邂逅の夜 -03-


 オフィス街の深夜は神秘的だ。日中の喧騒は魔法のランプに吸い込まれ、きれいに区画整理されたビルの間を貫く太い道路で、人も車も消えた交差点の信号機だけが相も変わらず律儀な交通整理を続ける。極端に人工的な無人の街は、無機的な清潔感をまとって、ある種の儀式のように深々とお辞儀をして俺を迎え入れる。そこに命は宿っていない。

 ただ、その一方で、広い歩道や横断歩道には、人間とは違う何かが行き交っているような錯覚を覚えるから面白い。昼の世界の人間たちの残像か、それともまったく異なる夜の世界の住人たちの息遣いか。整然と並ぶ橙色の街灯と幹の細い街路樹の狭間、交錯する影と影。

 今日は日中、夏を先取りしたように温暖湿潤な空気に覆われていたが、この時間はそれがごっそり入れ替わったようだ。夕方の短い雨が境目になったのだと推測できるが、このように寒暖の差が大きくなると、街にもやがかかることがある。

 かすかにぼやけた視界からときどき現れる大きなコンテナ車を見ながら、国内屈指の国際貿易港に面したこのウォーターフロント再開発地区の空気を感じる。百六十年の月日は、さびれた漁村の前に広がっていたただの海を陸に変え、我が国を代表する一大オフィス街を生みだした。街の呼び名は〈みなとみらい〉。これ以上にないうまい名前をつけたものだと思う。

 二分三十秒経過。前方の無人の交差点で、横断歩道の緑のダイオード光が点滅を始める。ここで引っかかると三分で着かないので、ウインカーを右につけつつアクセルを踏み込む。車道の信号が赤に変わる前に停止線を通過し、タイヤがアスファルトを擦りつける感触をハンドル越しに感じる。

 交差点の角に設置された住宅展示場の巨大な看板を過ぎると、突然目の前に倒れた自転車を発見する。道路のど真ん中に乱暴に乗り捨てられている。

 クリムゾンを基調とし、ホワイトのアクセントが入った塗装。走破記念だというステッカーが車体のそこかしこに貼られたロードバイク。ただ無秩序に敷き詰めているわけではなく、一定のこだわりとセンスを詰め込んだ結果のビジュアルだということは理解できる。しかし、自己主張の度合いが激し過ぎて好きにはなれないと常々思っていた。そんなわけで、見間違えることはない。これは磯井のものだ。

 直後、後方で急ブレーキの音と鋭い衝突音。交差点を挟んで反対の区画。おそらくは、すぐそこにある広い貸倉庫の敷地内から。

 見える範囲に車がいないことを確認し、急ハンドルで反対車線に入る。再び交差点に進入して今度は直進。そのまま、フェンスの切れ間、砕けたカラーコーンを踏みつけて、大小様々なコンテナが置かれている広大な資材置き場に突入する。視界を遮る積み木の森に、自ら進んで迷い込む。

 再び衝突音。音のした方へ車を走らせると、コンテナの影から人が飛び出してきた。暗がりの中にシルエットが浮かび上がる。

 アクティブという言葉を具現化したかのような、小ざっぱりとした短髪。そもそも一八○センチを超える上に、現役の運動部員のように引き締まっているせいで、実際以上に長身に見えるボディー。SOSの発信者、磯井だ。

 クラクションを短く二度鳴らすと、こちらに向かって全力疾走してくる。これだけ必死の形相で走っている姿を見るのは、学生時代以来の気がする。そう言えば、毎朝ジョギングをしているとか言っていたな。いまだに体力向上の意欲を保っているというだけあって、スーツに革靴という格好にもかかわらず、結構サマになっている。体の軸がぶれないその走りは、競技場のトラックの上で見せるべきものだろうと思う。

 程よい位置で止まれるように、ブレーキを軽く踏みながら速度を落としていくと、磯井のすぐ背後で大きな看板が倒れた。敷地内は危険なので遊んではいけません、と書かれた子供向けの注意書きだ。倒れた看板を遠慮なく踏みしめて、漆黒の闇からその闇と同じ色をした車が現れる。闇の一部が膨らみ、くびれ、千切れて動き出す。まるで、アメーバの細胞分裂みたいだなと思った。金属製の看板が、ベコンと音を立ててアスファルトに押しつけられる。

 艶やかな黒と上品なフロントデザイン。車高は低めだが、屋根が後端部までほとんど下がっていない形状が一瞬見える。後部が荷室になってバックドアがあるタイプなのだと推測。恐らくは、ハッチバックに分類される輸入車だろう。ただ、正確な車名は分からないので、インスピレーションを大事にして、とりあえず〈ブラック・アメーバ〉と命名してみる。これなら、他車種と被ることもないだろう。

 ブラック・アメーバはハンドルを切り、そのライトは磯井を背後から真っ直ぐ照らす。太陽、月、地球が一直線上に並ぶ日食と同じ配置。空気中の細かい水の粒子に乱反射し、光は確かな質量をもつ。光球が隠されてはじめて存在感を増すコロナのようだった。強い光の靄の中、躍動する磯井型のお月様を静かに観測するだけでありたいと思うが、急発進のタイヤの音がすべてを引き裂く。

 フロントガラス越しに映画のワンシーンのような光景を眺め、俺は少し長めの溜息を吐く。

 これはあんまり良い状況ではない。自分の車とブラック・アメーバは向かい合い、その間を全力疾走の磯井。明らかな敵意をもって迫る、漆黒の車体。

 ハンドルを右に切って急旋回させつつ、腕を伸ばし助手席のドアノブを引く。遠心力で助手席のドアーは勝手に開く。バックミラーには急激に存在感を増すまぶしい二つの光。絨毯じゅうたん爆撃の戦地で命からがら塹壕に飛び込む兵士のように、磯井は助手席に飛び込んでくる。

「落ちるなよ」

 磯井の身体が完全に車内に入ったことを確認すると、ドアーを閉める前にアクセルを踏み込む。直後、車体後部に衝撃。その強い反動で助手席のドアーが勢いよく閉まり、車は発進した。



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