キルムリー・トライアル -10-


 沸き立つ客の期待感を裏切るように、両者は一歩も動かなかった。煽るような歓声は、すぐにざわめきへと変化していく。

 しかし、拍子抜けというわけではない。フィールド上で、ビリビリと闘争心がぶつかり合っているのは誰もが感じるところだった。

「どうしたんだ?」

「互いに情報不足で、相手の出方が読めないんだよ。どっちも武器を持ってるわけじゃないし」

 クロノの呟きに、ヘイズが律儀に説明を返してくれる。

「当たり前っちゃあ当たり前だな。ただ、どちらにも武器がないということは、手足のリーチから考えて、より飛び込みにくいのはシェルちゃんの方だ。そもそも相手は三人だしな」

 反対側のデゼルトも言う。

「あの三人の実力は?」

「重鎮というわけじゃないが、このキャラバンに、ただ弱いだけの人間なんていない」

「なるほど……」

 クロノは、落ち着いた様子でシェルのことを見た。

 ヘイズは、何かに納得したようなクロノの横顔を不思議そうに眺める。

「クロノ?」

「じゃあ、先に動くのはシェルだな」

「どうして?」

 ぎゅるるるる。

 ヘイズが尋ねると同時に、クロノの腹から空腹のシグナルが発せられる。

「あいつも早く飯を食いたいはず。それに、忍耐は苦手そうだしな。そんなにじっとしてられないだろ」

「確かに……」

 ヘイズも正面を見据える。すると、シェルがゆらゆらと動き始めた。

 指先まで力を込めて構えていたのをやめて、両手をだらんと垂らす。そのまま、まるで気を失ったみたいに、重力だけに従い身体が前傾していく。足先に蝶番ちょうつがいがついているみたいに、身体が地面に吸い寄せられていく。どよめきが大きくなる。

 地面に激突し完全に地に伏せようかというその刹那、まさにギリギリのところで、シェルの眼光は鋭く目標を見定めた。瞬間、小さな身体は弾丸のように加速した。

 あまりに低い姿勢。それは、地面すれすれを飛ぶツバメのような動きだった。

 間合いは一瞬で詰まる。向かう先、三人組の前衛は、一番線が細い。

(速攻で一人潰して、二対一にするという戦略か……)

 前衛は、足の運びが間に合わないことを悟ると、逆に腰を落として身体の安定を確保する。右腕が引かれ、拳を握り、カウンター攻撃の予備動作に入る。

 三人組の中では軽そうだが、それでも体格差は歴然としている。シェルはまともに一撃食らったら、その時点で致命的ダメージとなってしまうだろう。

 シェルは前衛の足元に飛び込む。重心の位置から見て、即座に蹴りが飛んでくることはないと踏んだようだ。

 相手も当然このタイミングを狙っていて、重い拳が垂直に振り下ろされる。

 拳はシェルの身体の中心を完全に捉えたかに見えた。しかし、シェルは恐ろしく機敏な切り返しでかわし、逆にその腕に手をかけ体重をかける。

 まるで鉄棒に身を預けるように、男の腕を軸として身体を大きく回転させる。誰もが呆気にとられる中、シェルは完全にその背中をとっていた。

 まず一人、勝負あり。一連の動きを追うことができた多くの人はそう思っただろう。しかし、シェルの動きは完全に予想外のものだった。

 前衛の男の背中に両脚を揃えると、シェルはバネの入ったジャンプ台を使ったような急加速を見せる。もとから物凄い速さだったので、むしろ再加速と言った方が良いかもしれない。

 踏み台にされた男は、反動で前に弾き出されるが、それほど大きなダメージには見えない。

 一方、シェルの身体は、三人のうち真ん中に立っていた男に向かっていた。男も当然、前にいた男がターゲットだと思っていたはず。予想外の進攻に受けて立つ態勢ではなく、シェルの直線的な動きをかわすことに全力を注ぐ。

 シェルの移動速度から考えて、その進路上から男の身体は逃れられないと思われた。実際、そのとおりで、危険なゾーンから抜け出す動きに、下半身はついてこれず残ってしまった。上半身と下半身が開き、ダメージをまともに受けてしまう姿勢のところにシェルが飛び込んできた。

 男は一撃もらう覚悟をしたが、アバラをかすめる感触しか伝わってこない。シェルは、自分に有利な状況で接近したにもかかわらず、完全に素通りしてしまっていた。

(そうか! はじめからこれを狙って……)

 スピードはそのまま。次の瞬間、シェルの身体は、一番奥に立っていた男の前に現れた。

 その男は、三人の中では明らかに一番良い体格で、たぶん一番の難敵だった。

 男は焦った。シェルの予想外の動きはさることながら、その手前で味方の身体のギリギリを通過したことで、対応が一瞬遅れてしまっていた。

(動き出しの時点で、最初に狙うのは一番奥にいる最も厄介そうな男だと決めてたんだ。一人目は加速のための踏み台、二人目は動きを見せないためのブラインド目的。ターゲットから見て、シェルの小さい身体は、直前の一瞬、完全に隠れてしまっていたはず……)

 対応が遅れると言っても、ほんの一瞬。しかし、スピード以外では分が悪いシェルにとって、その一瞬が何より重要だった。

 ターゲットの大きな身体に接触する直前、シェルは進路を急激に変える。低い姿勢から地面を強く蹴りつけると、浮上するようにほぼ真上に跳ねあがる。

 ターゲットの胴体をかすめる。シェルは右手の掌を相手に見せる。四本の指は自然に曲げたまま、手首に近い部分、いわゆる掌底しょうていを突き出す。

 狙うはただ一点。男の顎だった。

 防御は間に合わない。シェルがその速度を込めて繰り出した掌底は、完全に男の顎下を真下から撃ち抜いた。

 男の大きな身体は、衝撃をまともに受けて跳ねあがる。空中で、男の頭部は天を仰ぐように反りかえり、そのまま後方に落下した。

 照明に小さく舞った土煙が照らされる。男は小さく呻くが、身体を起こすことはできそうになかった。

 横たわる身体を見下ろすシェルの姿が、闇に浮かび上がっている。何を思っているのかは分からない。

 場は静まり返っていた。息をすることも忘れそうな攻撃。誰もが、自分の目を疑った。

 おそらく、今、シェルの足元で動けずにいる男は、キャラバンの中でもある程度の戦闘能力を認められているのだろう。だからこそ、シェルは最初に倒すことで有利な状況をつくろうとした。

「ま、マジかよ……」

 誰かが言った。すると、金縛りから解放されたみたいに、他の人たちも声をあげ始めた。しかし、どこか夢見心地な感じでもある。

 シェルのことを多少は知っているクロノたちは、他の人たちより幾分冷静でいられたが、それでも熱狂できる感じではない。

「ここまでくると、みんな普通にドン引きだな」

「シェルの変態的な鍛錬の成果ですね。ドン引きされてなんぼのもんです」

「シェルちゃん、自分の身体が軽い分、人の身体を利用するのがうまいねー」

「お前も昼間、まんまやられてただろ」

「身体の運びの速さも凄いけど、判断の速度も凄過ぎる……」

「シェルは最高の被写体ですね。良い絵が撮れました」

 シェルは振り返った。他二人は、特にダメージを受けているわけではない。

「やっぱり、ミランが小遣いなんて言うからおかしいと思ってたんだ……」

「これは、実戦だと思ってやらないと、本当に痛い目を見るぞ」

 二人は、シェルの様子をうかがいながら互いに小さな声で話せる距離に近づいた。それから、他にも聞こえないようなボリュームで言葉を交わす。シェルを倒すための算段をつけていることは明らかだ。

 二人がひそひそ話をする間、シェルは特に何をするでもなく立っていた。その脳内を推察するに―――。

「あー、お腹すいたなあ。はやく肉、食いたい」

「たぶん正解ですよ、クロノ先輩」

「シェル、今日はよく動いてるからね」

 そうこうしているうちに、シェルに相対する二人の話はまとまったようだ。

「あの二人、どう出るかな?」

「なんとなく想像はつくけど」

 クロノが問いかけるとヘイズが答えた。

「というと?」

「同じ手は二度は使えないってことだよ。本来、一撃が軽いシェルが一人仕留めることができたのは、手の内が知られていない状態で、しかも相手が十分警戒していなかったせいだよ」

「なるほどな」

「あと、シェルがどんなに速く動けても、肉弾戦をやるなら、必ず攻撃のときに速度が落ちるから、相手もそこはついてくるんじゃないかな。一対二ということを考えれば、片方に攻撃を仕掛けられたとき、もう片方がカウンターできる準備を整えておけば、個人としてダメージを受けても、勝負には勝てるわけだしね」

 確かに、二人は動きをあわせて、離れ過ぎないように一定の距離を保っていた。しかも、シェルに対して横並びになるような感じなので、どちらも互いを把握でき、視界を遮ることはない。

「そうすると、次にあの子はどうでるんだろうな?」

 クロノとヘイズの会話を横から聞いていたデゼルトが言う。

「肉弾戦では、特に策はないんじゃないかな」

 ヘイズが答える。

「とすると……」

 次にシェルが取る行動は―――。

 シェルは、再び極端な前傾姿勢で加速した。

(やっぱり! 策がなくても取り敢えず突っ込むタイプだよな、お前は!)

 シェルは先程のように十分加速することができず、しかも動きが読まれてしまっている。難なくというわけではないが、それでも受け止められ、その隙に背後からもう一人が攻撃してくる。シェルは辛くもそれをかわすと、二人から距離を取った。

「基本的に、シェルの作戦は一つ、力でねじ伏せる、ですからね」

 ミスティーが言った。

「だよなー。細かいことを考えて実行できる感じじゃないよな」

 言ってる先から、シェルは、もう一回同じことを繰り返す。相手はさらに慣れてきた。ダメージはほとんど何も与えられない。

 さらに、倒れていた一人も、頭を押さえながら上半身を起こした。まだすぐには立てないだろうが、長引けば戦線に復帰できるかもしれない。

「これは、飯が遠いな……」

 すると、下がって見ていたミランが、少し前に出て声を張り上げた。

「シェル、そろそろ魔法でも使ってみな! このままじゃらちが明かないよ!」

 しかし、シェルはなおも同じことを繰り返している。シェルも相手の攻撃を受けているわけではないが、消耗戦になるのは、飯が遠いという点で望ましくない。

「魔法発動の感覚が学園敷地内とは違うということで、多少躊躇しているのかもしれませんね」

 ミスティーが言う。

「でもなあ……。本当にこのままじゃ長引くだけだし、もう魔法でもコスプレでもいいからさっさとやって欲しいな」

「よし、俺に任せろ」

 デゼルトの向こうからキーリンが言った。何をどう任せろと―――。

 キーリンはその場で立ちあがると、両手を口元に添えて、大きな声をあげた。

「俺、シェルちゃんのコスプレ早く見たいな! 俺のために見せてくれよ!!」

「あ、バカ………」

 クロノが止める暇はなかった。キーリンは言い終えると、満足気な顔をして座った。

 シェルは、まるで何も聞こえていない振りをする………いや、むしろ、あからさまに嫌がっているようだった。

「あーあ……」

 ヘイズもげんなりしている。

 シェルの言うところの“コスプレ道”なるものはよく分からない。しかし、それとは別の話として、この台詞を効果的に使うためには、事前に周到な好感度アップが求められるのは明らかだった。

「なんだか飯が遠ざかった気がする」

「僕もそう思うよ……」

「なんか良い手はないものか?」

「そうだね……例えば―――」

 ヘイズがクロノに耳打ちする。ごにょごにょごにょ。

「よし、それしかない」

 クロノとヘイズは、互いに反対側を向いた。クロノは左のデゼルトの方を、ヘイズは右のミスティーの方を向いた。

「なあ、デゼルト。ちょっと頼みがあるんだが……」

「ミスティー、エミル、ちょっとお願いがあるんだけど……」



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