喧騒のニヴィアミレージ -07-
――お兄ちゃん……。
お兄ちゃんは、普段、私にとにかく甘い。本当に甘々だ。激甘だ。
その上、テンションがやたらと高いので目立つ。気にしてくれるのは悪い気分ではないが、さすがに少しは恥ずかしかったりする。
――お兄ちゃん……もう………。
学年としては三つ違い。兄が一足先に全寮制の中等教育課程に入り、その後、私が中等教育課程に進むまでの三年間は少し疎遠だった。
三年間どうにか耐えて、同じくセントケージ学園の中で過ごすようになって、それは始まった。
――もう、今日は無理だよ。これ以上は……。
分かっている。目を見れば分かる。
今は、そういう時間じゃない。甘々な時間じゃない。
――ダメだよ、ミスティー。できるようになるまで、やるんだ。
お兄ちゃんは、鋭利なナイフのような視線を私に向ける。一切の優しさを殺し、何かに突き動かされるように。
私は、その何かを知らない。でも、それは私に必要なことなんだ。
だって……。
――できなければ、今日は終わらないよ。どれだけ泣いて叫んでも。
殺気と勘違いしそうなそれは、実際には違う。
だって………お兄ちゃんは、すごく辛そうな目をしているから。
――うん、分かってる。少し言ってみたかっただけ。
*
ハァハァハァハァ……。
目が暗がりに慣れてきたのか、それとも、酸欠気味になっていた脳に再び酸素が届き始めてきたのか。いずれにせよ、ミスティーは、自分の置かれている状況を冷静に認識する必要性を思い出した。
(ここは……)
必死に駆け込んだ扉の向こう。暗くてよく分からなかったが、わずかに見える物体の輪郭をたどると、そこは倉庫のようだった。木製の棚が壁に並び、様々な資材が雑然と積み上げられていたように見える。
しかし、観察している暇はない。男たちが捕縛ネットから脱出し、いつ背後の扉が乱暴に開け放たれるか分からない。大腿の鋭い痛みが急かした。今は、とにかく奥へ。
足元に注意しながら、石の壁を追っていく。すると、雑な仕事で開けられた横穴を見つけた。ミスティーでも
不自由な視界、無秩序な空間、追手が現れる不安、心身の消耗。記憶は、宙ぶらりんの感情が見せる心象と入り交じり、断片化される。
そして、気が付いたらここにいた。動悸はまだ完全には収まっていない。自分は恐らく、自分で思っていた以上に必死にここまでやってきたのだろう。
仰向けになっていた。背中は少し柔らかい。手を伸ばす。マットのようだった。埃の臭い。
穴が開いている。天井に縦穴が開いていて、光が注ぐ。太陽光が直接届いているわけではないが、暗闇の部屋から見れば、それはありがたいものだった。
穴はほぼ円形。人が通れるくらい。あとからくり抜いたようで、断面はそのままむき出し。破壊されたコンクリートから木材が飛び出ている。
穴からは一本の太いロープが垂れている。ロープは、一定の間隔で結んで玉がつくられている。
ミスティーは、そのロープに手を伸ばした。自分の手が視界に入る。薄明かりの領域に手が入る。赤。赤く汚れていた。生乾きで、黒ずんできている。
(そうだ………刺されたんだ)
思考とともに感覚が戻ってくると、当然、痛みも復活してくる。
ミスティーは上半身を起こした。素早く周囲を確認し、その狭い空間に人の気配がないことを確認する。
視線を落とすと、服の赤い染みが目についた。淡いグレーの布地に裂け目があって、それを囲むように広がっている。
服をまくり上げる。案外小さな傷口。しかし、それははっきりと刻まれていた。
痛みはあるが、出血はほとんど収まっている。傷口の周りで血液が固まり始めている。
ミスティーは、このまま自然治癒に任せようかとも思ったが、身体を動かすと、まだ鋭い痛みが走るので、最低限の治療をすることにする。この感じだと、動けば傷口が開いてしまうかもしれない。
ミスティーは、恐る恐る立ち上がる。まだ鈍く痛むが、我慢できる程度だ。ワンピースは裾が上がり、膝下くらいの丈になっていた。引き裂いた裾から、ほつれた繊維が垂れさがっている。
ミスティーは、改めて空間を見渡した。あまり広くはない部屋。
天井の穴より垂れるロープは、当然、一階からのもの。階段を使わず素早く降下するためのもののようだ。背中に敷いていたマットは、その着地地点ということになる。
視線を移す。次に目に留まったのは、部屋の角の方。天井に近い位置で太い棒が斜めに渡されていて、そこからも同じようなロープが垂れていた。
空間の隅の方で光が届きにくい。近づいてみる。床に穴が開いていた。天井の穴と同等のサイズ。ロープは、その闇の中に続いていた。
(この建物、地下二階があるのかな?)
覗き込んでも様子は全く分からない。ただ、少なくとも人の気配はない。
ミスティーは、足元に転がる小さな石材の破片を一つ落とし、耳を澄ます。
ほぼ一秒の間をあけて、コツンと硬い床で破片の跳ねる音がする。そして、その音が反響する。
(意外と深い。それに、結構広い)
ミスティーは、頭の中に、分かる範囲で建物の内部構造を描く。そのうえで、今の自分に何ができるのかを考える。
ミスティーは、背負っていた鞄を下ろした。
(久しぶりに確認しようと思って持ってきていたけれど、不幸中の幸いというか。やっぱりセントケージとは違うし、日常的にもっと警戒しておくべきか)
鞄の蓋を開ける。この年代の女子が持ち歩くものとしては、かなり意外性のある中身。
硬い箱型の鞄の中には、大小様々なツールが、パズルのようにきっちりと収まっていた。
(これを使う訓練は随分やってない気がするけれど、大丈夫かな……)
糸巻きのような装置を取り出す。ミスティーは、巻かれているものを確認する。もちろん、これは裁縫道具ではないので、巻かれているものも縫い糸ではない。
少し引き出してみる。縫い糸よりも細く、ほとんど目に見えない。表面の反射率が極めて低く、光沢がほぼないので、かなり近くで見ても気づきにくい。
ミスティーは強く引いてみる。たった一本であっても、切ることはできない。というより、ビクともしない。
ミスティーは、他にもいくつかの小道具を取り出していく。必要なパーツを繋げ、動作確認。服の下のホルスターにも必要な装備を収め、素早く取り出せるかの確認。
これは訓練じゃない。改めて意識すると、どうしても緊張感は増してくる。
(お兄ちゃん……)
ミスティーは、兄のことを思い出した。より正確には、兄の語った言葉、兄との訓練を思い返していた。
――いいかいミスティー。危ないときは必ず逃げるんだ。逃げるが勝ちだ。だから、どんな状況でも逃げられるだけの技術を身につけるんだ。
(必ず逃げるよ…………あの子たちと一緒に)
ミスティーは行くべき方向を探る。
普通の中層アパートと同程度の規模なので、フロアが広大ということはない。しかし、薄暗く、ごちゃごちゃした空間で正しい順路を見つけることは難しい。しかも、ここまでどう来たのかはっきり覚えていない。
立ち止まっていてもしょうがないので、とりあえず動こうと思ったとき、壁の向こうから声が聞こえてきた。もしかすると、今までも届いていたのかもしれないが、かなり小さく聞き取りにくい。ミスティーは、耳を澄ませる。
「おーい、そろそろ出ておいで。俺たちともっと遊ぼうぜ」
「さっきのはなかなか楽しかったぜ。続きはどうした? いいかげん戻って来い」
声は少しずつだが大きくなる。どうやら、壁沿いに歩きながら言っているようだった。
(方向が分かって助かる……)
ミスティーは、声を頼りに動き出した。床に散乱するものに引っかかって音を立てないよう、細心の注意を払いながら。
男たちの声は断続的に続く。下品な笑いは聞こえてこないが、だからと言って好感度が上がることはない。
「おい、出てこい。出口は塞いでるぞ。お前は袋の鼠だ。おとなしく出てくれば悪いようにしないから、観念しな」
言い方は先程よりマイルドだが、それでも言葉の端々にいら立ちが滲み出ている。いろいろ
(出口は塞いでるって言うけれど、さっきの縦穴から這い上がれば、簡単に逃げられるっていうの)
敵ながら嘆かわしい状況認識。ただ、こちらは手負いの上、人質を取られている。絶対に油断はできないし、ミスも許されない。神経を消耗するシチュエーション。
小さめの細長い部屋を注意深く進んでいる途中で、さらに声が聞こえる。今までで一番近い。壁一枚だけ隔てているという感じだ。
「さっさと出てこい! テメェ、ガキどもを見殺しにする気か? これ以上待たせると……」
男はそこで言葉を切る。
「やめろ!」
男の子の声だ。壁からは離れている。
「違えだろ。喚け。泣き叫べ。オメェは餌なんだよ」
「アハハ、もう愛想尽かしちまったんじゃないのか? 命張るようなことでもないしな。これで出てくる方がどうかしてるだろうよ」
女の声。こちらも少し遠い。
「そんなことあるもんか。姉ちゃんは、待っててって言ってた。必ず戻ってくる」
「それは幻聴だろ? 私にはそんな言葉は聞こえなかったね」
暗く狭い部屋は、壁際にゴミ同然のパーツがうず高く積まれていた。それらは天井に届くほどだが、どう見ても不安定。触れた瞬間、崩れ落ちてきそうだ。そして、足元には無造作に這うロープ。どこから伸びているかも分からない。
ミスティーは焦らないよう自分に言い聞かせ、ゆっくり進む。数歩進み立ち止まる。顔を上げ、状況を確認。そしてまた歩き出す。
薄明かり。壁に小さな穴が開いているのか――。
(違う。これは……)
「来るな!」
「幻聴が聞こえるなんて、お前の耳は飾り物か? なら、切り取っても問題ないだろ?」
「おーい、そろそろ出てこないと、本格的にヤバいと思うぞー」
「ほら、助けを呼んでみろよ」
「姉ちゃん、ダメだ。来ちゃダメだ!」
「耳だけじゃなくて頭も飾り物だな。オラ!!」
「グフッ! 姉ちゃん……本当に来ないで、これは……」
「黙れよ!」
打撃音。苦悶。必死の呼吸。
「これは………罠」
バンッ!
ミスティーは、漏れる光の枠を蹴りつける。扉は勢いよく開く。
正面に、男の子が見えた。その耳を女が掴んでいる。反対の手には、軍が使いそうな大きなナイフ。男の子の妹は、少し離れたところで拘束されている。その他、視界に人の姿はない。
「ダメだ!」
男の子が言う。こっちを真っ直ぐ見て。
「え……」
ミスティーの視界を何かが横切る。距離が近すぎて、逆に分からない。
「やっぱり、馬鹿はテメェだったな」
それは捕縛用のネット。先程、ミスティーが使用したものだ。
男三人を飲み込めるネットは、当然ミスティー一人くらい簡単に捕まえてしまう。
逃げる間もなく口を閉じられ、厳重に絞られる。ほとんど身動きが取れない。
首を動かすのも困難な状況だが、近くには男が三人。明らかに待ち構えていたわけだ。
「この建物の構造は分かってるし、テメェがどこから出てくるかなんて簡単に予想できたぜ」
「念のため、他の扉は開かないようにしてたしな」
身体が浮き上がる。ミスティーは、男二人に持ち上げられる。
部屋の中央に連れていかれてから乱暴に下ろされる。まともに受け身を取ることもできず、衝撃で息が詰まる。
「姉ちゃん……ゴメン」
だいぶ近いところで声がする。男の子は背中の方にいるようで顔は見えない。
「大丈夫。馬鹿には負けないから」
ミスティーはそう言ってから、どうにか身をくねらせる。辛うじて手は動かせるくらい。
「これはウケるな。文字通り袋の鼠なわけだが、この状態でどうするつもりだ、え?」
「負けないってなあ、本当に状況を分かってないんだな。テメェはもう負けてるんだよ」
「でもって、ここからが本番だ」
薄ら笑いの男の横で、女が一歩進み出る。
「結局、痛みでしか学習できないんだよ、馬鹿ってやつは」
見せつけるようにナイフをかざすと、くるりと手の中で回し、逆手に持ち直す。女はその場でしゃがんだ。ミスティーの顔を見つめながら。
「刃が通らないみたいだから、死にやしないだろう?」
ナイフを持った手は、ミスティーの身体の上に伸ばされる。鋭い刃は真下を向いている。
耐刃の捕縛ネットの目は、ナイフの幅より狭いので、完全に内部に侵入することはないだろう。しかし、それでも、刃の先端についてはその限りでない。
愉悦の表情を浮かべる女は、ナイフを真下に振り下ろす。
「ククク……」
ミスティーは、無理な体勢ながら、どうにか身体をひねって回避した。脇腹に刃が通った感触を生々しく感じる。ネット越しだったので直接触れたわけではないが、ぞくりとする。
「いいねえ。まだ諦めるには早いだろ」
女はナイフを単純な動きで上下動させる。わざと緩急をつけ、なぶるのを楽しんでいる。
ミスティーは、それを必死にかわしていく。締め付けるネットに耐えながら、刃の先端の動きを目で追い続ける。
きつい体勢、極度の緊張、連続する回避行動。
「だいぶ息が上がってきたようだね。お遊びも飽きてきたし、本当の痛みを味わってもらおうか」
女の目つきが少しだけ鋭くなった。落ちてくる切っ先の速度が速い。その意図は明確だった。
ナイフは横たわるミスティーの腹部側面を目指す。動きが制限される中、逃れることは厳しい。
ガキン!
ナイフは硬い床にあたり音を立てる。床の上には捕縛ネット。抜け殻となった捕縛ネット。
「なっ!?」
女は驚愕する。ミスティーの身体はもぬけの殻となったネットの横に転がっている。視線が交錯する。
ミスティーは素早く身体を起こそうとする。突き出されるナイフ。致命的ダメージを避け上半身を反らすも、残った足が狙われる。左の大腿に新たな痛み。立ち上がるタイミングを逃し、後ろに転げるように距離を取る。
ミスティーは、片膝をついた体勢のまま女の方を見る。女は足元の捕縛ネットを見ていた。それは大きく裂けていた。
「これ、ナイフで切れないんじゃなかったの?」
女はミスティーの手に握られているものに視線を移して言った。ミスティーは答える。
「自分の持ち物なんだから、いざというときの対処法くらい用意してる」
その手には、小振りのナイフ――のようなもの。刀身のように見える部分の輝きは鈍く、一見すると
ミスティーは立ち上がる。左の痛みは強い。傷は右より深いようだ。下を見ると、足を伝って流れる血の一筋が靴まで届いている。
「逃がさないよ」
女はナイフを構えて距離を詰めてくる。三人の男は、その間にミスティーを囲むように回り込む。
「まだ逃げないよ」
ミスティーはゆっくりとした動きで、右手をポケットの中に入れる。その手に触れる感触を確かめる。
「逃げる前に叩きのめさないといけないから」
ミスティーはポケットから手を引き抜くと同時に駆け出した。
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