5章 こときれ

「――三原さん。

 どうぞ……」

九十九つくも堂>の引き戸を開けて、れんげはちょうど着いたところだった守弘を招いた。

 守弘は制服から、黒のライダージャケットとジーンズという格好になっていた。

 ヘルメットをふたつと、ディパックを持っている。

 陽はすっかり落ちていた。

 れんげは先日買ったばかりの服――丈の短めのシャツワンピと細めのジーンズを重ねたシンプルな着こなし――に着替えている。

 守弘を入れて、店を施錠してかられんげは奥に守弘を招いた。

「おぅ小僧、遅かったな」

 ――中にはすでに瑞、とれんげが呼んでいた少年、それに狸のままの茂林がいた。

 守弘はスニーカーを脱いで居間に上がり、その面子を見回す。

「適当にお座りください。

 ――三原さん……」

 れんげは守弘のぶんのお茶を用意しながら、頭を下げた。

「私たちのことに巻き込んでしまって、申し訳ございません。

 やはり他言無用でお願いします」

「それはいい、けど……どういうことなんだ?」

「はい。

 説明……します」

 れんげは湯飲みを座った守弘のすぐ前の卓上に置いて言った。

「――まず、付喪神については先ほど申し上げました」

「あぁ、あの女の子がどうとか――」

 言って、守弘はぐるりともう一度見回して、茂林と目が合った。

 茂林は憮然としていた。

「なんやねん」

「いや、落ち着いて考えてみると面白いな。じゃあモリンの正体は何なんだ?」

「アホっ、ワイは正真正銘、由緒正しい変化狸や!」

 れんげが補足する。

「茂林は本人の言う通り、狸が長い年月を生きて妖力を得たものです」

 そこでれんげは言葉を切って、守弘をまっすぐ見ていた視線をさまよわせる。

「――いつまで迷っとんねん、れんげちゃん。

 この期に及んで自分だけ隠すんはムシがよすぎや」

 茂林がビシッ、と言う。

「そ、そうですね。

 ――三原さん」

「ん?」

「私も……

 ――私も、人間ではありません」

 れんげはそれでも言い澱んだものの、守弘の目を見てはっきりと言った。

「――そっか」

 守弘は妙に冷静だった。

「古い腰鉈が姿を変えたものです。

 すみません」

「謝らなくっていいって。

 ――じゃあ、そこのエラそうなガキは?」

 守弘はどう話していっていいか判らなく、とりあえず気になっていた疑問を投げるように瑞を見た。

「瑞さまは――」

 れんげは瑞を見た。瑞は「好きにせい」とお茶を一気に飲み干してれんげにおかわりを注がせる。

「瑞さまは、護法童子――いわば私たちの上司です」

「ごほう……どうじ?」

「その昔、暴れていた付喪神を倒しに来られた――要は人の云う、鬼ですね」

「――え!?」

 守弘はれんげの言葉をしばし咀嚼してから、目を見開いて瑞から十数センチ距離を広げた。

 さっき茂林が言ったのは誇張でも何でもない。

「マ……マジ?」

「ええ」

 れんげは何でもないことのように頷く。

「鬼って、あの鬼だよな……」

「ええ、その鬼です」

 れんげは守弘が両手の人差し指を頭の上に、角のように立てたのを見て頷く。

 守弘はそおっ、と瑞を見る。

 瑞は意にも介していないように目を閉じてお茶をすすっていた。

 れんげが話を続ける。

「私は、この瑞さまの下で、現世に生まれ人々に害をなすものを鎮めることを生業としています」

 守弘にもようやく情報のピースが集まってゆく。

「そ……そっか」

 全員をそれぞれ何度も見る守弘に、れんげは頭を下げた。

「隠していて、その――すみません」

「いや、謝らなくっていいってば。高野は人の世のためにやってるんだろう? 人間じゃない、って言われてもピンとこないし、怖いとかはない。

 ――それより、俺に手伝えることはないか?」

 守弘はまっすぐな瞳でれんげを見て言った。驚きは見せていたが、真実を得て混乱はあるが納得し、そう思うに至ったようだ。

「三原さん?」

「あのスピードを追っかけるんなら――俺のバイク使うか、何か作戦立てたほうがいいと思うけど、どうかな?」

 瑞が声を上げて笑った。皆一斉に瑞を見る。

「面白いな、小僧」

「瑞さま!?」

「我は傍観するさ。それとも、我に任せるか?」

「!?

 ――いえ、私がやります」

 れんげは瑞の力を知っている。この鬼がやる気になれば、すぐに解決するだろう。

 しかしそれでは――れんげのいる意味、、がない。

「小僧、言うからには何か、策があるのだな?」

「あ、ああ。

 ――あのスピードで好きに走り回るのを追うのはツラいからな、逃げる方向を誘導して追い込む」

 まだ戸惑いながらも守弘は、ディパックの横ポケットから使い込まれた姫木市の道路地図を取り出して、みかんの入った籠を脇に寄せて卓上に広げた。

 れんげと茂林、そして瑞がそれを覗きこむ。

「今――ここだ。

 で、あいつらがどこに行ったかは……判る?」

 瑞がまた笑う。

「最初から頓挫しておるではないか。

 ――茂林」

「はぃ」

「一度接したのであれば、解るだろう」

 茂林は素直に頷いて炬燵の上に飛び乗った。

 地図のそばに座り、目を閉じて鼻先で地図を嗅ぎまわる。

「――走り回っとるけど、たぶん――ここや。戻っとる」

 茂林の前脚が置かれたのは、先ほどの公園だった。

「好都合だ。公園で捕まえられたらいいし、逃げられたらルートをこっちで誘導してやればいい」

 守弘は赤ペンで公園を丸く囲んだ。

「向こうに土地勘はないだろうから、細い道に行ったりしないだろう」

「誘導――ですか」

「何か仕掛けられればいいけど……」

「弱いものであれば簡単な『払い』の結界を張れますが」

「『払い』?」

「標識のようなものです。近付くと『この先にはあまり行きたくない』と思わせる程度ですので、強引に突破できますが」

「先にダメージを与えれば効果ありそうだな。それでいい」

 瑞が守弘を見る。

「小僧はこの町、長いのか」

「ああ。生まれたときからずっとここで育ったし、ガキの頃からチャリで走り回ってる。バイク便のバイトもしてるから、裏道も近道も詳しい」

「地の利はある、ということか。

 ――して、どこへ追い込もうという?」

「逃げ場のない一本道でそんなに広くなくて人の邪魔にならない――ここだ」

 そう言って守弘が公園から線を伸ばしてゆき、ペンで差したのは、ひとつの山の麓だった。

 山道がぐるぐる登っていく入口にあたるその場所には、地図上では信号がある。


『姫山口』


 地図に青地白抜きの字で、そう書かれていた。


□■□■□■


「三原さん――ありがとうございます」

 結局守弘も一緒に囲んだ夕食を終え、お茶のおかわりを注ぎながら、れんげは言った。

 茂林は蛙と少女の気配から意識を外さない様子で、守弘の地図の上に座って目を閉じている。

 眠っていないのは時々愚痴のように呟いているので明らかだ。

「いや、これからが勝負だし、礼言うのは早いよ」

「それだけではありません。

 その――私たちのことも」

 れんげは守弘を、炬燵を挟んで正面に見ていた。

 傍らには小さなリュックと、膝の上には独鈷杵。

 乾かして結いなおしたおさげ髪は近くだとふわりと微かに甘い香りが漂い、守弘の平常心を乱そうと手ぐすね引いている。

「まぁ、なんだ――人と変わりないじゃないか、高野って」

 守弘は照れたように言う。

「それにまだ、高野が人じゃないって信じられてないトコもあるし……でもそれは、正直どっちでもいい、かな」

「そう……ですか?」

「俺はね」

 茂林が二人に寄ってくる。

「そろそろ行こか」

 守弘は茂林を見て、何となく嬉しそうに笑った。

「前に、言葉が通じたら、って話したことあるだろ?

 何て言うか――バカな夢じゃない気になれて嬉しいんだ。こっちの思いが通じてくれるなら、やり甲斐もやる気ももっと出せる気がする」

「三原さん……」

「あ、そうだ。

 そういえば高野、ハンドルは判ったとして、あの黒い蛙は何なんだ?」

 れんげは首を傾げ、やや考え込む。

「そうですね……

 制服に付着した灰のようなもの、それに――茂林」

「なんや?」

「あの蛙に何を食らいましたか?」

「あれは……そやなぁ」

 茂林は首をのけぞらせ、その拍子に守弘と目が合った。

「なんや」

「いやぁ、モリン、お前さぁ」

 守弘は茂林の頭をぐりぐり撫で、茂林に前足で振り払われた。

「やめんかいっ!」

「あぁ、ごめんな。

 ――何ていうか、楽しいんだよ」

 守弘は言ったとおり、言葉を交わしあえることを喜んでいた。

「ったく、うっといねん。

 ――あれ、火とちゃうか? 炭が途中で弾けて爆ぜた、みたいな感じやったけど……

 そや、お前もなんか食らっとったな」

「あ~……俺のも火の粉みたいだったな。ほら、焚き火とか途中でぱしっ、て舞い上がるあれ」

「火、ですか……」

 れんげは自分の左手を見る。

 あの時の衝撃も冷静に思い出してみると、痛みではなく熱だった。

「火にゆかりのあるもののようですね」

「なるほどな。だったら、水でもぶっかけてみるか……」

 そこでふと、守弘はれんげを見直した。

「はい?」

 ちょうど、れんげと目が合う。

「あ……そういやさ、高野は何か――できるのか?」

「え!?」

「ああ、あの蛙の火みたいなこと。

 いや、何もなくてもいいんだけどな」

「……あの――」

「ん?」

「いえ、見てください」

 言ってれんげは、右の袖をまくり上げ、白くて細い腕を肘あたりまで出した。

「あまり使いたくはないのですけど……」

 れんげは左手で右腕の肘から指先までをなでる。

「っ!!」

 れんげの白い手は、手首あたりから無骨でやや反った鉈の刃に変わっていた。

「……刀の扱いは不得手なのですが」

 蛍光灯に反射して鈍く光る刀身に、守弘はさすがに驚きを隠せないが、

「――斬れる、のか?」

 頭では冷静に、作戦の修正を立てているように目つきが鋭くなる。

「ええ。一応は」

「ならちょっと使ってほしいけど……いいか?」

「何を斬るのでしょう」

 れんげは自信なさげに言いながら、右腕を人の手に戻した。

「そんなエグいものじゃないよ。ペットボトル……でいいと思う」

「何をするおつもりですか?」

「蛙にぶっかける水をどうしようかな、と考えてるんだ」

 守弘は言葉を切って、夕方のことを思い出そうとする。

「雨だったし、外側は平気なのかも――だとしたら口開けたのを狙って、か」

「なるほど、一気に水をかけるために――ペットボトルの口を切るのですね?」

「そういうこと。できそう?」

「それくらいなら」

 それまで静観していた瑞が立ち上がった。

「さて、我は特等席で見物するとしよう。

 ――れんげ、手は出さぬぞ」

「お願いします」

 れんげは頷き、守弘に言う。

「行きましょう、三原さん」


□■□■□■


 夜も深くなってきた公園は、ひと気なくただ薄暗かった。雨のやんだあとのしっとりとした空気が温度を下げ、肌寒さを感じさせる。

 れんげと守弘と茂林の三人(?)は公園内に入るなり、ゴミや食べかすが散らばっているその光景に呆気にとられた。ちなみに先程れんげが言っていた『払いの結界』はすでに仕かけてきてある。

 その最後のものを公園の出入り口にも施術してから、れんげたちは公園に入った。

「……なんというか、幼稚だな」

 バイクから降りてヘルメットをかぶったまま、エンジンを切らずに押して歩いていた守弘がぽつりともらし、ヘルメットのままに慣れないれんげはヘルメットを脱いで頷く。

 それを守弘に預けたれんげの左手には独鈷杵。街灯があるため、視界は悪いが真っ暗ではない。

「もったいないなぁ」

 茂林がふんふんと、鳥の骨らしい残骸の匂いをかいでいる。

「茂林」

「……わかっとるわい」

 茂林が顔を上げる。

「食い意地張ってるなぁ、茂林。さっき晩飯食ったとこじゃないか」

 守弘は茂林と会話できることを心底楽しんでいた。ヘルメットのせいでくもぐっているが弾んだ声がうかがえる。

「食うとらんやろ!

 ――そや、れんげちゃん、『とりほろ』忘れたらあかんで」

「とりほろ?」

 れんげがかいつまんで説明すると、守弘は爆笑した。

「なんやねん!」

「いや、ごめん――高野、明日俺が買ってきてやるよ」

 きゅぴーんと茂林の目が輝いた。

「ホンマやなっ!?」

「いいのですか?」

「ああ」

 まだ笑いながら、守弘は言う。

「さっきも言ったけど、嬉しいんだよ。

 例えばこいつ――」

 と、アイドリング状態のバイクを示して続ける。

「こいつにも、俺がレースで乗るマシンにも、心が通じたらいいっていつも思ってるし、なんか望み持てそうじゃないか。

 そう考えてたら人間かどうかなんてどうでもよくて、言葉を交わせることが嬉しくてさ」

 れんげは、守弘が彼のガレージで言っていたことを思い出す。


――こういう時、言葉が通じたら

いいのにな、って思うよ――


「だから何て言うか、知り合えた記念だ。

 茂林、俺は三原守弘だ。あらためてよろしく」

 言って守弘が出した右手に、茂林は右前足を乗せた。

「トリ、忘れんなや」

 れんげがそっと微笑みをこぼした、その時だった。

「何やら騒がしいと思うたら、またお前らか」

 れんげたちの前に、蛙が赤い目を爛々と光らせて立っていた。その後ろに少女が現れる。

「あっ!!」

「出たな」

 どこか楽しそうに守弘は言って、リュックから水の入ったペットボトルを取り出した。

「手はず通りにいくぞ、茂林――」

 ふと言葉を切って、にやりとしてから守弘は続ける。

「ウチにさ、貰い物のハムとかあるんだけど、俺一人じゃ持て余してるんだよなぁ」

「そんなん、ワイが処理したるっ♪」

 三人は蛙らとの距離を詰める。

「性懲りもなく来おって――何度負けても解らぬかッ!」

 蛙が怒鳴る。少女はというと、中腰になってれんげたちを睨みつつ、ほやっとした口調でれんげに尋ねる。

「どうしてあたしたちの邪魔をするの?」

「あなたたちが、人に迷惑をかけているからです」

 れんげは冷静に言って、蛙を見下ろした。

「あなたも!」

「けッ」

「この世に生まれ、長きに渡り使われた恩を見ず――」

「小五月蠅いわッ!!」

「きゃっ!?」

 蛙がれんげに飛びかかり、がばっと口を開ける。

「高野っ!!」

 守弘がペットボトルの口を下に向けてれんげに差し出した。

「はいっ!!」

 れんげは右手を鉈刃に変え、そのペットボトルの口から数センチの所を勢いよく斬り落とした。

 ミネラルウォーターが迸り、襲いくる蛙の口腔に大半が狙い違わず注ぎ込まれる。

「ぶぼッ!?」

 蛙がむせた。

「なッ……げほっ、何をするッ!!」

 れんげたちに何ら攻撃を与えることなく蛙は着地して咳き込む。その口から、灰色の塊がいくつも吐き出され、咳に合わせて白煙が途切れ途切れに上がった。

 茂林が蛙に襲いかかる。

「さっきはよくもやってくれたなっ!」

 前足で蛙を殴る。白煙を伸ばして蛙が数回転、転がった。

 夕方のときより明らかに弱っていた。

「予想以上に効果あったな」

「ええ。

 ――観念なさいっ!」

 れんげは右手を戻していた。守弘は空になったペットボトルを投げ捨てる。

「か……がはッ、す、するかっ!」

「――迷惑?」

 少女が蛙を抱き上げた。れんげは少女の緊迫感のない調子にいくらか脱力感を覚えながらも構えを崩さずに言う。

「ええ。あなたは――人に何の恨みがあるのですか?」

「恨み?

 走りたかったのに、走れなかったの。これも恨み、なんだって」

「ごほっ……

 左様。

 一旦立て直すぞ、走れぃッ!!!」

「う、うんっ」

 少女は蛙を抱き上げて、れんげたちに向かって真っ直ぐ走り出す。

「止まりなさいっ!」

 れんげは左手――独鈷杵を前に、右腕を伸ばして少女の正面に立ちふさがる。

「イヤっ! 走りたいのっ」

 少女の速度が早く、れんげとの間隔があまりなかったためにお互いに避ける余地はなかった。

 れんげと少女はどんっ、とぶつかった。間に挟まれた蛙がもう一度むせ、れんげと少女の服に灰を吐く。

 れんげが少女の左肩を掴もうとする――が。

「走らせてよっ」

 少女がれんげと密着したまま、地を蹴った。

「っ!」

 れんげが少女に弾かれた。少女は数歩うしろに転んだれんげを飛び越える。

「待たんかいっ」

 茂林が少女の足下に寄るが、少女は茂林を無視して走る。

 その先に守弘がいた。

「逃がすかっ」

 少女の進路にバイクを障害物代わりに垂直に向けて、守弘自身も腰を落とす。

 ――が。

 少女は正面から勢いよく守弘に当たった。

 受け止めようとした守弘はしかしその勢いに負け、かれてしまう。

 蛙を抱えた少女はさらにスピードを上げた。

「待ちなさいっ!」

 れんげが叫び、茂林が追った。

「茂林っ、ルートは解ってるな!?」

「任しとけっ!」

 守弘はバイクにまたがって、れんげにヘルメットを渡した。

「今のところ読み通りだ。茂林と――その結界ってのに期待して、俺たちは先回りしよう」

「ええ。

 ……ここで終わらせたかったのですけどね」

「そうそううまくはいかないよ。

 行こう」

 れんげはヘルメットをかぶってバイクにまたがり、横の取っ手を握った。

「三原さん、茂林は大丈夫です」

「おっ、わかるんだ」

「ええ、三原さんが巧く茂林の気分を乗せましたから」

「ははっ、やっぱりな。

 ――行くぞ」

「お願いします」

 守弘はじわっとアクセルを開いた。


□■□■□■


「――なあ、高野」

「はい」

 バイクを飛ばして先回りした二人は『姫山口』の信号そばに到着していた。

「ちょっと、聞いていいか?」

 信号は夜半になっていたからか黄色の点滅信号になっていて、人通りはなかった。すぐ近くにはガソリンスタンドらしい建物があるが、閉鎖しているようだ。

「……なんでしょう?」

「あの『自動車展』の誘いに乗ったのって――やっぱり『百年』ってのが引っかかったから?」

 守弘はヘルメットを脱ぎ、れんげのものも預かって、夜気に髪を遊ばせている。

 かなり言いにくそうに尋ねる守弘に、れんげもためらいがちに、だが正直に答えた。

「ええ。確かにそうでした。

 でも――」

「でも?」

「三原さんや国安さんとお話していて、人と関わることへの楽しさを少し、感じています」

「それって――」

「先日、国安さんに言われました。『深く考えないで、人生楽しまなきゃ』と。

 人でなくても、人生を求めることは赦されるのでしょうか」

 そこでれんげは急に、あっ、と口を広げた。

「どうした? 高野――」

「国安さんが夜にお電話くださる、って言っていたのをすっかり忘れていました……」



 ――翠穂は、くしゃみした拍子に携帯電話をとり落としてしまった。

 彼女の部屋で、ベッドに座っていたために被害はない。

「……なんで」

 携帯電話を拾いながら、翠穂は呟く。

「なんで、出ないのよっ」

 電話していたのは、れんげの家にだった。ところが<九十九堂>には現在誰もいない。

「ったく、もう……」

 れんげは携帯電話を持っていない。

「だからケータイ持ってほしいのに……」

 翠穂はぶつぶつ言いながら、ベッドに寝転がったのだった。



 れんげと守弘は、登りになる坂道の入り口で並んで蛙たちを待っていた。

 坂は十数メートルほど上るとすぐにカーブになっていて、センターラインがそこで切れて道は狭くなっている。

 じっとしていると、夜気の寒さが押し寄せてくる。守弘がぶるっと身を震わせてれんげを見ると、れんげは平然としていた。

「三原さん――私たちのこと、あんな風に言ってくださって……」

「ああ――あれな」

 守弘は照れくさそうに頭をかいた。

「本気でそう思ってる。さっき、高野の手が変わったのを見ても俺の気持ちは変わってない。

 それにさ、誰にも言わないよ。国安にも」

「三原さん……」

「第一、俺が言ったって信じてもらえないよ。フられたから適当なこと言ってるって思われるのがオチだし、そんなの格好悪すぎる。

 バラしたくないんだろう?」

「ええ。人として、生活したいのです。

 おこがましいですが」

「そんなことない、って」

 守弘は強く言った。

「高野が本当は人間じゃないとか、そんなことは俺はどうでもいいよ。

 どう言ったらいいのか――」

 その時、町側の道路が騒がしくなった。

「おっ!!!」

「待たんかいっ!」

 茂林の声。

「やった――来たっ!」

 守弘はバイクのライトで前方をかっ、と照らした。

 人の足ではありえない速度で疾走してくる少女が眩しそうに顔をそむけて急ブレーキをかけたようにききぃっ、と靴音を高く鳴らして止まった。その少女から蛙が飛び降り、怒りも露わにれんげたちに威嚇の声を上げる。

 その後ろから、茂林が追い立ててくる。

 守弘はリュックから取り出した二本目の、水のペットボトルのキャップを回しながらふと隣のれんげを見た。

「高野――あの子、ハンドルって言ってたよな?」

「ええ。まず間違いなく」

「俺が言ってみて、いいか?」

「はい」

 守弘に何かアイディアが浮かんだのだろう。れんげは即座に頷いた。

「じゃあ、これを」

 守弘はれんげにキャップを開けたペットボトルを渡してから、言った。

「高野。

 俺も国安と同意見だ。高野は『人生』を楽しめばいいと思う。

 それに俺は高野が人かどうかなんて関係なく――高野のことが好きだ」

「えっ!!!!」

 守弘の告白は照れ隠しなのか、先の言葉に付け足したようなあっさりしたもので更に早口気味だったが、れんげの心に強くゆっくりと、響いた。

 守弘はれんげに表情を見せたくなかったのか、そのまままっすぐ少女に向かう。

 れんげは、守弘の言葉を噛みしめながらも蛙と対峙した。

 れんげの中にほつりと、新たな感覚が生まれていた。

 人である、ということに上乗せされた、温かなものだった。


「なあ――君。

 あの車のハンドルなんだって?」

 守弘は腰を落として少女と目線の高さを合わせた。少女は守弘を見て首を傾げ、自分のことを思い出しているように視線をさまよわせたあと、こくんと首を縦に振った。

「そっか。

 知ってたかな。あの車、今度あそこの博物館展示の目玉でさ、デモ走行するようになってたんだ。それも昔のハンドル――つまり君を使って」

「――――えっ?」

 たっぷりと間を置いて、少女は聞き返した。走ろうという動きはない。

「さっき『走りたかった』って言ってたよな。走ったし。

 いいスピードだった。

 でも、君は、あのままでいて、走れたんだ」

「ええっ?

 ――走れたの?」

 守弘は頷いた。

「それが今はなくなった、って大騒ぎだ。

 君がこんなことしてなけりゃ、来週にはちゃんとした形で、大事に扱われて、走れたのにな」

「うそ……」

「嘘じゃない。

 ――なあ高野、化けてしまったその……付喪神、か? って、元の姿に戻れるのか?」

 唐突に守弘はれんげに尋ねる。れんげは茂林とで蛙を挟み討ちにした状態で隙をうかがいながら答える。

「無理です。

 変化するにはもとの姿を断ち切って、造化の神に新たな命を願うものですから」

 いくぶん、れんげの声に感情が混じっていた。

 少女はというと、守弘とれんげの話に、急速に理解が深まっていったのだろうか、ぺたんとへたりこんでしまう。自分の、人の形をした手を見つめ、守弘を見上げてぽつっと言う。

「あたし……もうこのままなの?」

「そういうことらしいな」

 少女は、れんげと睨み合っている蛙を見た。

「もう走れないと思ったから、あなたの話を信じたのに!

 騙したのねっ!」

「後日に使われることなど知らぬわッ!

 使われず放置され、今に至ったことは事実ではないかッ。悔恨の念はないのかッ」

 蛙は声を荒げる。

「あたしは寂しかったのよ!

 あなた、騙してあたしを連れ出して――そんなのって!」

 少女の瞳から涙がこぼれ出していた。

「あ~あ、泣かせよった」

 茂林が口を挟む。

「茶化すなよ、茂林。

 ――それで町を走り回って、人に迷惑かけて、いいと思うか?」

「あ……。

 あたし、迷惑だった――よね、そうだね。

 お兄ちゃん……あたし、どうしたらいいの?」

 守弘はもう一度、れんげに振り向いた。

「高野、ここからどうするんだ?」

「えっ!?」

「アホかヒロっ!」

 茂林が言う。れんげが守弘に気を取られたその隙に蛙がれんげに飛びかかろうとする。それを茂林が後ろから叩き落とした。

「ひ……ヒロ!?」

「おぅ、お前はヒロで十分や。

 だいたいなあ、ワイもれんげちゃんも、お前より一桁は年重ねとるんや。お前には年長者に対する敬意ってもんがあらへん」

 蛙の口にれんげがペットボトルを突っ込んで、上からは茂林が押さえつけていた。

 守弘は抗議の声を上げた。

「な……なんだそりゃ!?

 それと『ヒロ』は関係ないだろう!?」

「ええねん! 茂林とモリヒロて呼び方カブっとるんや! だからヒロや、ええな!」

「――ハム、帰ったら食っちまおう」

「ごめん、モリヒロくん」

 即答で茂林は頭を下げた。

 その、力の抜けた一瞬に蛙が跳ねる。

「なッ!?」

 茂林が跳ね飛ばされた。

 蛙はしかし反撃に転じようとはせず、脚力の限り遠く跳ね、閉鎖されたガソリンスタンドの方に逃げ出した。

 少女は両手で顔をおおっていた。

「れんげちゃんはあの子のほうや!」

 茂林が言い捨てて蛙を追う。

 頷いてれんげは少女に駆け寄り、抱きしめた。

「三原さん!」

「高野――悪い、あとどうしたらいいか解らなかった」

「いえ、十分です。ありがとうございます」

 れんげは守弘に言いながら、少女を抱き寄せ、頭を優しく撫でる。

 少女は鳴き声で言った。

「迷惑――かけてごめんなさい」

「もういいんですよ。やってしまったことの反省ができたなら、これから改めればいいのです」

「――どうしたらいいの?」

「これからは人を困らせず、み仏の教えを大切にしなさい。いいですね」

 れんげは腕の中の少女に優しく言い、発心ほっしん真言しんごんを小声で唱えた。

 少女は泣きやみ、素直に頷いた。



 蛙はガソリンスタンドから側溝に入り、溝を伝ってひたすら逃げていた。

 体の外側への水気は平気だ。だが中――口から濡らされると、そこから奥で燻っている炭や灰が駄目になってしまい、力は激減してしまう。

 二度目の水が致命的なダメージに近かった。

「くそッ――奴ら……ッ!」

 とにかくどこかへ逃げて、新たな火種を補充しなければならない。

 たきつけ、産まれたばかりのあの少女は陥ちてしまった。先に水を入れられてから火種の確保はできていない。

 用水路のようなドブのような悪臭の強いその溝を走って、蛙はどこへ行くか判らないまま逃げていた。

 力が落ちていることで、妖の気も弱まっていた。

 これでは茂林も、追うことは困難だった。


 ――蛙が頭だけ出して左右を見やり、追っ手がいなさそうなことを確認して溝から這い出たのはさきほどの山道入口から逃げ出して、数時間も過ぎた明け方だった。

「はあっ……はっ――ぁッ」

 息も荒く、蛙はフラフラになって夜明けの町に現れた。

 周囲は数棟のマンションが並ぶ住宅地だった。

 小鳥が朝を歌いさえずっている。

「許さぬ――許さぬぞッ!

 いずれ力を取り戻し、惑うことなき味方を得――!!!!」

 その時だった。

 上空から何かが蛙に襲いかかった。

「なッ!?」

 烏だった。片脚が焦げている。

「こらッ! お前ッ!? いつぞやの――がッ!!!」

 烏は激しく鳴き立て、弱っていた蛙を執拗に爪で引っ掻き、嘴でつつく。

「やめんかッ!

 ――!!??」

 蛙に、他の烏がもう一羽飛びかかった。

 更に一羽。

 片脚の焦げた烏の呼びかけに応じて集まったのか、続々と烏は増えてゆき、次々に蛙を攻める。

「がッ!! こらッ! やめッ!!

 っッっ!!!」

 蛙の絶叫はやがて意味をなさないものになり、烏たちの私刑は蛙が動かなくなってからも続けられた――

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