旅の仲間(仮) -06-


 最初はただ不思議だった。

 境界線はなかった。

 いつもの遊びの延長だった。

 いくつかある定番の遊び場を出発し、領域を広げていくワクワク感。

 未知が覆っていた世界を自分の中に取り込んでいく。

 その方法は至ってシンプルだった。

 知る。

 ただそれだけで、その場所は俺たちの場所になっていった。

 派手さはない。

 けれど、ワケもなく夢中になれた。

 唐突に話しかけられる。

 ――ねえ、ここどこ?

 ――分からないのか?

 しょうがないヤツだな……と思いながら、後ろを振り返る。

 視界を捉えた瞬間、息が詰まるような感覚。

 目を見開いた。

 来たときには、白線が引かれているみたいに、しっかりと辿るべき道が見えていた気がした。

 なのに、今、そこには何も見えない。

 踏み越えた瞬間すべて蒸発して消えてしまったみたいだった。

 威圧的に密集する木々―――知らない場所だった。

 しかも、知っている場所に隣接する知らない場所ではない。

 知らない場所に完全に囲まれた知らない場所。

 いつもとはまったく違う。

 まずは不思議だと思った。

 こんなに違うのに、その境が分からなかったことが、ただ純粋に不思議だった。

 どこかで、知っている場所から知らない場所に変わったはずなのに。

 目隠しをされたまま歩き、気付いたらここにいたみたいだ。

 ――ねえ、戻ろうよ。

 ――そうだな。

 知らない森であっても、ここまで来たのだから、知っている道があるはずだった。

 でも、実際には違った。

 知っている気がするたくさんの道があって、しかもその道は同時に知らない気のする道だった。

 そんなはずはない。

 頭の中に浮かんだ言葉は、怖いくらいに反響する。

 立ち止まったら得体の知れない何かに捕まる気がして、必死に歩いた。

 手掛かりを探すため、視線を落ちつきなく彷徨わせ、しばらく歩き回った。

 ふと距離が広がっていることに気がついた。

 ――どうした? 急がないと……。

 振り返ると、片足を引きずっているようだった。

 足元に寄って見ると、靴ずれで皮膚がめくれていた。

 痛そうだった。

 ――大丈夫か?

 見上げた視線とすれ違うように、涙が一滴落ちてきた。

 ―― ……じゃない。大丈夫じゃないよ。

 悔し泣きはあっても、こういう泣き方を見るのは初めてだった……と思う。

 とにかく、びっくりした。

 びっくりしていると、本格的に泣き出してしまった。

 辺りは段々と暗くなってきていた。

 遠くで鳥が騒ぎ出した。

 こちらまで何故だか無性に泣きたくなってきた。

 意識して堪えないと、涙がこぼれ落ちそうな気がした。

 でも、そんな様子を見られたくないと思った。

 だから、素っ気なく言った。

 ――おぶって行ってやるよ。

 手も足も頭の中もめちゃくちゃだった。

 痛いし疲れたし、その場でしゃがんで目を瞑ってしまいたかった。

 でも、そこで目を瞑ったら、間違いなくこぼれてしまう。

 ――ほら……早くしろよ。



  *



 ザッザッザッ。単調な足音が続く。

 背後からは荒い息づかい。単なる人肌とは違う異質な熱量。

「シェル、大丈夫か?」

「私は大丈夫……。クロノこそ、休憩もせずに大丈夫?」

「ああ、大丈夫だ」

 本当は、そんなに大丈夫ではない。立ち止まったら膝がガクガクしそうだから歩き続けているだけだ。それに、シェルの症状の悪化が、直接的に伝わってきていた。シェルは相当辛いはずだった。だから、進める限り進まなくてはいけない。

 前後の三人についても同様だ。定期的に声をかけて気にかけてくれてはいるが、自分たちだって疲れていないわけではない。精神的な焦りは疲労感を増幅させる。繊細なバランスが崩れれば、たちまち推進力を失ってしまうだろう。

 本来なら休息が必要だった。でも、シェルを背負っていて速く歩けないぶん、歩く時間を長くするしかない。そして、宵闇はあらゆる方向から刻一刻と迫ってきていた。完全に暗くなれば、明かりを灯して無理に進むとしても、条件は格段に厳しくなる。

 落ち着き払ってはいるが、みんな徐々に不安感を隠せなくなってきていた。どこまでも続くと思われる道に、段々と暗くなり狭まる視界。気持ちだけが先走る。

 クロノは、昔、セントケージの森で迷子になったときのことを思い出した。

 あれは恐らく初等部の頃。調子に乗っていつもより遠出をしてしまったときのことだ。

 後から考えると、本当は大したことのない森だったのかもしれないが、それでもあのとき感じたものは鮮明に記憶している。

 息が詰まるような圧迫感。森というのは、ほんの少し暗くなっただけで、どうしてこれほどまでに様変わりするのだろうと思った。一人だったら、たぶんあの場でしゃがみこんでしまっていただろう。

 あのときはリナで、今回はシェルか―――。

 クロノは、背中の少女の重みを感じる。それこそが、この状況における貴重な推進剤だった。

 クロノは、気持ちを引き締め直す。そして、前後の様子に気を配る。

 三人とも、息が切れているわけではないので、体力的な問題はないように見えた。先頭のエミルは、地図を小まめに確認する。急激に薄暗くなってきたので、かなり見にくそうで、少しでも明るい所を通ると凝視している。

 クロノは、あとどのくらいの道のりなのか尋ねたかったが、返答次第ではみんなのモチベーションに悪影響を及ぼしかねないのでやめた。しかし、そんなクロノの気持ちが通じたのか、エミルが口を開いた。

「みなさん、ちょっと止まってもらって良いですか」

 後続の四人は、エミルの近くまで行って緩やかに停止した。そこは、頭上に枝が張りだしていないため、地図をしっかり読むことができるようだった。

 エミルは、注意深く方位を確かめ読図してからみんなの顔を見た。

「体力的にきつい人はいますか?」

 互いに顔を見合わす。疲労感はあっても、身体が動かないという人はいないようだった。

 ただ、エミルの言葉を待つ表情には、微かな不安感が見てとれる。

 エミルは、背中で鞄の形状になっている〈アイちゃん〉を下ろし、その手で無限の容量を誇る収納ボックスから物体を取り出し始めた。薄靄うすもやのように曖昧で独特な発光ののち、棒状の何かが握られていた。

「これはライトです」

 エミルは、一つ点灯して見せた。それから、一端に通してある紐をクロノの首にかけた。ミスティーとヘイズにはそのまま手渡した。

 20センチほどの円筒形で、紐につながっている側の数センチを除き、全体から光を発している。紐につながっているところがスイッチのようで、本体を引っ張ることでオンとオフが切り替わるようだ。

 エミルは、ライトを持ってこちらに背を向けた。ライトの発光部分を握って本体を捻じるように回転させると、光が先端部に集中し遠くまで照らせる。その光は、しばらく地面を辿るが、突然途切れる。闇の中にぼんやりと光の筋をつくる。

「実はですね、距離的にはかなり良い所まで来ているんですけれど、このあと最後の難所があるんですよ。本当は、ライトなしで通れるようにしたかったんですけど、ちょっと間に合いませんでしたね」

 道が途切れて見えるのは、そこから傾斜が急になるためだった。

「クロノさん、シェルの様子は?」

「大丈夫……とは言えないな。早く医者に診てもらった方が良い」

 シェルは呼吸を整えることに必死で、会話をする余力はなくなってきている。

「シェル、もう少しの辛抱だ」

 シェルは答えるかわりに、クロノに触れていた右の掌に力を入れた。

「分かりました」

 エミルは、ここから国境ゲートまでの道について説明した。

 街道は今、オヴリビ川から少し離れているようだが、ここから左旋回し、高度を急激に下げながら河畔に接近していく。そして、河原にかなり近い高さまで下がり切ると、あとはアップダウンもほとんどなくなり、しばらくして国境ゲートが現れるらしい。

「クロノさんは、シェルの様子を見ながら可能なペースで下ってください。くれぐれも無理はしないように。他の三人は、周囲でサポートをしていく感じで」

 急斜面が始まるところまで一緒に行き、クロノが一歩前に進み出て、進むべき方向にライトを向ける。

 岩と樹木がランダムに配置された急斜面を、細かく蛇行しながら細い道が続いている。遠くまで見通せるわけではないが、見る限りでは確かに難所だった。

 しかも、背中のシェルのことを考えれば、できるだけスピーディーかつソフトに攻めたい。これは、かなり神経を使うミッションだ。

「シェル。できるだけ衝撃がないようにするけど、舌を噛まないように注意しろよ」

 エミルが先陣を切って進み始める。そして、あまり間隔をあけずにクロノも続いた。

 足場の不安定な下り傾斜は、想像以上に膝に来た。着地するたびに、かなりの荷重がかかるのを感じる。

「クロノ、あんまりブレーキかけない方が良いよ。下半身全体で衝撃を吸収して、上半身は斜面に平行に移動していく感じ、できればペースは一定のまま。止まるときが一番エネルギーを使うからね」

 背後から、ヘイズのアドバイスが入る。クロノは、言われたことを意識して進んでみる。慣れてくると、膝への負担が軽減され、同時にスピードも保てるようになった。着々と身体が蝕まれていくことに変わりはないが、それでもかなりマシになってきた。

 とりあえず、国境ゲートまでもてばいいんだ。そうすれば、あとはどうとでもなるだろう。

 岩を抱え込んだ太い根っこに足を取られないよう細心の注意を払う。自分の吐く息が白く広がるのを見ながら、とにかく無心で下っていく。

 身体が感触を覚えてくると、ほとんど駆け下りるような速度を保てるようになっていく。膝はピリピリして、感覚は少しずつ麻痺してくるが、逆に余計な力は入りにくくなる。本当に必要なときだけ力を入れて減速する。

 しばらくそんな調子で進んでいったところで、クロノは、自分の膝の感覚が本格的に気になってくる。ダメージはやはり確実に蓄積しているようで、その消耗が限界に近づきつつあることが分かった。強く踏み込めるのは、せいぜいあと10回。

 ペースを上げた分、ゲートまでの残り距離は急激に縮まったはず。ここで力尽きても、あとは他の誰かに任せられるだろう。俺にしては十分過ぎる貢献度だ。

 最悪でも誰かに任せられると考えると、気持ちには僅かばかりのゆとりができる。だからこそ、行ける所まで行こうと思える。

 可能な限りうまいルートを取り、減速による膝の消耗を抑えていく。しかし、それでもついに10回目のブレーキをかけることになる。止まった瞬間、膝が悲鳴を上げる。むしろ、立っているだけでも殊勲ものだと、クロノは自画自賛してみる。

 自分の身一つでもないわけだから、止まれないなら一歩を踏み出してはならない。だから、クロノは、必ず止まれると自分に言い聞かせ、確信を得てから、次の区間に挑む。しかし、何て事のない段差ですら骨に響く。クロノはそのたびに歯を食いしばった。

 前後を行く他の三人も、そんなクロノの様子は把握しているので、もしもの場合にはすぐにサポートできる距離を保っている。むしろ、今すぐ交代を申し出ようかとも考える。しかし、残り距離やシェルの様子を考えれば、できるだけこのままクロノに進んでもらうべきなのは明らかだった。

 周囲に転がる岩のサイズがより巨大なものとなってくる。地上に見えている所だけでも、人の背丈の数倍あるようなものが複数見られる。逆に、樹木の数は減ってきて、しかもほとんどが幹の細い低木となっている。

 頭上を覆うものがなくなってきて、空を広く見通せるようになる。もうすっかり夜だと思っていたのに、進む方向にはまだ残照のグラデーションが見てとれた。上層に浮かぶ密度の低い雲が、橙から紫までの淡い色彩を見せる。より夜が濃くなってきたあたりには、一つ二つと星が輝きだしていた。

 巨石の隙間を進みながら、ふと、その傾斜がだいぶ緩やかになっていることに気がついた。足腰への負担も少なくなってきて、幾分余裕が出てくる。

 そのときだった。先頭を進むエミルが、立ち止まって両耳に両手をかざす。それから、勢いよく目の前の大きな岩を回り込んだ。

 クロノもそれを一定のペースで追いかける。

「あ……これは」

 鼓膜に何かが触れる。それは、木々を揺らす風の音ではない。これは―――。

 視界が突然開けた。

 それまで目を瞑っていて、今まさに瞼を開いたかのように、見える空間が突如として広がった。森を抜け、巨岩の隙間を抜けきったのだ。

 すぐにミスティーとヘイズも追い付いて、クロノと同様の反応をする。

「川ですね」

 街道と比べると河原はさらに一段低くなり、暗がりでよく見えなかったが、流水の音ははっきり届いてくる。

「あともう少しです」

 足元は、小石混じりのただの平坦な道になっていた。

「クロノさん、最後まで行けそうですか?」

「ああ、この調子なら行ける」

 難所は越えても、シェルを早く連れて行かなくてはいけない状況に変わりはない。先を急ぐ。

 傾斜地を下るような速さは出ないが、それでも可能なペースを維持する。

 そして、河岸に沿った緩やかなカーブを越えたところで、ついに目的地が見えた。

「国境ゲートだ……」

 平坦な場所が狭まったところに、石の壁のようにそそり立つ国境ゲートが見えた。全貌はよく分からないが、セントケージの壁のような規模で、数カ所に火が灯っている。

 もはや喜び跳ね上がる元気は残されていない。緊張感がなくなりその場で潰れてしまわないようにするだけで必死だ。

「こういうのは、見えてからが意外と長いんですよね」

 歓迎すべき状況に水を差すようなミスティーの言葉も、今は逆に緊張感を保つための金言に聞こえる。

 こういうものは、早く着いて欲しいと思うほど中々到着できない。クロノは無心で歩みを進めた。足元だけを見る。

 すると、突然辺りが明るくなった。

 何事かと思い視線を上げると、国境ゲートの上部から投光機を向けられたようだった。すっかり夜になってしまった街道を強く照らし出す。

 投光機は、クロノたちの速度に合わせて角度を変えていく。見える範囲が広がり、かなり歩きやすくなる。感謝しながら、首から下げていたライトを消した。

 国境ゲート付近は、石畳になっていた。そこに立つと、目の前の大きな扉の上部から声がした。

「セントケージの学生か!?」

「そうです!」

 エミルが代表して答えた。それから五人分の名を名乗り、すぐに扉が開かれた。

 扉が開き切るより前に、中から人が出てきた。格好から察するに衛兵だと思われるが、意外と簡素な装備だった。

「随分と遅かったな」

 クロノたちは、曖昧な返事をしつつ、不思議そうな顔をしていた。衛兵はそれに気付いて説明をしてくれる。

「ああ、そうだな。実は昨日の内にセントケージから通達があったんだ。それで暗くなってきたから、本当は逆に辿って探しに行きたかったんだが、学生が街道を行く場合は、ゲートに辿り着くまで助けないよう言われているんだよ」

 キャニーの一般住民はゲートを越えてセントケージ領内に入ることはできないが、国境ゲートの職員は認められているということも、あわせて説明された。

「これから、国境を越える手続きをしてもらうことになるが………背中のその子は大丈夫か? あと君も」

 衛兵は、シェルとクロノに気をかける。

「いえ、あまり……」

 エミルが手早く状況を説明すると、衛兵はすぐに他の職員を呼んだ。特例措置で、クロノとシェルは監視役をつけた上で先にキャニーに入ることが認められた。他に付き添い一名まで可能で、残りは正式な手続きに立ち会うよう告げられる。

 監視役の人は、大柄だが見るからに温厚そうな男で、クロノの代わりにシェルを抱えようとする。しかし、シェルはそれを拒む。

「じゃあ、僕が交代しようか」

 そう言ったヘイズのことも無視してクロノにへばりついた。

「お前……意外と元気じゃないか」

 まだ元気というには程遠いが、死ぬほど辛いという状況は脱しつつあるようだった。

「ま、最後までおぶってやるよ……」

 そのやりとりを見ていたミスティーが進み出る。

「付き添いは私が行きますよ。ヘイズ先輩は、エミル先輩と手続きをお願いします」

 ヘイズは了承する。

「分かった。それじゃ、二人を宜しくね」

「了解です」




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