キルムリー・トライアル -04-


 生活感より荒廃感の色が濃いアパート群。三階建てだが、階ごとの天井高は低めで、内部に足を踏み入れるとやや窮屈な印象を受ける。

 壁や天井は崩れている箇所も多く、大きく開けた場所には焚き火の跡も見られた。いつのものだかは分からないが、この場所がアパートとしての本来の役割を果たしていた期間より、住民ではない者たちの溜まり場として利用されていた期間の方が長いことは容易に想像できた。

 雨漏りの跡も多く、薄汚れたシミが壁に幾筋もの模様をつくっていた。窓ガラスもほとんどのものが割れており、その周囲は同様に黒ずんでいた。

 一階部分は、細かい砂がかなり入り込んでいて埃っぽい。窓から斜めに差し込む光の筋がはっきりと見えた。

「二階に行ったみたいですね」

「そうだね」

「………当然二階だろうな」

 エミルとヘイズの会話に便乗するシェル。しかし、見ている方向が明らかに違う。

 一人だけ把握できていないのも可哀想なので、ヘイズが救いの手を差し伸べる。

「シェル、足元を見てごらん」

 足元の砂には、真新しい足跡がしっかりと残っていた。そして、それは階段の方に向かっている。

 三人は、前後左右に加え頭上まで注意を払いながら、階段を上がっていく。

 階段の途中から足跡はなくなっていた。砂は二階の床にはあまりないようだった。

 二階の壁は、一階よりさらに大きく崩れ落ちていた。もともとの構造的な違いかもしれないが、扉とは関係なく各部屋を行き来できるようになっている。

 しかし、死角は多かった。縦横無尽にルートをとれる構造でありながら、同時に膨大な死角を有していた。結論として、逃げる側に圧倒的に有利な状況だった。

「地の利は向こうにありそうだね」

 ヘイズは声をひそめて言った。

 エミルが隣で小さく唸る。それから、シェルに言った。

「シェルがそのまんまで戦うのって初めて見ましたが、コスプレしなければあのくらいが全力ですかね?」

「まさか。一般人相手に本気は出すなって師匠に言われてるから。そもそもあれは、寝起きの体操」

「なるほど。じゃあ、もうちょい頑張れますかね? そもそも彼らは一般人じゃなくて盗人です。あと、〈アイちゃん〉を取り返さないと、当分まともな食事ができません」

「分かってる。言われなくても、そろそろ仕留めるつもり」

「了解です。コスプレは禁止ですが、それ以外でなら少し派手にやっちゃっていいので」

 ヘイズは二人の会話を聞いていて、「師匠って誰?」と思わなくもなかったが、それ以上に「シェルって何者?」と言いたい気分だった。セントケージ・スカーレットを発行されたわけだから、その時点である程度のお墨付きは得ていることになるが、まだまだ計り知れない。

「あまり考えたくないけれど、あの二人、もうこの建物から逃げちゃってる可能性もあるよね?」

 礼拝堂を囲むように並んでいたアパート群は、二階部分が渡り通路で連結されていた。つまり、二階からなら、隣の建物に簡単に移動できてしまうし、それ以前に、彼らの能力なら一階を飛ばして直接脱出することも可能だろう。

「可能だとは思うんですけど、たぶんまだこの建物にいます」

 エミルは、妙に確信を持った物言いだった。

「なんでそう思うの?」

「冷静に考えて、私たちが狙われたというのが、そもそも不思議だったんですけれど……」

 そう言われてみるとそうだ。多くの人が行きかうキルムリー。そこに到着し、用が済んで一息ついたその瞬間に〈アイちゃん〉は盗まれた。しかも、そこまで極端に不用心だったわけではない。

「私たち、始めからマークされてたんじゃないかと思うんですよね。さらに言うと、目的は分かりませんが、〈アイちゃん〉に用があるというよりは、我々に用があったんじゃないかとも」

「確かに……。〈アイちゃん〉に用があるなら、当然〈アイちゃん〉が何なのか知っているはずだけど、知っているなら逆に盗みそうもない。盗んだって開けられないんだから」

「だから、少なくともこのままサヨナラということはないと思うんですよね。とは言っても、これは今もこの建物に二人が留まっていることの根拠にはなりませんが」

 今日は退散し、いずれまた改めてという可能性は否定できない。しかし、エミルはそうだと考えていないようだった。

「なんか、いる気がするんですよね……」

 本来なら冗談だと言って流したくなるような台詞だが、エミルはまるで目に見えているものについて語るような口振りだった。少なくとも、〈アイちゃん〉に関する一大事である以上、適当なことは言わないだろうとも思う。

「それは、気配みたいなもの?」

 正直、気配というのはよく分からない。でも、あると断言する人もいるので、本当に感じ取れるものなのかもしれない。

「どうなんでしょう? でも、ごく稀にこういう感覚がはっきりする瞬間があるんですよね」

 エミルは立ち止まった。

 そこは、他の多くの部屋とは柱の間隔が異なっていた。周囲の壁は、比較的良い保存状態だった。その代わり、外から光が届きにくくなっている。

 辺りは静まりかえっていた。

「はっきりと言っても、それ自体、根拠のない感覚なんですけどね」

 ヘイズも立ち止まった。斜めに差し込む光の筋の隙間に佇む暗がりの中。

「分かった。じゃあ、何となくでも構わないけど、二人はどこら辺にいそう?」

「そうですね………ざっくりと言えば、後ろの方?」

 背後に意識を向ける。風がひゅうと流れた。気配がした。

「大・正・解」

 エミルとヘイズが振り返ったとき、二人組の片方がすでに目の前に迫っていた。腰巻きをしているすばしっこい方の男だ。

 床に小さな砂埃が上がる。ヘイズに向かって腕が伸びてきた。

「なるほど、あの黒い鞄――〈アイちゃん〉だっけ? あれは普通には開けられないものなのか」

 キーリンは、ヘイズの腕を背中側からひねり上げ床に組み敷いていた。

 ヘイズはケホケホと小さくむせる。抵抗しよう力を入れてみるが、ビクともしない。ただ、関節が外れそうなほど強引な押さえ方というわけでもない。

「ヘイズ君、成敗完了っと。エミルちゃんも逃げないで。抵抗しなければ痛くはしないから……」

「名前も知ってるってことは、私たちを狙ったのは、やはり偶然じゃありませんね」

「そのとおり。詳しくは話せないけどな。ところで―――」

 キーリンは、どこからか縄を取り出しつつ鋭い目つきで周囲を見渡した。

「シェルちゃんはどこ?」

 そのとき、近くのどこかの部屋で大きな物音がした。何かがパラパラと崩れ落ちる乾いた音が続く。

「エミル!」

 苦しい体勢のままヘイズが大声を上げた。

「音のする所にシェルと〈アイちゃん〉がいる! 早く行って!!」

「分かりました!」

 エミルはすぐに走り出した。

「あ、待てっ!」

「隙あり」

 キーリンが駆け出すエミルに気を取られた隙をついて、組み敷かれていたヘイズは拘束を逃れた。ヘイズはキーリンに一撃だけ見舞うと、身を翻しエミルの後を追った。


 少し距離をとってその戦いぶりを眺めているエミルに追いついたとき、パッと見ではシェルが優勢のようだった。息もつかせぬ勢いで攻撃を繰り出すシェル、防御に徹するデゼルト。

 しかし、ヘイズはすぐに様子がおかしいことに気がついた。

「そんな軽い攻撃、何度繰り返しても意味はないぞ!」

 デゼルトの言葉はハッタリではないようだった。確かに、攻撃している側のシェルの方が苦々しい表情をしている。

 ヘイズは隣のエミルに目配せする。一足先に戦況を見ていたエミルが説明する。

「言葉での挑発に見事にかかってしまっている感じですね。凄い動きであることに違いないんですけれど、感情が先行するとやっぱり単調になりがちで、相手に読まれやすくなっていますね」

 ヘイズは、デゼルトの行動に相手の長所を潰す戦略性を感じた。実戦経験が皆無に等しい自分たちとの差を痛感せざるを得ない。

「シェルには効果てきめんっぽいね」

 ヘイズの言葉にエミルは苦笑を返す。

 しかし、それでも二人のぶつかり合いが激しいことは紛れもない事実だった。なぜそんなにスタミナが続くのかと言いたくなるくらいシェルは俊敏に動き続け、対するデゼルトもうまく威力を削ぎながらかわしたり受けたりしている。両者ともに決め手に欠けるように見えた。

 ヘイズは、シェルの戦いぶりを見ながらも、意識は全方向に向けていた。キーリンはすぐに追いついてくると思っていたが、一向に現れない。そのせいで、シェルに加勢するべきか待機して備えるべきか判断に迷った。

 シェルがどの程度戦えるのか分からないことも問題だった。相手の能力と同じくらい、シェルの能力も未知だということに改めて気付かされた。

 ただ、結局は〈アイちゃん〉が重要なので、最終的に取り返せるのであれば、いま無駄に消耗する必要はなかった。最優先されるのは、見失わないでチャンスをうかがうことだ。

 そのときだった。

「デゼルト、来い! こっちから脱出するぞ!」

 キーリンの声がどこかから聞こえる。姿は全く見えない。

「あいよ!」

 デゼルトはシェルの小さな身体を弾き飛ばすと、反転して駆け出した。

「逃がしちゃダメだ!」

 ヘイズは走り出した。

 デゼルトは、部屋と部屋を隔てていた壁にあいた大穴を通り抜け、声がした方に走っていった。キーリンほどではないが、身のこなしは軽やかで、多少の障害物があっても減速することはない。

 シェルはそれを同じルートで追いかけ、ヘイズとエミルは部屋に面した廊下に沿って追いかけた。廊下の方が障害となるものは少なく走りやすかったが、デゼルトの右手を並走する形となり、距離はなかなか縮まらない。

 デゼルトは、背後からシェル、隣の廊下をヘイズとエミルがついてきていることを確認する。シェルについては、追いつかれないよう手に触れたものを後ろに投げて失速させる。

「デゼルト! 早くしろ!」

 ヘイズとエミルからキーリンの姿は見えなかった。その代わり、前方に曲がり角を見つけた。左に直角に折れて、その先がどうなっているのかは分からない。ただ、キーリンの声はその先から聞こえるし、デゼルトの進行方向とも重なる。

 曲がり角にはすぐに到達した。ほぼ真横の位置を走っていたデゼルトの方に曲がる。

 部屋の連なりはそこで途切れ、ルートは交わり、空間が広がった。

 デゼルトは数メートル前方を走っていた。遅れてシェルが走っている。シェル、ヘイズ、エミルの三人は合流した。

 そして、キーリンの姿も視界に入った。

 建物の中にしては妙に広く見えると思ったら、目の前の床と天井に小さな部屋一つ分くらいの大きな穴があいていた。現在地が二階なので、その穴は一階から三階までの吹き抜けになっているということだ。

 キーリンは、その大穴のふちに立っていた。穴の中に注意を払いながら、〈アイちゃん〉を背負ったデゼルトを急かしている。

「あの穴を下りて脱出する気だ!」

 このアパートは天井高が低めで、大穴の中の空間もあまり高度を感じさせるものではなかった。礼拝堂の屋根と比べても、高低差はかなり小さい。

「デゼルト、取り敢えず投げてよこせ! 先に脱出する!」

 デゼルトは走る速度は落とさず〈アイちゃん〉を投げた。見た目より遥かに軽いこともあり、しっかりキーリンのもとに届いた。

 キーリンは〈アイちゃん〉を背負うと、そのまま大穴を飛び降りた。数秒遅れて、デゼルトも飛び降りた。

 それからさらに数秒遅れて、シェル、ヘイズ、エミルも大穴に飛び込んだ。

 事前に眼下をじっくり観察するゆとりはなかったが、一階の床には土埃が舞っていた。キーリンとデゼルトが着地したときに巻き上げられたのだろう。視界が悪い。

 ヘイズは落下しながら違和感に気付いた。

 先に下りていたキーリンとデゼルトは、大穴を挟んでフロアを支える柱の近くにそれぞれ立っていた。その手は、ロープを握っていた。ロープは柱の裏に回り込んでいるように見えた。

 キーリンの表情が見えた。必死に逃げる先程までの表情は残っていなかった。今はただ、勝利を確信した笑みがあるだけ。そして、落ちてくる三人に向かって言った。

「ハハッ! これは大漁だぜ!!」

 キーリンとデゼルトは、二つの柱の中点、すなわち三人の予想落下地点に向かって走り出した。二人の握ったロープの続きが、一階の床に積もった砂の下から現れる。柱の裏側を通ったそれは、大穴の下に潜む何かを引きあげた。

「しまった!」

 ヘイズは声を上げるが、空中で進行方向を変えることはできない。シェルとエミルも事態を把握する。

 それは網だった。市場にも並んでいた目の細かい漁網を袋状にしてつくったトラップ。

 砂埃を上げながら現れたそれは、キーリンとデゼルトが両端から引いたことでせり上がり、落下してきた三人を飲み込まんとした。

 同時に上の方でも大きな音がした。しかし、真下で展開されるトラップを凝視しているので、そちらを見ることはできない。

 ほぼ真下に、ロープを引くキーリンとデゼルトが見える。そして、二人との間に大きく広がる網があった。外側が引き上げられて壺のようになっている。三人はその底に吸い込まれていく。

 視界の端の方で、大きな物体が落下するのが見えた。薄汚れたソファーだった。細いワイヤーが巻きついた状態で、大穴の中に落ちてきたようだ。

「なんだあれは?」

 キーリンが落ちてきたソファーに注意を向ける。

「あいつらだ! 逃げろ!!」

 デゼルトは、ソファーよりさらに上に視線を投げると叫んだ。同時に、〈アイちゃん〉を背負ったキーリンを蹴り飛ばした。

 キュイイイン!

 瞬間、ソファーに巻きついているものと同じ種類のワイヤーが一階の四方八方に出現し、ヘイズたちを飲み込もうとしていた漁網トラップは、巻き戻しするように上下の向きを反転させた。巨大な生き物が、その巨大な口で地面を這う獲物を吸い込むように動く。デゼルトのいる真下の空間は、あっという間に飲み込まれた。

 ソファーは落下の勢いを失い床すれすれでぶら下がって揺れている。不意を突いてデゼルトを飲み込んだ漁網トラップも床から浮き上がり、完全にその口を閉じていた。

 事態を把握できないままギリギリのところで難を逃れたヘイズたちは、砂埃を巻き上げ一階の床を踏みしめ、大穴を見上げた。



   *



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る