邂逅の夜 -02-
今日もこんなに遅くまでよく働いたものだ。
愛車にドアキーを向けると、ロック解除の響きとハザードランプの短い明滅。暗く静かな地下駐車場に、単純な音と光が
この空間はなかなかと味わい深い。何の飾りっ気もないコンクリートの柱とアスファルトの境界は曖昧で、四方から反響して返ってくる足音とともに、絶妙な浮遊感を生んでいる。気付いたときには闇の雪崩に静かに飲み込まれ、身体と空間の境界までもが薄れていく心地良さ。この感覚を味わいたいがために深夜まで黙々と作業をしていたかのような気さえしてくる。深海のような、柔らかで重たい静寂。マリンスノーの闇を彷徨う異形の魚の一つになる――。
唐突にケータイが鳴り響く。掌にフィットするスマートデバイスは空気を読まずに暴れ始める。レトロな和音の響きとバイブレーションに悪気はないのだろうが、静寂は見事に踏みにじられる。そこはただの地下駐車場に戻っていた。表示された名前を見ながら通話のアイコンに触れる。空間が接続される。
「もしもし」
電話の相手は
ただし、これはあくまで俺個人の目から見た彼の評価で、世間様から見た磯井はこれとはかなり違う人物だ。
磯井浩一は、若いながらも優秀なコンピューター・サイエンスの専門家として、お茶の間でも知られるくらいの存在になっているのだ。うちの会社からほど近い場所に立地するデータ通信分野の新興企業〈ディー・ストラテジー〉の付属研究所研究員として働く傍ら、一般向けの解説書執筆やコメンテーターとしてのテレビ出演などをこなし、最近は露出が増えている。親会社が快調に業績を伸ばしていることもあり、その勢いを衰えさせないための広告塔的役割もあると思うのだが、そんな立ち位置を確保できている時点ですごいと言えばすごい。昔からアクティブなやつではあったが、それでも最近の仕事量を見ると感心というより驚嘆する。
そして、そのつてで、俺にまで余分な仕事が来るようになってきた。と言っても、もちろんコンピューター・サイエンスではなく、専門であるバイオテクノロジーに関する仕事だ。若くて喋れる研究者はメディアとしても欲しい人材らしく、かなりの高待遇を用意されたりした。結局断り切れずに了解したのだが、一般に名が浸透し始めると今度は出版業界まで出てきて本を書かせようとする。小さな雪玉がいつの間にか一人では動かせないくらいの大きな塊になってしまうわけだが、このあたりは現代のメディアを取り巻く環境を象徴的に表していると言えなくもない。今ではあきらめて、逆にこの機会に稼げるだけ稼いでおこうという気になってきた。研究職の待遇はそれほど悪いものではないが、数年先も見通せないこのご時世で流されず自分の生き様を貫きたい場合には
とまあ、磯井というやつは、しばしば俺の人生に想定外の影響を及ぼす男なのだが、こんな夜分にどうしたものか。とりあえず、あんまり良い予感はしない。切り離せぬ縁というやつなのか、彼を飲み込んだ怪物は、ついでに俺までも巻き込んでいくというのがお決まりのパターンだからだ。
「
前置きもなく大声で一言。思わずケータイを耳から遠ざける。普段から声の大きなやつではあるが、これは普段よりも耳にくる。時間も時間だし、酔っているのだろうか? 短い間隔で吐息が聞こえる。
「こんな時間にどうした?」
酔って動けないから迎えに来てくれ、という類の返答を想定して答える。いや、想定したかったという方が正しいかもしれない。電話越しにも関わらず、彼の背後に迫る怪物の足音が聞こえてきたような気がしたから。バックの騒がしさは、居酒屋や繁華街のざわめきとは異質なものだったから。
すると、間髪入れずに別の質問が投げ込まれる。
「お前、今日は車か?」
通勤するのに徒歩でも二十分程度なので、雨の可能性がなければ基本は歩きだが、今日は、朝の天気予報で降水確率が五十パーセントと言っていたため、車で来ている。実際には、夕方に通り雨があっただけで、そのあとは降っていないようだが、傘を持って出かけたくないタイプなので、リスク回避が優先される。
「車だけど、それが何か?」
「ナイスタイミングだ。助けに来てくれ!」
「飲み過ぎか?」
俺にとっては明らかなバッドタイミングだと思いながら、わざとらしい質問を返す。
磯井は、多少興奮しているようだが、それはアルコールによるものではない。それに、こうやってやりとりをかわせるくらいの状況なら、俺じゃなくてタクシーをつかまえればいい。
「違う。ヤバいんだ。冗談抜きにお願いだ!」
「ヤバい?」
「知らないやつに追われている」
「自意識過剰だろう」
「おい!」
結局のところ、想像した通りに想定外の返答というわけだ。息も切れ切れの応援要請。最近はナリを潜めていた根っからのトラブルメーカーが、久々にトラブルとの鬼ごっこに興じているようだ。しかも、かなり急を要する模様。
「今、どこにいる?」
状況はよく分からないが、こんなときほど冷静になれるのが俺の特性らしい。だから、騒々しいケータイにこれ以上の無駄話は省いて場所だけを尋ねる。そして、左手は車のドアーを開ける。
「住宅展示場の前あたりだ。会社の近くの」
頭の中に最短経路を思い描く。脳内では三秒で目的地に到着。座席に滑り込み、シートベルト。
「了解。三分で行く」
ケータイをしまいつつ、ガソリンエンジンを模した合成音がビートを刻みだす。地下駐車場に生命が宿る。スポーティーなフォルムに似合わず、環境性能で高評価を得たエコロジカルな車種。力強い躍動と繊細な操作性のギャップも癖になる。ただのちっぽけな人間が、身の丈に合った全能感を得る瞬間。そして、グリップがやや太めの握りやすいハンドルをつかみ、アクセルを踏み込むと、勢いよく夜の街に浮上した。
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