セントケージの魔法使い

須々木正(Random Walk)

 

第1章 セントケージ・スカーレット

セントケージ・スカーレット -01-


 柔らかい風が心地良い、四月の終わり。

 遠くにそそり立つ山並みは、まだしばらくの間、白銀の衣を纏っているのだろう。なんとなく気楽に眺める分には美しいし、心が潤う気がする。ただ、行ってみたいとは思わない。実際に行ったら、百歩歩くより先に命尽きることだろう。正直、かなり自信がある。

 一方で、ここセントケージの街は、まさしく春爛漫。あちこちに美しい花が咲き乱れ、独特の軌跡を描く蝶が舞い、人々の目を楽しませている。でも、あんまり追い続けると、不思議と眠くなってくる。この催眠効果は侮れない。

 雪解けの清水を集めながら雄大に流れるオヴリビ川に面した狭い台地に、この街はある。

 都市国家セントケージ。

 頑強な城壁に囲まれた街は、同時に国でもある。ほぼ円形の小さな国は、散歩気分で歩いても反対側まで半日とかからない程度の広さだ。

 そんなセントケージの街のど真ん中を占めるのが、セントケージ学園。

 城壁内の土地のうち、占める面積はおよそ十分の一。万を超える学生たちの集う巨大教育機関であり、都市国家セントケージの政治に影響力を持つオブザーバー機関でもある。

 セントケージ学園の暦は、四月に始まる。

 そういうわけで、新しいクラスでの生活もおよそ一ヶ月が経過。探り合いはそろそろ落ち着いてきて、各々が徐々にあるべきポジションに収まり始める時期。

 最初のうちは毎日の一瞬一秒が刺激的だったわけだが、その刺激もやがて薄れ、すべてが平和的に回り始める頃合い。ひと通り授業に慣れ、先生に慣れ、教科書にも慣れて、要領を得てくる。

 そんなぬるま湯のような空気を、至高のものと感じる男がいた。

 クロノ・ティエムは、本日最後の授業が終了のベルに向けてざわめき始めるのをバックミュージックに、窓の外を眺めていた。高等部二年二十八組の窓辺を誰よりも堪能していた。

「平和だ」

 凄腕シェフの渾身の一品に舌鼓を打つように、深く味わいながらその言葉の感触を確かめた。

「俺の時代だな」

 状況によっては野心に溢れる台詞だが、クロノが言うとまったく何の毒気も力も持たない呟きになる。

 教室では、先生が〈魔法〉の何たるかを切々と説いていた。

 この学園の生徒は、恐らくはほぼ全員が〈魔法使い〉と言われる種類の生き物だ。しかし、健康診断をしてもタイプがはっきりしないほど微小な力しか認められない場合も多く、個人差は激しい。

 魔法を使って面白いことができる生徒など、ほんの一握りだ。クロノは、そんな一握りから零れ落ちた多数派の一人だが、そういう生徒にとって、魔法を熱く語られても真っ直ぐ受け止めることは難しい。学習意欲を上げるのは至難の業である。

 そろそろ教科書を閉じるか。

 教室のざわめきでベルが鳴るまでの残り時間をはかり、窓の外から視線を戻そうとしていたときだった。


 ――――。


 誰かが自分に話しかけてきた気がした。

 誰だ?

 クロノは周囲をキョロキョロと見回す。

 ちょうど同じタイミングで、授業終了のベルが鳴る。

 先生は何の未練もないと言いたげな足取りで、無駄な動きなくいつもどおり教室を後にする。すべてのタイミングが毎度見事なまでに一致しすぎていて、デジャブのようだ。

「ハイ!」

 声と同時に、クロノの頭をパコンと何かが叩く。

 勢いがあったらしく、なかなか良い音はするが、物理的なダメージはない。

 それは、丸めたノートだった。後ろの席から、リナの声がした。

「アンタ、いま最後の方聞いてなかったでしょ。先生、それなりに重要なこと言ってたわよ」

 リナ・ディフィーヌ。

 春の風に揺らめく黒髪ポニーテールは、席の前後が逆なら机の上の掃き掃除にもってこいだ。まあ、実際にやったら罵声と拳の集中砲火になりそうだけど。

 リナとの付き合いは長いが、同じクラスになったのは今年が初めて。すぐ後ろの席ということもあり、別に頼んだ覚えはないのだが、何かと世話を焼いてくれる。

 リナはつっけんどんな口調で、丸めたノートを押しつける。そんなプリプリするなら放っておけよ、などとは言わない。

 だいたい魔法なんて、できないやつはできないわけで、それを全員に等しく教えようとするのが間違っている。持たざる者には持たざる者の教育を。

 ……と、思いはするものの、これも言わない。

「おー、サンキュー」

 写す分量が多くないので、そのまま体を百八十度回転させて、リナの机の上に自分のノートも並べた。

「邪魔。自分の机でやれ」

 リナは、口ではそう言うものの、跳ねのけたりということはしない。

 クロノは、この手の厚意を遠慮なく厚かましくもれなく受け取ることにしている。その様は、ご厚意コレクターと言える域にまで達していた。どんな些細な厚意も逃さない。

 とまあ、兎にも角にも、ラクして飄々と生きていくことに関しては、クロノの右に出る者はそうそういないのだ。そして実際、釈然としないところはあっても、学業である以上本当に疎かにできるわけでもない。

 クロノは、自分のノートの上にペンを走らせる。

 リナのちょっと雑な字面が、より整然とした形でコピーされていく。ペン先から放出されたインクは、優れた指揮者のタクトのような動きで滑らかな線を成していく。

 授業中に同時進行で板書を写すよりも効率的だというのは、クロノが自信を持って主張できる持論だったが、本当に主張してしまうと誰も写さしてくれなくなるので言わない。

「最終的にアンタのノートの方が見やすくまとまっているっていうのが、癪に障る」

 クロノはあと少しで写し終えるというところで、ペンをピタリと止めた。

 ペン先に出過ぎたインクが小さく溜まる。

「? どうかした?」

 リナは怪訝そうに様子を伺う。

「いや。なんだか……」

 クロノも同じくらい怪訝そうな様子で返答する。

 そして、右手をおもむろに動かし、窓の外に伸ばして掌を天に向けた。

「別に今日は雨降らないと思うよ」

 今日は本当に爽やかで穏やかな天候だった。

 適度な風と適度な湿度も含め、まったくケチのつけようもない晴天。

 雨粒がその手に触れる可能性など、誰の目から見ても皆無だった。

「俺もそう思う」

 クロノも率直に所感を述べる。嘘偽りなく、本気で雨なんか降らないと思う。

「どうして……」

 クロノが何かを言いかけたところで、上の方から大きな地鳴りのような音が響いてきた。

 振動で、教室の机や椅子がカタカタと音を立てた。

「え……まさか、カミナリ?」

 リナが、立ち上がって窓越しに空を見上げようとしたそのときだった。

 何かが空を切る音。


 ひゅるるるるるるるるぅぅぅぅぅ~。


 何かそれなりに大きさのある物体が視界に入ったと思った次の瞬間、それは、クロノが伸ばしていた右手をはっしと掴んだ。

「うんぎゃああああああああああ!!」

 クロノは、盛大な悲鳴を上げた。

 腕は落下速度を受け止めきれるわけもなく、体ごと窓の外に引きずり出されそうになる。

 ちなみに、ここは三階。落ちたら無事では済まない高さだ。

「クロノ!」

 リナはほとんど反射的にクロノの腰を抱え、全力で引っ張ろうとする。しかし、勢いが速すぎて、かろうじて窓枠に片足をつっかえて支える格好になった。

 リナほどの運動神経の持ち主でなければ、もはや一旦停止もなかっただろう。

 とは言えクロノは、窓の外に腰まで乗り出した状態。

「いや、マジ死ぬって!!」

 圧倒的な高度感と解放感を味わわせてくれる超スリリングな体勢。振り返ると、リナのスカートの中の縞々が丸見えだった。でも言わない。

 この状況で、お前全部丸見えだぞ、お前ももう年頃の女の子なんだからちょっとはそれらしい振る舞いってものを云々かんぬん……などと言ったりでもしたら、そのまんまそれが俺の遺言になってしまう。

 そんな遺言は勘弁、とか思いながらも一応凝視しておく。危機的状況ではあるが、これはそれなりにおいしい状況ではあるなゲヘヘ……って俺、大丈夫か?

 ちょっと落ち着け、俺!

 そんなことを考えている一瞬のうちに、クラスの男子たちもリナに加勢する。

 落下の心配がなくなってきて、平静を取り戻したクロノは、ようやく自分の右腕にぶら下がっているものの正体に気がついた。

「こんにちは」

 そこには、長い銀髪に碧眼の少女。ぶらーんとぶら下がりながら、何を考えているのか分からない気だるそうな眼差しをクロノに向けている。

「そして、失礼します」

 少女はクロノの腕を掴み直すと、何の遠慮もなくグイグイよじ登ってきた。

 グイグイグイグイ。

 あー、きっとこのコは木登りが得意なんだなー。いや、そんなことはどうでもいいな。

 再び不安定な格好になり、後ろでクラスメイトが頑張っているのがよく分かる。

 だがしかし、女の子はお構いなしとばかりに、ほとんど逆さで宙づり状態のクロノの身体を這い上がる。

 そして、さっさと窓から教室に乗り込んだ。

「助かりました、クロノ・ティエム先輩」

 女の子は、あまり表情を変えずに、形式的な一礼をした。名乗っていないクロノの名を告げて。

「このコ、知り合い?」

 ようやく引きずりあげられ生還したクロノの耳元で、リナが尋ねた。

 いや……知らない。

 確かにそう言おうと思ったのだが……。

「ミスティー・シンプス」

 何故か、クロノの口から女の子の名前が出てきた。

 クロノは、そんな名前の女の子に会った覚えはなかった。そして、そもそも、その固有名詞が目の前の女の子の名前だという事実も知らなかった。いや、今も知らない。

 しかし、そこには根拠のない確信があった。

 目の前の銀髪碧眼、ちょっと幼い顔立ちで小柄な少女の名前は、ミスティー・シンプスだ。

「では」

 ミスティーという名の少女は、くるっと背を向けると、廊下に向かって走り去っていった。

「今のコ、高等部一年のバッジをつけてた」

「……そうか」

 クロノは、今の一瞬のうちに起きた出来事をうまく理解することができなかった。

 リナの言葉に生返事で答える。

「どういうつながり?」

「いや、だから、初対面だって」

「でも、互いに名前を知っていた」

「いや、俺、名前知らなかったし」

「ミスティーなんとかって、あのコの名前でしょ?」

「いや、あのコの名前なんだけど……」

 あああ~! 意味わかんねえ!!

 クロノは、頭を抱えるジェスチャーで、その感情を表現しようとした。

 全然わかんねえー。ホントにもう……なんか真っ暗だ!

 ???

 真っ暗?

「キャー!!」

 クラスで女子の一人が悲鳴を上げる。その視線はクロノの背後に向けられていた。

 暗い。

 あんなに晴れていたのに暗い。

「アンタ、さっさと逃げなさい!」

 リナがクロノの腕を強引に引っ張った瞬間、教室の窓側の面に亀裂が入り、砕け散った。ガラスの破片やら破砕した石材のかけらやらが飛び散った。

 爆撃されたかのような音と衝撃。若干のタイムラグを経て、巻き上がっていた小さな破片がパラパラと教室の床を叩いた。

 クロノは、恐る恐る立ち上る土煙の方を見る。誰か……おそらくは女の子が立っていた。

 外から差し込む光が空気中に舞っている微粒子を照らし、彼女の背後に何本もの光の筋をつくっている。

 やがて、外から微かに吹き込む風に塵が流され、徐々に色合いがはっきりしてくる。

 これまた高等部一年のバッジをつけた女の子だった。緋色の長髪と勝気な瞳が、壁にあいた大穴の向こうに現れた青空に映えていた。

 いつの間に……どうやって……。

 いや、普通に考えれば、窓の外から来たんだろうけれど。

 しかし、どう見たって、一五○センチそこそこくらいにしか見えない少女が開けられる穴ではないし、少女の周囲にはこれだけの破壊力を発揮しそうな物体は見当たらない。

 何が起こったんだ?

「ミスティー・シンプス」

 女の子は言った。

 特定の誰かに向けて言ったわけではないのだろうが、一番近い位置にいたクロノが、その場を代表して言葉を受け取った。

「さっきの銀髪の女の子か。アイツならもう教室を出て行ったぞ」

 女の子は、クロノの方をきっと睨んだ。

「え……俺、なんか気に障るようなこと言った?」

 クロノは、蛇に睨まれたネズミのような気持ちで、後ずさりしようとした。しかし、その前に、女の子に襟首を掴まれる。

「道案内して」

 女の子は走り出した。

「え、ちょっと待てよ、オイ!」

 体勢を崩しながらも、こけないようにクロノも走り出した。

「お前、いったい何なんだよ」

「私は、シェル・ポリフィー」

 女の子は、間髪いれずに答えた。一瞬一秒を惜しむように、無駄な言葉は挟まない。

 そして、教室の扉をくぐった。


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