喧騒のニヴィアミレージ -06-


「痛っ!」

 兄妹は乱暴に床に突き飛ばされた。

 うっすらと積もっていた埃が舞い上がる。床一面を覆っている粒子は、均質で非常に細かい。壁の上部に並ぶ横長の窓から差し込む光の帯の中で、漂うもやのように見える。

 それを吸い込んでしまった妹がケホケホと小さくむせる。ここに連れてこられる間、虚ろな表情で生気を失っているように見えた妹が、一応の反応を見せ、男の子は少しだけホッとする。

 無人の中層アパートの地下一階。天井は普通のアパートと比べるとやや高め。天井や壁をそれらしく見せていたであろう建材は取り払われ、もっともシンプルな鼠色の構造体がさらされている。もともと複数の部屋として使っていた空間から仕切りを取り払ったようで、壁面にその跡が残っている。天井と床の間で、いくつかの太い石柱がつっかえ棒のように挟まれ、全体の構造を支えている。

 アパートの地上部分は、無数のひびが入り、部分的に壁が崩れ落ちていた。劣化は地下部分以上に激しいように見える。本来であれば入り口として利用されるはずの場所は、板を打ち付け封鎖されている。危険なので入ってはいけないという注意書きには、かなりの説得力があった。ただ実際には、隣接する建物との間の死角から中に入ることができ、兄妹もそこを通された。

 男の子はその様子を鮮明に記憶していた。とてもではないが、誰かが助けに来るようには思えなかった。そして、このやたらと広い地下空間から叫んで、外の人間に声が届くことはあり得ないと理解していた。

「さて、さっきは無駄にギャラリーが多かったからな。ここからが本当の躾だ」

「え……」

 兄妹は戸惑う。見上げると、男は不敵な笑みを浮かべ、こちらを見ている。

 純粋な恐怖が背筋を這いあがってくる。男の子は、自分の口元が引きつっているのを感じる。視線を逸らすことができない。

「結局は、痛みがなければ学習しねえんだよな。分かるか? 分かるよな!?」

 男は腰を曲げ、口元を歪め顔を近づける。

 男の子は妹を気にしながらも、震えて言葉が出ない。

「質問してんだよ! 何黙ってやがる!」

「すみません……」

 どうにか声を出す。

「何とか弁償します! だから許して下さい! お願いします!!」

 男の子は必死に訴える。すると、男三人女一人が揃ってゲラゲラと笑いだす。

「何言ってんだコイツ?」

「そんな見え透いた嘘をつくったあ、頭わいてんじゃね?」

 男の子には意味が分からない。男たちが笑う意味が分からない。

「お前が魔法使いなら、親だって魔法使いだろ? つーことはだ、どの道まともな仕事なんてしてねーんだから、金があるわけねーじゃん」

「弁償するってなあ、もうちょっと面白いジョークを言えよ、コラ!!」

 男は少年の腹を蹴りあげる。少年の身体は背後の石の柱に打ちつけられ、痛み苦しみに身悶える。妹は恐怖のあまり悲鳴も上げられない。

 女が妹の方に近づいていく。

「女の躾は女がするもんだからね」

 女の子は一歩も動けない。ただ激しく震えているだけで、身体は言うことを聞かない。

「や、やめ………ろ」

 男の子が声を絞り出す。

「なんだその口のきき方は!?」

 男が再び蹴りつける。舞い上がる微粒子。呻き声。

 下腹部から迫る嘔吐感。歯を食いしばり耐えると、代わりに涙が染み出す。

 ざらつく床についた手。五本の指の先端にまで力を込め、何とか上半身を支える。

 男の子は、女を見上げる。女はその視線に気づくと、満足そうに微笑んだ。見せつけるように乱暴に妹の腕を掴んだ。

 男の子は、すがるように手を伸ばす。でも、届かない。

 バランスを失った身体。かすれる悲痛な声。

「すみ……ま…………」

 再びゲラゲラと笑いが響く。どれだけ愉快な光景を見ているのか。

 男の子の足掻あがきは、埃を小さく舞い上げ笑いを巻き起こすのみ。

 届かない。届かない………。


 バンッ!!!


 突然、地下室の扉が勢いよく開けられる。室内にいた人間は呆気にとられる。

 フロアの端の方で光が射しにくいうえ、埃も舞い上がる。侵入者の姿はかなり分かりにくい。

「誰だ、てめえ!?」

 シルエットは質問には答えず、ゆっくりと前に進み出る。斜めに筋を浮かび上がらせる光の中に入る。

 背格好のわりに大きく見える黒ブーツ。ゆったりと丈の長いワンピース。胸元に暗紫色のペンダント。背中には、小ぶりな箱型の鞄。そこに長い髪がかかっていた。

「………さっきの銀髪じゃねえか」

 銀髪碧眼の少女ミスティーが、たった一人で立っていた。肩で息をしているが、視線に力を込める。

「ハハハハハハッ! 馬鹿じゃねえの? 何コイツ、一人で何しに来たの? ありえねーっつーの!!」

「なんだ? お前も躾けて欲しいのか? それだったらさっき言えば良かったんだよ。私も躾けて下さいってな!! ギャハハハッ!!」

 不快。ミスティーは、ただただ不快に感じた。

 これ以上ないほど不快なやつらが、これ以上ないほど不快な台詞を吐きながら笑っている。

 ミスティーは静かに、しかし明瞭に言う。

「その笑い方、すごく馬鹿っぽいからやめた方がいい」

 場の空気が凍る。全員が本当に一瞬固まった。

「あー、なんか今………ソラミミ?」

 男の一人が耳を触りながら首を捻る。

「訂正。笑い方だけじゃなくて、言動全般が馬鹿っぽい」

「ハァ!? テメー、この状況でナニ啖呵たんか切ってやがる? 分かってねーんだろ、この状況? だったら馬鹿はテメーじゃねえか!!」

「馬鹿はアツくなりやすい」

 皮肉の笑みすら惜しむミスティー。

 男たちは本格的に沸騰してくる。

「私が躾けてあげる。ちょっと押さえてて」

 女が言う。男たちよりは冷静に見える。

 男たちはミスティーを捕まえようとにじり寄ってくる。逃走経路を塞いでから距離を詰めると、三人がかりで一気に飛びかかってきた。

「ヒョイっと」

 ミスティーはそれを軽々とかわす。

 確実に捕らえたと思った男たちは、勢い余って交錯する。女が派手に舌打ちする。

「舐めやがって……」

 男たちは、再び奥の壁に追い込むように距離を詰める。しかし、何度やってもギリギリのところで逃げられてしまう。

 ミスティーが顔色一つ変えず涼しげな表情を保っているのも、男たちをイラつかせた。

 男たちはじれったくなり、統制は乱れていく。ミスティーは地下室の中を走り回り、男たちがそれを追いかける。

「なんだコイツ? 全然捕まえらんねえ……」

 ミスティーは、地下室内を目一杯広く逃げ回った。すべての柱の間を走り続けた。足元で舞い上がる埃はなかなか降下しない。

 男たちの息が切れてくる。しかし、それでも何とかミスティーを囲む。

「もう逃がさねえぞ」

 威圧感はだいぶ少なくなってきた。

 ミスティーは完全に足を止める。両手を背後に回し、すぐに引き戻す。その手には、筒状の何かが握られていた。手持ちの蓄電灯のような感じだ。

 男たちは一瞬怯むが、いっせいに飛びかかった。

 ミスティーは、やはり器用にそれをかわす。男たちは地下室の一点に集まる。

 瞬間、ミスティーはきびすを返す。硬質な黒のブーツの乾いた音が反響し、細かい粒子が足元で小さく渦を巻く。

 手に持っているものを男たちに向け、突き出たフックに指をかける。両足に力を込め、フックは引かれた。

「ばきゅーん」

 ミスティーが一本調子で言うと同時に射出される捕縛用のネット。空気抵抗で急減速しながら一気に広がったそれは、一瞬で三人を飲み込む。慣性で動くおもりのついたワイヤーは互いに絡みつき、脱出を困難にする。

「何ふざけてるの!」

 女はナイフを取り出し駆け寄る。あてた刃はキリキリと音を立てるだけ。いくら力を込めても、ネットにはほとんどダメージがない。

(残念、それは耐刃たいじん仕様なのだよ)

 目論んだ通りしっかり手間取っているのを確認すると、ミスティーは倒れている兄妹のもとに駆け寄った。

「君、大丈夫?」

「大丈夫……。お姉ちゃん………何者?」

 事態を把握しきれていない男の子は、ミスティーに尋ねる。

 ミスティーは、ようやく少しばかりの笑みを浮かべて答えた。

「私は……逃亡術を極めし者。得意な競技は長距離走。動ける?」

 男の子は相当なダメージを受けているようだが、致命的なものは避けられているようだった。妹の方も、身体的なダメージは見られない。

 ミスティーはポケットの中に手を入れ、すぐに引き出す。その手には、円筒形のコロコロした物体が三つ握られていた。

(今のうちにどうにか脱出を……)

 ミスティーは出口を確認する。子供二人を引き連れてとなると、決して短い距離ではない。でも、何とかあそこに―――。

「おい、それを寄越せ!」

 背後で怒声が聞こえる。捕縛ネットの攻略はまだのようだ。

「お姉ちゃん!!」

 ミスティーは振り返る。

 三人の男たちが一つの塊のまま突進してくる。言葉にならない声を上げ、鬼気迫る様子。ネットに絡まったままで、もちろん歩行できる状態ではない。しかし、気持ちだけで転げるように迫ってきた。三つの意思を持つ一つの生命体のように。

 男たちに近い右の大腿に痛みが走った。

 ネットの中の男の一人は、ナイフを握っていた。女から奪ったものだった。刃に赤い液体が光っていた。

 視線を落とす。ワンピースに小さな切れ込み。そこに赤い点が現れる。それが、みるみる広がっていく。

(しまった……)

 ミスティーは、転げるように後ろに飛び退く。痛みがより明確になる。

 半狂乱の男はネットの中からなおもナイフを持った手を伸ばしてくる。しかし、この距離ではさすがに届かない。

(ごめん……。必ずどうにかするから)

 ミスティーは、手に持っていたものを敵に投げつける。それは、激しく白煙を噴き出しながらその場で回転した。

「このヤロ! 煙幕か……」

「いや、催涙ガスだ……なんてもの持ってやがる………」

 四人とも白煙にまかれている。激しくむせる声が聞こえる。

 ミスティーは男の子を見る。距離はあいてしまったが、視線があった。

(待ってて……)

 ミスティーは負傷箇所を気にしながらも、全力でその場から退却する。一番近くにあった扉に飛び込んだ。



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