邂逅の夜 -04-


「ハァハァハァ……助…カ……。ハァハァ……ハァ……」

 磯井はすぐにしゃべり始めようとするが、息が切れてそれは叶わず。一刻も早く状況を知りたいが、とりあえず今はこの場からの退散を優先する。

「シートベルトをしておけ」

 汗で貼りつくスーツと全力疾走による乳酸のせいで、磯井は動きづらそうに見える。隣から熱気が届き、明らかに車内の温度が上昇している。

 しかし、回復を待つ余裕はない。荒い息に混ざって、シートベルトのバックルがガチャっと音を立てる。

「とりあえず――」

 まだ多少呼吸が乱れているので、一息。

「――ありがとう。助かった」

 磯井は、燃料の残量表示を見ると、後ろを気にし始める。貼りつくスーツとシートベルトに四苦八苦し、息苦しさに顔をしかめながらも身体をよじる。

「後ろ……グシャった気がするけれど、大丈夫か?」

 暗いせいかもしれないが、バックミラーを見る限りで異変は見られない。ここで振り返っても状況はよく分からないだろう。

 この車は、車名を〈メルキュール〉という。従来型のガソリンエンジン車と違い、圧縮した水素を積み、その燃焼によって起こした電気で走行する燃料電池車に分類される。

 燃料電池車は、一般向けに販売を開始してからまだ十年も経っていないが、政府が戦略的にサポートしているため、普及ペースは上々。特に、都市部を中心とするいくつかのエリアでは、普及の肝となる水素ステーションの設置が進んでおり、その点で不便を感じることはなくなってきている。みなとみらいを中心とする横浜臨海エリアも、当初から重点整備地区に指定されていたので、すでにかなりの数のステーションが存在している。

 ただ、そんなふうにしてあまり珍しくなくなってきたものの、燃料電池車が事故に絡むと必要以上にドキリとする人は、まだかなり多いと思われる。

「水素が爆発しないかってことか?」

「まあ、そんなところだ。取り扱い注意だろ?」

「大丈夫だろう。水素タンクより俺たちの方がひ弱だ。俺たちが潰れていないんだから、タンクは無事だ」

 細かい説明を始めると長くなるので感覚的に伝えるが、おおよそ間違っていないはずだ。

「そんなもんか」

 磯井はとりあえず納得して、シートに身を預け正面を見る。

 約八十年前に起きた飛行船ヒンデンブルク号の爆発事故に代表されるように、水素が爆発と結びつきやすいのは紛れもない事実で、その反応性は極めて高いと言える。しかし、そんなものはメーカー側だって百も承知で、何重もの安全対策が施されている。タンクそのものの強度も非常に高いレベルだし、そもそも純粋な水素を充填しているため、いきなり爆発するようなことはない。水素の爆発には、酸素との混合という過程が必須だからだ。

「そんなもんだ。ノーダメージってことはないだろうけれど、現状、致命傷ではない」

 フロントガラスのデジタル計器パネルも、差し迫った危険を示す情報は提示していない。充填率も安定している。

 俺はアクセルを深く踏み込む。そのまま一気に資材置き場を脱出し、速度は落とさず出会う交差点で右へ左へ急ハンドルを繰り返す。道路は広いのに交通量は極端に少ないエリアであることに感謝して、ウインカーなしの信号無視。投げ出されそうなほどの遠心力。

 車名の〈メルキュール〉とは、〈水星〉を意味するフランス語だ。英語で言えば、〈マーキュリー〉となる。運転中に排出されるのが、無害な水蒸気のみである点を強調したいというのが、命名の理由の一つであることは明らかだが、実はそれだけではない。

 さらに語源を辿ると、俊足の神〈メルクリウス〉に行きつくことも考慮されているらしい。この車種が、燃料電池車の中でも、特に走りの質にこだわっているという点をアピールしているのだ。事実、生身の身体に直接受ける遠心力と比して、車体の安定性に一分の綻びも感じられなかった。

 人気ひとけもなければ、車もほとんどいない、さびれたレーシングコース。そんなものをイメージしつつも、結局はただのオフィス街であり、ゴールド免許が大声をあげて泣き出しそうな運転である。しかし、ようやく訪れた本領発揮の機会に、車は喜びのビートを刻んでいるように思える。補助金フル活用で手に入れたとはいえ、短い通勤だけで使い潰すのは不憫というもの。

 左に急ハンドルを切りながら、ようやく本日のホットな話題に触れていく。

「で、結局のところ、これはどういう状況だ?」

 アクセルを深く踏み込む。モーターの唸り声。

「いや……俺にもよく分からない」

 静かに吐き捨てるような口調。唐突に降りかかった不運に苛立ちを隠せない様子とでも言えば良いのだろうか。

 バックミラーには、かなり距離があいてきたものの、しつこい追跡者のヘッドランプが光る。磯井もバックミラーを見ながら続ける。

「会社を出て、いつも通り自転車で帰宅しようとしたら、明らかに怪しい男たちに囲まれて……」

 右に急ハンドル。わずかに横滑りしながらも右折。マンホールの蓋がキュっと音を立てる。

「おっかないから、全力で自転車こいで逃げようとしたら、今度はあの黒い車が追いかけてきて……」

 撒けたかと思ったが、少し間があいてバックミラーに姿が現れる。

「自転車を乗り捨てて、資材置き場に逃げ込んだわけ」

 このあたり一帯は、街全体がきれいに区画整理されているので、細い路地などというものはない。道路も歩道も広く、死角はない。果たしてどうすれば逃げ切れる? とりあえず、このエリアからは離れるべきなのか?

 国際橋を渡りながら、一瞬だけ視線を上に滑らす。コスモワールドの観覧車が〇時十三分を表示しながらきらめいていた。本来なら帰宅してシャワーでも浴びているはずの時間。

「つまり、さっぱり分からないということか」

 車内の数秒間の沈黙を見計らって、話をまとめておく。

「だから、最初にそう言っただろ」

 ただし、さっぱり分からないとは言うものの、ほぼ明らかな部分もある。つまり、これは磯井を狙った計画的行動であるということ。しかも、怪しい男たちということなら、向こうは複数人だ。

 対して、本当にさっぱり分からないのは、相手方の目的だ。磯井はどこかで恨みでも買ったのだろうか。急激に顔が広くなってしまったため、可能性も膨れ上がっている。容疑者のリストアップですら、容易な作業ではない。メディアの露出が増えた身である以上、匿名性の壁の向こうに隠れた膨大な人影に紛れている可能性は排除できない。

 落ち着いて考えを巡らせる間もなく、次の大きな交差点が近づいてくる。ここが新港地区の中心部であり、上にはサークルウォークと呼ばれる大きな楕円形の歩道橋が見える。き出しの鉄骨に防錆処理を施した特徴的な構造物は、明治日本の文明開化をイメージしてのものだろう。すぐそこにある赤レンガ倉庫とあわせ、開国の地を演出している。

 ここで左折すると突端から暗い海に向かうことになりかねないので、実質的に選択肢は二つである。すなわち、直進して新港橋を渡るか、右折して万国橋を渡るかである。

 脳内にカーナビよりも詳細な地図を思い浮かべ、安全地帯を探す。すると、火事場の馬鹿力とでも言えそうな集中力が発揮され、文句なしの目的地がヒットする。

「県警本部に行こう」

 神奈川県警本部は、島となっているこの新港地区の対岸に位置している。この状況、むしろ始めから警察を頼るべきだっただろう。

 距離的には、新港橋、万国橋のどちらを経由してもそれほど違いはないだろう。ただ、万国橋から海岸通りに入り東進した方が、反対車線を跨がず左折して県警に飛び込めるので、少しばかり好条件だ。

「右折するぞ。掴まっとけ」

「加佐見、ちょっと待て!」

「え?」

 磯井の突然の制止に右折のタイミングを逸してしまう。車は直進し、すぐにライトアップされた赤レンガ倉庫が見え始める。

「どうしたんだ?」

「いくらなんでも不自然じゃないか? 車が……」

 磯井は、座ったまま窓の外に視線を流す。すぐに磯井が言わんとしていることに思い至る。

「確かに、車が少なすぎる。というより、動いている車が他にない」

 みなとみらいは、居住者が絶対的に少ないこともあり、観光客が家路につけば実に寂しいことになる。しかし、それでも少なすぎた。見渡す限り、走行している車が一台も見当たらない。

「国際橋を渡ってから一台も見ていない」

 新港地区は、国際橋、新港橋、万国橋と、歩行者専用の汽車道でのみ周囲との行き来が可能な、全方位を水域に囲まれるエリアだ。この状況、追う者と追われる者のどちらに優位かと言えば、当然追う者である。車が通れるルートはたった三つであり、追跡者がいることから来た道を戻る選択肢は消されるため、結局のところ二つのルートに絞られてしまう。とすると、相手の人員にもよるが、普通に考えれば、ここから逃さず仕留めることを考えるだろう。新港地区が島と呼ばれることはあまりないと思うが、それでも地形的には完全に島となっているのだ。これ以上にない地の利である。

「ヤバいな。本当に車がいない。まさか、橋を封鎖しているのか?」

 県警本部は目の前だが、交通量の少なさを考えれば、短時間の封鎖は可能かもしれない。道路工事の看板でも出して通行止めにしてしまえば、ほとんど何の混乱もなく、しかも警察に察知されることもなく、狩り場をつくることができる。

 この狭い島内で、隠れてやり過ごすことができるとは到底思えない。ならば、脱出しなくてはいけない。

「おい、あれ……」

 磯井が前方を指し示す。対向車線から二、三台の車がやって来る。中央分離帯を挟んでいる安心感から状況を静観するが、どうやら一般の車のようだった。

「封鎖は考え過ぎだったか」

 確率的に十分起こり得る事象に、必要以上の論理性を求めた結果だろう。神経質になって視野が狭まっている可能性がある。注意しなくてはならない。

 バックミラーから消えた追跡者の姿を確認し、用心しながら速度を落としていく。この先は、交通量も増してくるので、法定速度を無視することはできない。

 新港橋を渡りながら、街灯を反射する水面の向こうに県警本部を確認する。

 それから視線を前方に戻すと、〈クイーンの塔〉の愛称で知られる横浜税関が見えてくる。関東大震災で倒壊した庁舎は、緑青ろくしょう色のドームを頂くシンボリックな建築物として生まれ変わり、親しまれるようになった。足元からライトアップされ浮かび上がる姿は、クイーンの名にふさわしい気品を感じさせる。

 象の鼻パークが隣接する緩い右カーブの先に、横浜税関前の信号機がある。それを右折すれば、すぐに県警本部に辿り着く。赤信号、停車。指がハンドルを小刻みに叩く。バックミラーを確認し、周囲の車列、歩道に目を凝らす。車外のすべてを見逃すまいと、集中力を限界まで引き上げる。同時に、観測対象が格段に増したことで、かかるストレスが急上昇してくるのを感じる。

「加佐見……」

 磯井が、俺の座る運転席側の窓ガラスの向こうを見ながら目を細めている。

「どうした?」

「あそこに止まっている車……」

 俺もその方向を見る。ちょうど県警に向かって右折したところに、路肩駐車している黒いハッチバック車がある。間違いない。先程のブラック・アメーバだ。

「こっちで待ち伏せか。完全に読まれていたみたいだな」

 県警の目の前の道路で、一体どんな手を使うつもりなのかはまったく想像できないが、あんな得体の知れないものの真横をすり抜ける気にはならない。

 すると、磯井は再び何かを見つける。今度は正面を見ている。

「加佐見……あれも怪しくないか?」

 見てみると、確かに交差点を直進したところにも車が停まっている。しかも、これもブラック・アメーバに見えた。目を離した隙に細胞分裂して二つに分かれたのかと思ってしまう。厄介事が倍加したように感じられ、さすがに気が重くなる。

 そして、これで交差点の右と直進が消されたことになる。信号が変わる前に急いで左を確認する。路肩に停まっている車は一台もなかった。青信号。行くしかない。



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