邂逅の夜 -06-


本牧ほんもく埠頭ふとうだ」

「本牧埠頭……か」

 磯井はナビを操作して俺の告げた目的地を表示しようとする。

「AからDまであるようだが?」

 半島のように東京湾に突き出している本牧の北岸、すなわち横浜港に面した地区には、いくつもの埠頭が並んでいるのだが、その中でも最大規模を誇るのが本牧埠頭だ。ベイブリッジの橋脚が足を下ろすA突堤とっていから、市の中枢から離れるように東に向かってD突堤まで。B突堤とC突堤の間の海は埋め立てられ、一体化されているので、地図に表示されるのは三つの出っ張りだ。

「これだ」

 頭に思い浮かべている目的地のアルファベットは定かではないので、マップを直接タッチする。D突堤と表示される。

「こんなところに? 行ったことあるのか?」

「まあな」

 通常、埠頭は一般市民が近づくようなところではない。夜の工場地帯をクルージングしながら楽しむのが密かに人気を博しているようだが、それも海側から眺めるに過ぎない。岸壁のガントリークレーンの見ごたえは否定しないが、コンテナばかりの倉庫街については散策しても楽しくないだろうし、安全性の観点からも望ましくない。

 ただ、その中でも例外的なのが、本牧埠頭D突堤だ。整列する埠頭の中で一番端に位置し、東側は開けた東京湾。その立地を活かし、横浜港や東京湾を一望できる横浜シンボルタワーや海づり施設などが整備され、横浜の穴場スポットとなっているのだ。コンテナターミナルと背中合わせなので、大型のトレーラーも行き交うが、同時に市民に憩いの場を提供している面白い場所である。

 以前、唐突に釣りをしたくなって調べたところ、近場で釣りが楽しめるという情報を得て足を延ばしてみたことがある。行ってみると、意外と良いものが釣れるようだったのだが、田舎と都会の釣りの違いには注意する必要がある。休憩室や食堂など至れり尽くせりのサービスと手軽さの代償として、しかるべき料金設定と人の多さは受け入れなければならない。

 しかし、今は釣りをしに行くわけではない。用があるのはむしろコンテナターミナルの方だ。

 夜間人口が極端に少ないみなとみらいではまだどうにかなったが、人が普通に歩いているところで無茶はできない。そう考えると、人がいなさそうで、道が広く、しかも隠れる場所も多くありそうなコンテナ埠頭というのは、この状況におけるベストな選択となってくる。

 ここも他の多くの埠頭と同様、夜間の一般車両進入は禁止ということになっていると思われるが、実は知る人ぞ知る抜け道が存在している。日中は一般車両についても特別な制限がないので、進入禁止の時間になっても一般車両が出てくる可能性があり、そのために埠頭のゲートは、進入禁止の看板を掲げた上で、完全に閉じられることはない。

 そもそも、わざわざこんな僻地にやってくる人は少なく、過去にさしたる問題も発生していないことから、表向きは禁止になっていても夜間の侵入ルートは部分的に確保された状態になっているのだ。ただし、そのルートは非常に分かりにくいので、知らなければまず間違いなく見落としてしまうだろう。

 しかし、今はその分かりにくさが大きな利点となる。うまくそこに潜り込めれば、追手を完全にまくことができるだろう。万が一、そのルートが探り当てられた場合にも、時間を稼げれば倉庫街で身を隠すことができる。地の利はこちらにあるはずだ。

 無駄な徘徊癖が思わぬ活路につながりそうで、世の中分からないものだなと思う。むしろ、これで本当に逃げ切れたら、無駄とも言えなくなってくる。

「それにしても、こんな時間に随分と混んでるんだな」

 磯井が言う。確かに、深夜にしては車の流れが悪い。

 車間距離を気にしながら低速で進むと、路肩にカラーコーンが現れた。赤いライトが点滅する。

「工事か?」

 背筋を伸ばして車列の先を見ようとしている磯井が言う。その方向には、強い白色光が灯っていた。

「そうか……」

 俺は、そこでようやく混雑の理由に思い当たる。

「山下埠頭の再開発工事の影響だ」

 車が巨大な電光掲示の横をすり抜ける。車線規制と速度制限に関する情報が強調されている。

 左手に続いている山下公園は、その東端が山下埠頭の根元にあたる。山下埠頭は、目指す本牧埠頭の西、つまり現在地から見れば手前に位置する埠頭で、時代の流れとともにその役割を後発の大規模埠頭に譲ってきた。港湾輸送の役目を譲って残ったまとまった土地は、住宅街から離れている割に、交通アクセスが良いという立地を活かし、横浜の大規模再開発の対象となっている。再開発事業が完全に終わるのはまだ先だが、本格的な工事はすでに始まっており、来年には山下公園に近いエリアが部分的にオープンすることになっていた。

 その一連の再開発に伴い、重要なアクセスポイントである山下橋交差点付近も再整備が進んでいるのだ。そして、今進んでいる道は、まさしくその山下橋交差点を通過しようとしている。そこを直進しないと本牧埠頭には辿り着かない。

 交差点に近づくにつれ投光機の数が増し、あたりはナイター球場のようになってくる。ライトが点滅する安全ベストを着用した人が、やってくる車両を捌いていく。

 車線規制を行い、パワーショベルが地面を掘り返している。確かにこれを日中にやったら大変なことになるが、今の状況を考えると、あまり悠長に構えていられない。

 前方の数台が交差点への侵入を許可されゆっくりと前進する。しかし、メルキュールの目の前で赤い誘導棒が下ろされる。車列の先頭になった俺の車の周りでは、何人もの誘導員がレシーバーで連絡を取り合いながら深夜労働に勤しんでいた。

 仮のアスファルトに仮の白線。そこにフェンスとカラーコーンと電光掲示が大量に配置されていた。自動車教習の練習コースを最高レベルに設定したようだと思った。どこをどう通れば良いのか全然分からないが、だからこそこれだけの誘導員が配置されているのだろう。

 交差点内に巨大な工事用の車両が入ってきた。何度も切り返しをしながら、進行方向の視界を遮る。困ったことに、すぐにはどいてくれないようだった。

「Uターンするか」

 前方左側にフェンスが切れて広くあいているスペースが見えたので、誘導員に声をかければUターンできそうに見える。磯井が後方を確認する。

「戻ることはできそうだが、あれの真横をすり抜けていくことになるぞ」

 まだそんなに近くにいるのか……。

 来た道を戻る場合、車一台がギリギリ通れそうな路肩を低速で抜けていくことになるが、その状況でブラック・アメーバの横を通るのは、ありえない選択肢だと思えた。当たり前のことだが、可能な限りの距離をとっていたい。

 ――コンコン。

 不意に背後の窓ガラスを叩く音がする。意識が逆方向に向いていたため、ドキッとする。

 外には誘導員が立っていて、車の後方を気にしながら、パワーウィンドウを開けるようジェスチャーしている。

「どうかしましたか?」

 俺はウィンドウが下がり切る前に尋ねる。騒々しい重機の音に紛れて聞き取りにくいが、この車の後部を気にしている。

 背後の投光機が眩しく、目を細めながら耳を近づける。誘導員が言わんとしていることをどうにか聞き取る。車の後部が激しく損傷しているということを伝えようとしていたようだ。それは、みなとみらいで磯井をピックアップしたときブラック・アメーバにアタックされたものだろう。

 やはり、かなりの損傷になっているのかと思い、少しばかり気分が沈む。しかし、今はそれどころではなかった。

 俺は誘導員に、知っているし問題はないと伝える。

 しかし、誘導員は引き下がらなかった。本当に凄いことになっているから、一度しっかり確認した方が良いと言う。

 目の前では、交差点の真ん中で方向転換に手間取る巨大な工事車両。ここに来て、進路を妨げるネガティブな要素が噴出してきたように思えた。

 その誘導員は周囲の他の誘導員にも声をかけ、俺の反論を余所よそに、誘導灯を回転させメルキュールを前方左の空きスペースに連れて行こうとする。

「加佐見、これは行くしかない」

 確かに、これ以上刃向かっていたら後ろからクラクションを鳴らされかねない。どの車もこの状況にイラついているはずだ。ここで事を荒立てるのは良くない。

 アクセルを浅く踏んで、ゆっくりと車列を離れていく。フェンスの切れたその先に入っていく。

 それまでいた位置からでは見えなかったが、そこは意外と広いスペースが取られていた。投光機が向けられていないので、少し暗がりとなっているが、逆に目立たなくなって好都合である。

 メルキュールが停車すると、誘導員たちはその場を離れた。車列を統制する人出はギリギリであるようだ。あとは勝手にしろということなのだろう。

 俺は各種メーターの値を改めて確認する。すべて正常な値だった。

 わざわざ脇に寄せさせられたところをみると、恐らくかなり派手に損傷しているのだろうが、それでも致命傷ではないはずだ。そのことを考えると、今、車外に出る気にはなれなかった。

「加佐見、あそこ、抜けられそうじゃないか?」

 磯井が指差す方向は、本当に真っ暗だったが、目を凝らすと道が開けていた。恐らくは、山下埠頭内の再開発事業中エリアに通じているのだろう。とすると、これは工事用車両の通り道だろうか。

 ルートの奥の方には、コンテナの片付いた埠頭の倉庫街が見えた。このあたりは、まだ本格的な工事が始まっていないようだ。しかも、人の気配はない。

 俺は、周囲に誘導員がいないか確認する。幸い、交差点の調整難航により、みんな出払っているようだった。近い所には一人も見当たらない。

 これは好機だ。行くしかない。

 ヘッドライトをつけないまま、人が歩く速度よりも遅く車を進める。フットブレーキを踏まないよう注意する。闇はどんどん深くなり、埠頭の出入り口が近づいてくる。メルキュールは、闇に溶け込んでいく。

 ベイブリッジや対岸の大黒埠頭の灯りで浮かび上がる、放棄された倉庫街のシルエット。淡い錆色の空と際立つ黒のコントラスト。匍匐ほふく前進するように黒の世界を目指す。

 開かれたゲートを通過する。暗がりの中、障害物に注意を払いながらハンドルを切る。道路からの死角に入り込む。

 息が詰まるような緊張感からは解放される。しかし、ブラック・アメーバが状況を察知して追跡してくれば、すぐに追いつかれてしまう。より安全な場所に退避したかった。

 倉庫街は奥の方まで、見える範囲で人の気配はなさそうだった。アスファルトもそのままで、この暗がりでも走行に支障はないように思われる。

 一通り確認した上で、車を進める。一応死角になっているはずなので、先程よりスピードを出す。この広い埠頭で、人が歩くような速度では気が遠くなってしまう。

 倉庫街が始まり、より建物が密集する通りに入って行く。相変わらず人の気配はない。道路からもかなり離れて、背後も完全な闇になった。空は広大な宇宙を漂う星雲のように赤茶けていて、地上にあるものはすべて黒かった。見事な闇で、横浜港に突如現れたブラックホールのように感じられた。

 真っ直ぐに続く直線道路。ブラックホールを貫くハイウェイで、アクセルを踏み込む。こんな果てまで追手が来るとは思えない。両側に続く直方体の建物をすり抜けながら、高らかに勝利宣言を―――。

 そのときだった。

 視界の右から巨大なコンテナ車が交差点に突入してきた。暗がりの中、無点灯で突っ込んできたので、まるで直方体の建物の一つが動き出したようにも見えた。

 交差点の角の建物の壁を擦るくらいギリギリのところから現れたので、視界にとらえたときにはすでにかなりの至近距離。見る間に巨大な車体が接近する。

 コンテナ車は急ブレーキをかける。車体の軋む音が響き渡り、メルキュールの進路を防ぐ形で動きを止める。続いて、慣性運動を続けるコンテナ部分が、運転席に追突するようにして止まる。

 こちらも巻き込まれてはかなわないと急ブレーキをかける。同時に、ハンドルを右に切り、どうにか正面から突っ込むことだけは避けようとする。その時点で、フロントガラスからコンテナの塗装の劣化が分かるほどの距離。直後、左側面が接触し、身体に直接響く衝撃を受ける。

 結局、コンテナ車の側面を激しく擦って止まった。素早く助手席を確認する。窓ガラスにひびが走っているが、車内まで届くほどの損傷ではないようだ。

 ただ、ここで止まっているわけにはいかない。ギアをリアに入れる手間も惜しんで、再びアクセルを強く踏み込む。建物の壁面をかすめて急ハンドル。来た道を戻ろうとする。

 しかし、すでに追跡者の黒い車体は迫っていた。そして、さらにその背後ではもう一台の巨大なコンテナ車が通りを塞いでいた。逃げ道は完全に潰された。

 深夜の派手な鬼ごっこもここまで。万事休すか。

「参ったな。結局、相手の思うつぼだったってわけか……」

 磯井が観念したように言う。勝負事に異常なこだわりを見せ、往生際の悪さに定評のある男が、やたらと物分かりの良い言動。そのことに対し、嫌味をぶつけたい気がまったく起きないわけでもないが、ここでその行動は得策でないと判断する。

 的確すぎる追いこみ。進路を制限され誘導されていた感触があまりないことを考えれば、これはあまり単純な話ではないとも思う。

 しかし、ここでは簡単な推理を披露する代わりに、助手席の腐れ縁に短くおどけておく。

「そんなことより、俺の車の有り様の方がよっぽどショックだ」

 今まで擦ったことすらなかった愛車が、小一時間で満身創痍。本当に、勘弁してくれ。

 そして、いよいよ完全に逃げ道は失われた。故に、いま取り得る選択肢は二つ。

 全力で悪あがきをするか、居直って運任せか。

 とりあえず、運命共同体である磯井にも意見を聞く。

「悪あがきする?」

「いや、意味ないだろ」

 珍しく意見が合った。これはもう、平和に慣れた一般庶民の敵う相手ではない。

 俺は磯井の方は見ずに、外の様子を注視する。激しいカーチェイスを繰り広げたブラック・アメーバが、先程までとは打って変わって、安全運転で近づいてくる。

 俺はそれを見ながら、両手を組んで後頭部にあてる。なお、これは降参のポーズではない。しばしの休憩のポーズだ。アドレナリンで沸騰していた血液を冷ますためのルーチンワーク。

「来たな」

 俺は他人事のように言う。なぜか、身の危険などこれっぽっちも考える気にならない。

「そうだな」

 磯井も他人事のように答える。

 黒い車は、一車線ほどの距離をあけて静かに停止した。そして、運転席と助手席が同時に開き、その両方から黒いスーツの男が出てきた。

 大人がスーツを着ていることをいちいち気にする必要もないのかもしれないが、よくあるドラマや映画のワンシーンを思い出し、生で見るとこれはこれで面白いなと思った。非日常的なシチュエーションに、静かに興奮している自分がいることに気が付いた。

 待つことにもどかしさを感じた。俺は当たり前のように車のドアーを開き、外に出た。磯井も一瞬戸惑いはしたが、同じように外に出た。外の空気が、馴染みの匂いだったのが妙に可笑しかった。

「こんばんは」

 とりあえず挨拶をする。闇と向き合うための儀礼として。

「こんばんは」

 すると、向こうも挨拶を返す。案外普通だなと思った。

「ご用件は何でしょうか」

 巨大なオフィスビルの受付担当者のように、失礼のないように、それでいて私的な感情を一切出さずに尋ねる。

「あなた方に会いたいという人がいるので、お迎えにあがりました」

 見た目に似合わぬ柔らかい口調で要件を述べられる。



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クリーチャーズ・フィールド 須々木正(Random Walk) @rw_suzusho

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