セントケージ・スカーレット -02-
ここセントケージ学園は、この国の子供たちが受けるべき教育のうち、中等教育課程と高等教育課程を担っている。各エリアの学園分校が担う初等教育課程と同じく、いずれも四学年で構成されている。
全生徒が学園の敷地内に居住する全寮制。つまり、この国に住む十一歳から十八歳くらいのすべての人間が、常時滞在しているわけだ。数としては膨大になる。
広い敷地内には巨大な校舎や多くの学生寮、その他の関連施設群が点在し、日夜それぞれが与えられた役割を果たすことで、全体として巨大な学園を機能させている。
クロノは高等部の二年なので、当然今いる場所は高等部二年の校舎である。そして、高等部一年の校舎は、そこから百メートルくらい離れたところにある。立ち入りを制限されているわけではないが、本来なら他の学年の生徒が入ってくることなどまずあり得ない。
しかし、クロノを強引に走らせている少女――シェル・ポリフィー――もまた、先程の銀髪の少女と同じく、高等部一年のバッジをつけていた。
「一体なんだってんだ」
クロノは呟いた。
状況があまりに意味不明過ぎて、逆に怒る気にもならないが、とりあえず状況を理解したいという気持ちはあった。
しかし、事態が終息というゴールを完全に見失っているのだということは、すぐに思い知らされることとなる。
高等部二年の校舎は、教室を出ると廊下があるのだが、その廊下は四階の天井から一階までのすべてを貫く巨大な吹き抜け空間に面している。ちなみに、吹き抜けの向こう岸には、また廊下があって教室が並んでいる。
吹き抜けはとにかくデカいので、所々に空中回廊とでも呼ぶべき通路が横切っている。峡谷の吊り橋よりは頑丈だが、高度感はなかなかのものだ。
そして、吹き抜けを見上げると、長く続く巨大な空間の天井部に連なる天窓が見える。天窓が占める面積は相当なもので、多くの光を招き入れることができる。そのおかげで、天候にさえ恵まれていれば、日中、照明をつけなくても校舎内は十分な明るさが保たれている。
クロノは少女に引きずられるようにして廊下に出ると、天窓から降り注ぐ太陽光に目を細めた。
「いた!」
クロノの襟首を離そうとしないシェル・ポリフィーは、廊下の手摺りから身を乗り出すようにして、一つ下の階の廊下を走る銀髪の少女、ミスティー・シンプスを発見した。
しかし、直線距離はかなりのものだ。無駄に大仰な構造のせいで遠くまで見通すことはできるが、真っ直ぐそこに辿り着けるわけでもない。
「かなり遠いな。あれは追い付けないぜ」
クロノは、諭すように事を荒立てないように宥めるような口調で言った。
「うるさい。黙って道案内しなさい」
また間髪いれずに単純明快な返答。
どうやらコイツには、上級生を敬うという概念はないらしい。そして、ついでに言えば、黙って道案内っていうのは無理だろう。
「ほら、もう見えなくなっちまった」
すでに視界から銀髪は消えていた。
「五秒待ちなさい」
少女は、どこから取り出したのか、シーツのような大きな白い布をバサッと広げ、それを頭から被って体に巻いた。
廊下を行き交う善良な一般生徒たちも、只ならぬ空気を感じてか、足を止め始める。
そんな中でも、少女に動じる様子は見られない。てるてる坊主のような格好になったまま、モゾモゾと変な動きをする。そして、その足元に制服がパサリと落ちてくる。
パサリ、パサリ、パサリ……。
続け様に各種衣類が落下してくる。制服だけじゃなかった。それはもう、はっきり言ってしまえば全部だ。
断言しよう。ヤツは今、あの中で間違いなく全裸になっている!!
「お、おい……こんなところで何を?」
ここ、廊下なんですけど……。
クロノがそう言おうとしたときには、すでに変化が始まっていた。
瞬きする間もないくらいの一瞬だったが、その一瞬をなんとか視覚的に捉えることができた。
白い布は急激に膨らむが、そのシルエットはもはや少女のそれではない。そして、布は覆い隠していた秘密を解き放つ。
はじめから多少の距離をあけて様子を窺っていた生徒たちは、直感的に危険を察知し転げるように離れた。
そうか……、だからさっき教室で悲鳴が上がって壁に大穴があいたのか……。
などと、クロノは自分でもびっくりするくらい冷静に目の前の状況を分析していたが、それこそが動揺の証なのかもしれない。
圧倒的な質量感と独特のフォルムが、天窓からの強い自然光を背に受けて浮かび上がる。
赤銅色の金属光沢を放つ鱗に覆われた体表に、力強く艶やかな黒翼。
かくして、目の前の少女はドラゴンになった。
その巨躯には廊下が窮屈なようで、首を畳むような体勢になっていた。それでも天井に背中がぶつかり、割れた照明具の破片がバラバラと落ちてきた。周囲で、悲鳴にも似たざわめきが聞こえている。
お伽噺や伝説にありそうな光景だとクロノは思った。変化の詳細を見ることはできなかったが、それでも少女=ドラゴンという事実のみは確実だった。
クロノは、視線をドラゴンの身体に沿って上げていく。堅牢な体表の下に潜む筋肉組織は、ほとんど鉄筋に等しい強度を誇っているに違いないと思った。
そして、角状の突起物がある頭部。人間の空想の産物であるドラゴンには、当然のことながら様々な外見のバリエーションが存在するわけだが、その中でも多くの人が共通して思い描きそうな、これぞドラゴンという感じだった。肉を好みそうな爬虫類に、さらなる攻撃性と威圧感を足していったような。
確かに、規格外の存在感ではある。しかし、少なくともじっとしている分には殊更に恐怖感を煽るような印象は受けない。どちらかというと、赤ん坊が泣き出す横で子供たちが目を輝かせ熱狂する、そんなタイプの造形だ。
クロノは、赤銅色の鱗に囲まれたドラゴンの目を見据えた。それは、理性を吹き飛ばし破壊衝動に駆られ猛り狂った獣のそれではなかった。眼光こそ鋭いが、その雰囲気は人間の姿とさして変わりないようにも思えた。
クロノは口を開く。
「ナ………ナ………」
口を開いたは良いが、発するべき言葉を用意できていなかった。クロノは自分で思っているほどには冷静じゃないらしく、何をどう言って良いものか、とっさには分からなかった。
ドラゴンになったシェル・ポリフィーは、怯むクロノを前足で乱暴に掴んだ。
ゴツゴツした皮膚の感触と、殺傷力の高そうな鉤爪に捕えられ、クロノはかなり本気でビビる。そして、ようやくスイッチが入ったように喚き始めた。
「え……うぉい! ちょっとタンマタンマタンマ!!」
クロノの言葉は完全に無視される。
シェル・ポリフィーは、その巨体で壁や廊下やロッカーや手摺りを盛大に破壊しつつ、翼を限界まで広げた。
そして一振り。
たった一振りで巨大な翼は空気の塊をとらえ、その反動で巨体を浮き上がらせた。骨組みが歪んだ廊下の手摺りを越え、そのまま広い吹き抜け空間に飛び込むと、ハングライダーのように滑空を始めた。
中空を加速しながら滑り落ちていき、校舎のワンフロア分くらい高度が下がると、羽の向きを調節して空気を分厚く受け止める。そして、失速し体勢が崩れそうになる直前に大きな羽ばたき。一瞬で高度は回復し、同時にスピードも増す。
その加速感は、クロノがいままで体験したことのないものだった。
渡り廊下を至近距離でかわし、また二三度の羽ばたき。打ち下ろした羽の反動で、天井に吸い込まれそうな浮上感。
クロノは、廊下で一様に驚愕している生徒たちを、どこか夢見心地で眺めていた。
激しく動いているわけでもないのに、周囲の景色をどんどん追い抜かしていく。
その迫力に圧倒された。素直に驚嘆していた。
感動した。いや、マジで。冗談抜きに。
「こ、これが……お前の魔法か? すげぇ」
いろいろな魔法があるということは、もちろん知識として知っているが、ここまで派手なものは知らなかった。これは、本当にやべぇ。
クロノはただただ驚きながら呟いた。
すると、ドラゴンは答えた。
「コスプレよ」
はい?
クロノは、一瞬聞き間違えかと思ったが、聞こえた言葉を繰り返した。
「コ、コスプレ???」
「そう。私、コスプレだけは得意なの」
野次馬が群がる渡り廊下を飛び越える。ドラゴンの背中が天窓を擦る。
「いやいやいや、全然意味分かんないんだけど!?」
ドラゴンは、少女の声であからさまな溜め息をつく。
「だから、これはドラゴンのコスプレよ。すごい完成度でしょ?」
やたらと自信に満ちたトーンで言う。
な……何を言っているんだコイツは?
「いや、魔法だろ?」
「もっと高尚なものよ。分かりやすく言えばコスプレ」
「おい、だって羽、動いてるぞ?」
「私はディテールまでこだわるタイプなの。羽の動かないドラゴンはコスプレ道に反する」
「な……」
いろんな意味で返す言葉がねぇ。
もういいよ何だって。つーか、俺の感動返せ!
「ところで、このまま進むとどうなる?」
「はい?」
クロノは視線を進行方向に向ける。吹き抜けの終点にそそり立つ壁……を見下ろすというレアなアングル。
「あの壁の向こうは植物園だ」
「そう」
シェル・ポリフィーは、クロノを掴んでいるのとは反対の拳を突き出す。
「え? 何、まさかこのまま進むのか!?」
「文句あるの? なら、逆の拳を突き出すまで」
クロノを握りしめた拳が突き出される。まともに風を受ける。物凄い風圧だ。
「ダメそれ俺死んじゃう! 普通に圧死するから!」
「やったことないでしょ? 案外死なないかも」
「俺、か弱い人間なの! ていうか、とりあえず止まれよ! 話はそれからだ!」
「ドラゴンは急には止まれない……なんちって」
「いや、待て! とりあえず落ち着け! ていうか、人間に戻れよ!!」
クロノの制止は完全に反故にされ、広げた翼を豪快に一振り。巨体は力強く加速し、壁は恐ろしい速度で目の前に迫る。
「ギャァァァァァァァァァァ!!!!」
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