邂逅の夜 -05-


 一瞬だけウインカーを光らせ左折する。〈キングの塔〉として知られる神奈川県庁を右手に眺めながら、海岸通りを県警から遠ざかる方向に進む。大さん橋の付け根に相当する開港広場前の交差点を通過する。四方向から左にカーブしながら合流する特徴的な交差点は、漢字のまんじをひっくり返したようになっていて、直進でもハンドル操作が求められる。

 それを越えると、メルキュールは本牧方面を目指す直線区間に入る。マリンタワーの向こう、首都高の高架下まではほぼ一直線。その間、左に山下公園を臨みながら、立派なイチョウの並木が続いていく。

 バックミラーの中の薄暗い世界では、無秩序に見えていた光の粒が直線的に並ぶ。暗い水槽の中を明確な意図もなく漂うプランクトンが、発光し軌跡を残しながらも、なぜか幾何学的な図をなすイメージ。当然、実際にそのようなことが起こる確率は、天文学的なものであり、有限の命である我々がその瞬間を目撃するチャンスはまずないだろう。しかし、夜の街は、現実と仮定の境界を曖昧にする力を持っていた。

 そうして立ち現れたリアルの光の筋を目で追う。同時に、見つけたくないものを見つけてしまう。間に何台か挟んでいるので、かなり小さい。確認のため磯井にも見てもらう。

「たぶん間違いない」

 まだついてくるのか……。まったく同じ車だと断定することはできないが、同じ目的を持つ車だとは考えておくべきだろう。不思議と恐怖感は少ないが、代わりに疲労の度合いは甚だしい。

 せめてもの救いは、ブラック・アメーバが、周囲に人の目があるところでは交通法規を遵守してくれていることだ。よって、片側一車線の道路でここまで追い付くことは容易ではないだろう。しかし、この区間も長くはない。次の手を考える必要がある。

「さて、どうしたものか」

 車の流れがスムーズではないので、順番に信号に引っかかっていく。故に、背後に追手の気配を感じる状況ではあるが、人心地つく。焦っても良いことはない。普段の自分のリズムを取り戻すための時間だと考え、同時に状況整理、現状分析を進めることとする。

「しかし、相変わらず派手なことが好きだな」

 俺は、嫌味に聞こえないような口調を意識して、深く息を吐きながら助手席のトラブルメーカーに話しかける。すべての靄が晴れて状況が明らかになるまでには、まだ必要なステップがいくつもありそうだが、それでも今ここから手をつけるというのは妥当な判断だろう。

 磯井の様子を窺う。ここまでの状況はさすがに凄いが、それでも方向性としては昔から同じ。なんでそうなったと思わず聞き返したくなるような状況にしばしばはまる男だ。

「今回は俺のせいじゃないだろ……」

 じゃあ誰のせいだ? 思わず口を衝いて出そうになった言葉を一旦飲み込む。これを言うと、会話はロクな方に流れていかない。そんな手間をかけるほどの余力はない。

 言葉を飲み込み、沈黙が流れる。情報を取り込み、思索が始まる。

 それにしてもだ。たった一人を追いかけるのに、ここまでの労力を払うというのは驚きである。明らかに異常であり、不可解であり、非論理的、非合理的、理解に苦しむ。

 にもかかわらず、状況から推測するに、これらは衝動的行動ではなく、計画的行動。人が何らかの理屈に沿って考えた末に選択された行動。でも、肝心の理屈については、糸口すら掴めない。ならば、直感を呼び覚ますのもいい。

 直感的に見る。可能な限り考えないよう、論理を廃して認識し直す。薄暗い森の木々に絡みつくつたの行きつく先を追うのは少しやめにして、森の囁きであり、湿り気であり、匂いを感じとることに集中する。漂う空気に混入する、違和感の輪郭を際立たせたい。

 一連の流れ。違和感。そう、違和感だ。形はまだ見えない。ただ、そこに確かに違和感がいる。薄暗い森の中に、姿を見せない違和感が。

 こちらには弁解の余地も投降する機会も与えられない。有無を言わさず……。有無を言わさず、何だ?

 有無を言わさず殺す? いや、どうもしっくりこない。これを平和ボケと言われれば身も蓋もないわけだが、そういった要素を取り除いても収まりは悪い。通常より多めに分泌されているアドレナリンだけの仕業とも言えない。言葉遊びで誤魔化して見落としてはならない何かを感じる。

 大変に不謹慎極まりない考え方だが、ここまでのことをするくらいなら、他の策はいくらでもあると思う。深夜のみなとみらいは、人通りが極めて少ないし、正義心や道徳心さえ黙らせておけば、具体的にいくつもの案を選択できたはず。そして、そのどれもが、これほどの執拗な追跡劇より遥かに穏便にスマートに事を運べるように感じる。

 それならば、他にどのような可能性があるというのだろうか?

 不意に、テールランプの赤が目に飛び込む。その色は人工的で面白みに欠けるが、視神経を辿り脳内に到達し、一つのトリガーとなる。神経ネットワークに微弱な電気を流しながら、類似点を持つイメージを喚起する。

「あ」

 重要なことを思い出した。無力な一般市民が窮地に陥ったとき、最優先してやるべきこと。国家権力を召喚する魔法のコード。

「磯井、警察……」

 この異常事態、警察に助けを求めることが第一だろう。県警本部に辿り着けなくなった時点で、一緒くたに失念してしまっていた。そもそも、磯井を拾った直後に一一○番をコールすべきだった。

 助手席の磯井に電話をかけるよう促す。しかし、磯井の返答はない。反応が薄い。

「磯井?」

 磯井の方を横目で見ると、人差し指を口の前に立てる仕草。どうかしたのか?とアイコンタクトで伝える。磯井は助手席の足元に手を突っ込んで何かを探っている。落としたコインを拾おうとするように。

 座席の下でべりっと音がすると、磯井は手を出した。その手には、ジッポーライターのような大きさの箱みたいなものが乗っていた。しかし、もちろん火はつきそうにない。その代わりにオンオフを切り替えるスイッチと、小さな赤いランプ。何なのかよく分からないが、とにかくそれが、両面テープのようなもので座席の下に貼り付けてあったようだ。

「盗聴器みたいだ。このサイズだと、ボタン電池か何かで動くやつか」

 磯井が声をひそめて言う。疑惑の物を両の掌でしっかりと包み込み、こちらの会話は聞きとられないようにしながら。

「オフにするか?」

 磯井の問いに逡巡し、答える。

「窓から捨てよう」

 助手席のパワーウィンドウを開く。車内に港の風が吹き込む。風の音の中、カツンとアスファルトに跳ねる音がする。パワーウィンドウを閉じる。

 車内が再び静かになったところで、遅れて驚きの感情が湧きあがる。

 なぜ俺の車に……盗聴器?

 確かに、俺と磯井の付き合いは長いし、お互いのことをそこそこよく把握している間柄であるのは事実だ。しかし、それほど頻繁に会っているわけではない。そして、磯井をこの車に乗せた回数も片手の指で数えられる程度のものだ。この車は基本的に一人でしか乗らない。この車に盗聴器を仕掛けたところで、磯井の情報源としては明らかに的外れだと思える。

 話に整合性がない。ならば、仮定に誤りがあったのかもしれない。

 つまり、これはただ単に磯井だけを狙った計画的行動ではないということになる。もっとはっきりと言い換えれば、ということになる。

 確かに、結果論として今ここに磯井がいるわけだから、狙ってやったという可能性も排除できない。ただ、その場合には今晩のここまでの流れをほぼ完璧に予測していたことになるし、かなりの情報量と洞察力を持っていることになる。そして、結局は俺も同時に狙われるという話に変わりない。

 つまり、素直に受け入れたくはないが、俺自身も何らかの形で奴らの計画に組み込まれているわけだ。登場人物として、俺の意思とは関係なくステージに祭り上げられている。

「とりあえず、ロクなことにはならなさそうだな」

 磯井は何も答えない。俺も答えを求めない。

 直線道路の単調なハンドル操作。滑走路の誘導灯のようなライトの連なりだと思う。今アクセルを踏み込めば、あの空に浮き上がっていけるのだろうか?

 現実のメルキュールのアクセルは踏まれない。代わりに、思考を加速するアクセルが、静かに、しかし深く踏み込まれることとなる。現実世界と肉体感覚の摩擦は減り、タイヤがアスファルトを押しつける力が弱まる。

 気持ち悪いほど穏やかになっていく慣性に誘われ、呼ばれるように視線を上げていく。ナトリウム灯の色を含み、やや赤みがかった黒。湾岸のいつもの空だ。

 それこそ、この夜の空に逃げることができたらどんなにラクだろうか。せせこましい平面世界にへばりついて生きることを強いたのが神様だというのなら、まったくもって恨めしい限り。

 フロントガラスから見える横浜の赤暗い空を浮上していくメルキュールを想像する。これで次元転移装置を搭載していれば、一気にタイムトラベルと洒落込みたいところだが、そんなものを発明してくれる天才科学者はいまだ現れず。あきらめて夜の空中ドライブを楽しむことにしよう。


 ――君はあの映画が好きだったね。


 ああ。あれは傑作だよ。だいぶ昔の作品だけど、全然色褪せることがない。


 ――今の状況も中々の傑作になってきたと思うが、ワクワクしているかい?


 まさか。ああいうのは、フィクションだから良いんだよ。


 ――ところで、君はどちらなんだろうね。


 何が?


 ――科学者の発明したタイムマシンに翻弄される主人公か、主人公を翻弄するタイムマシンを発明する科学者か。


 できれば、映画館のシートでポップコーンとコーラを抱えて見入る気楽な客の一人でありたいね。


 ――気付いているんだろう? その願いは、すでに暗い海の底に投棄された。


 まったく……まったく悪趣味なシナリオだ。


 ――先程の質問についてだが、よくよく考えてみると、君は物凄く半端なところにいるね。笑えるくらいに。だからこそ、この問いには興味をそそられるわけだが。


 ミニチュアの湾岸地帯を眼下に、錆色の薄靄をかき分け夢想のドライブは続く。横浜港の象徴たるベイブリッジは、大黒埠頭の渦に巻き込まれ二つに引き裂かれる。生麦方面と扇島方面に道を分かつこととなる。


 ――それでは、ついでにもう一つ。ありがちな質問ではあるが……。


 面倒と思わなくもないが、なぜだか妙に気分が良かったので、聞き届けることにする。質問に言葉という肉を与えることを良しとする。

 すると、不意に鼓膜を飛び越え、脳髄に問いかけられる。


 ――タイムマシンに乗れたなら、過去と未来、どちらに行きたいのだろう、君は?


 突如、激しい悪寒が背を駆ける。アスファルトに触れていない不安定な車体が上下に揺れた瞬間、遠くの街明かりだけを捉えていたはずのバックミラーに影が映る。

 それは、一瞬のことだったため、姿を正確に捉えることはできなかった。ブラック・アメーバだと思ったのだが、そうではない気もする。なぜだか、もっと捉えどころのない何かが背後にいるような気がした。

 センサーで物理的に見つけることのできない何か。生物が生物であるが故に、すなわち、生きることを無条件に盲目的に求める存在であるが故に持っている安全装置だけが無意識下で察知する何か。周囲に張り巡らせた細い糸のうちの一本に、その何かは確かに触れた。

 直感が舞い降りる。

 俺は今、ブラック・アメーバから逃げているわけではない。もっと、とてつもない何かから逃げている。あの黒い車は、その尖兵に過ぎないのだ。

 直感は理屈を求めず、いつの間にか確信に変わっていた。事態の切迫度が皮膚に焼けつくような感覚となり、思わず表情を歪める。

「本気で逃げよう……」

 俺は夢想の空中ドライブを切り上げ、地上に帰ってきて口を開く。ハンドルを握る手のぬめりとは反対に、喉はカラカラになっていて、声が少しかすれてしまう。

「ああ」

 助手席の磯井は僅かに不審の眼差しを向ける。今さら何を言っているのか?という感じだろうか。

「それで、どこに逃げるつもりだ?」

 磯井は行き先を尋ねる。




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