原と行動をともにするので、秘密のままにしておくのは気が引けるのだろう。
嵩間も笹賀谷と同じことを考えているようだった。しかし、不安そうな表情も見てとれる。確かに、那須原の反応を想像すれば、そんな気分にもなるだろう。笹賀谷は、二人のことを応援すると言った以上、ややこしいことになりそうだったらしっかりフォローをしなければいけないと思った。
葵の方はというと、やや憮然とした表情に見える。と思ったら、自ら口を開いた。
「友里、俺が説明するよ」
その口調から那須原も何かを感じ取ったようだ。周りの様子をうかがいつつ、そろそろと椅子を引いて背筋を伸ばした。
「ううん、私が説明したいの。私に説明させて」
田万川はゆっくり言い聞かせるように言った。表情は穏やかだったが、その役回りを譲る気はないという頑とした決意のようなものが滲み出ていた。
葵はさらに言い返そうとしたが、それを嵩間が静かに
事情を知っている笹賀谷は、その行動を見て二人は本当に付き合っているんだなと思った。不機嫌になりかけている葵をあっさり制することができるのは、何よりの証拠だ。
田万川は、先日、吊舟駅で笹賀谷に説明したときとほぼ同じことを那須原に説明していった。
自分と葵がすでに別れていること、葵と嵩間が付き合っていること、二人を応援して欲しいということ。そして、この情報は今ここにいるメンバーだけで共有されており、今後も口外しないこと。すなわち、今後も表向きは、葵と田万川が恋人同士という前提で行動するということ。無理解で無遠慮な好奇の目にさらされないための、カモフラージュのようなものとして。
那須原は、時々頷きながらただ静かに聞いていた。笹賀谷と違って、ほとんど驚くこともなく田万川のことをじっと見ながら言葉を一つ一つ受け取っていった。
むしろ説明している田万川の方が少し緊張気味で、声が微かに震えている気がした。
「分かりました」
田万川がすべての説明を終えたことを確認すると、那須原は静かに、しかしはっきりとした口調で言った。普段は周囲に流されやすい印象のある彼女だが、意外と根はしっかりした子なのかもしれないと笹賀谷は思った。動揺を隠せなかった自分が今さらながら恥ずかしい。
部室内が静寂に包まれた。
田万川と嵩間は那須原の様子を見たまま動かないし、葵はお構いなしと言わんばかりに黙り込んでいる。
笹賀谷はたまりかねて声をあげた。
「ナ! ……那須原は全然動揺しないんだな!?」
いきなり裏声になってしまった。
「ブフッ!」
葵がたまらず吹き出す。続いて他の面々も笑い出した。
「お前、もう聞いてたんだろ? 何で今さらお前が緊張してるんだよ? あー、オモシレー!」
「お前こそ、自分のことだろ!? 何でそんなに余裕なんだよ?」
「むしろ、このぐらいの神経じゃなきゃ、こういう展開にはならないだろ?」
笹賀谷は一瞬、何を言っているのか分からなかったが、なるほど男同士で付き合うことを考えたら大したことはないというわけかと思い至った。
「ササ先輩は、結構ナイーブなんですよね?」
那須原も笑いながら笹賀谷をいじる。
「まあ、俺は葵よりは相当ナイーブだよ。当たり前だろ!」
笹賀谷もふざけ半分で言い返す。
「でも、那須原も相当なもんだな。逆にビックリだよ」
「いえいえ、ササ先輩に言われても有り難くありませんよ」
那須原は悪ノリする。
すると、今度は田万川が少し真面目な口調で尋ねた。
「気付いてたの?」
那須原はややテンションを抑えて答える。
「なんとなくですけどね。休み明けて、ちょっと雰囲気が変わっていたので……ササ先輩以外」
「……ササ先輩以外」
葵はそのフレーズがツボに入ったらしく、クククと笑いを堪えながら繰り返す。
「ササは中学のときからそんな感じだったからな。ま、それが良いところではあるが」
すると、嵩間も駄目押しをする。キラキラと無駄に良い笑顔だ。
「そう言えば、小学校のときもそういうところあったよね。不思議」
「そうか、じゃあこれはもう一生治らんな」
葵は、先程までのどこか不機嫌そうな感じは完全になくなり、まさに絶好調だった。
それからしばらくは、ただ馬鹿なノリで会話が続いていった。新聞部の部室には定期的に笑い声が響き渡る。
笹賀谷には、それが互いの関係を認めあうための、一種の通過儀礼であるように感じられた。だいぶ馬鹿にされた気はするけれど、この空間を共有していられるなら不満など微塵もなかった。
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