4章 節分と初戦

「忘れ物。

 れんげ、風邪ひくよ」

 翠穂が傘を二本、広げて持っていた。

「あ……」

「三原クンじゃなくてごめん。

 ――三原クン、何か呼び出しもらってた」

「あ、いえ、そういうことでは……」

 れんげは礼を言って傘を受け取る。

「れんげがこんなに慌ててるの、初めて見た。

 どうしたの?」

 翠穂は鞄を背負っていた。

 右手に自分の傘を持って、れんげを促して並んで歩きだす。

 雨滴が傘を軟らかく叩く音だけが二人の間に流れる。

 授業が終わってそれほどの間がなく、下校する生徒はまばらだった。答えに困ってしまったれんげと、それ以上の追及をしない翠穂は、会話のないまま校庭の脇から遊歩道を下る。二人そろって校門を出たところで、茂林が待っていた。

 二人を見つけると茂林は一度ぶるっと体を揺すって水滴を払い、きぃっと鳴いた。

 さすがに翠穂は驚く。

「おぉっ、狸!?」

 れんげがしゃがんで、茂林を傘の中に招いた。

「れんげの知り合い?」

「ええ。

 ――茂林、といいます」

「へぇ。お店のお爺さんと同じ名前?」

 翠穂もしゃがみ、茂林の頭を撫でる。

「れんげ、博物館に行ってみたいんでしょ」

「えっ!?」

「なんとなく判っちゃった。

 今朝の話でデートが心配になったとか?

 ――ね、一緒に行かない?」

「――いえ、すみません。

 ちょっと見に行きたいだけなので」

 れんげはお茶を濁した答えで断る。

 翠穂の指摘は『心配』の対象こそ違うものの外れではない。

「れんげ、密かに楽しみになってきてる?

 でも三原クンと下見はできないし、ね。

 ねぇ、ダメ?」

「それは……」

 れんげは困った表情を浮かべる。正直に言って断るには理由が曖昧で非現実的だ。

 茂林と目が合うと、茂林はぷいっと顔をそむけてしまう。

「ダメ?」

 翠穂が畳みかける。

「――すみません」

「じゃ、いっか。

 夜に電話するね」

 あっさり翠穂は引き下がった。

 しつこすぎないのがれんげにとっては助かった気分だった。

「すみません」

 もう一度れんげは謝る。

「いいって。

 じゃあね、雨だし、転んだりしないよう気をつけてね」

 翠穂は茂林の頭を再度撫でてから立ち上がった。



 雨の中、公園は――正確には公園に隣接している博物館の周囲は、ややざわついていた。人の出入りが慌ただしい。

「まだ、そのハンドルは発見されていないのでしょうか」

 不安が呟きとなって漏れる。

 れんげたちは公園に着いてまっすぐ博物館まで向かい、そのさまを見ていた。

「なんか……ピリピリしてるな」

 茂林が――狸のままだ――小声で言う。ふんふんと鼻を鳴らして周囲をうかがっている。

「準備中、ってのとはなんか違う」

「ええ……」

 そういう『空気』が漂っている。

「――おるで。判った。

 奥のほうや」

 茂林が鼻先を博物館の脇に向けた。

 出入口と、少し離れて駐車場があるようだ。

 れんげは頷き、鞄の中からおよそ女子高生とは接点のなさそうな、奇妙な形をした道具を取り出した。

 それは、中央が握られるようになっている。そこから両脇に突起が伸び、対称をなしている――云うなれば槍や銛の柄を省き、穂先だけを繋ぎ合わせたような形になっている。ただ突起部分も肉厚で刃状になっておらず、また先端も突き刺せるほど尖ってはいない。どちらかというと鈍器のように見える。

 握りの部分は仏像の蓮華座のように精緻な紋様が彫られたドーム状の円錐が対称に、細くなろうとしている部分を珠で繋がれている。

 独鈷杵どっこしょ、という。

 金剛杵と呼ばれる法具のひとつで、その剣先の形状で名称と意味が異なる。

 五本のものは五鈷杵といい、仏の五智(五種の智慧)を象徴している。

 三本のものは三鈷杵、仏の三密(身密・口密・意密の三つ)をあらわす。

 そして、一本のものは独鈷杵と呼ばれ、その意味するものは仏の慈悲――


 れんげに、瑞から与えられたものだった。


 それを左手に握り、れんげは博物館の建物の奥――裏口というか、正面とは違う出入口のある方向――に向かった。

 警戒しながら茂林もれんげに続く。

 雨足が若干、強くなっていた。


□■□■□■


 れんげは、ざわついている博物館に沿って歩いていった。ぱしゃぱしゃと茂林がその足下を追っている。

「……気が、騒いどるな」

 茂林がぼそっと言う。

「陰陽の変化でこの辺の気の流れももうワヤ、、や」

「そうですね……」

 れんげの、シンプルなネイビーの傘が揺れる。

 雨のせいで時間の感覚が判りにくくなっていたが、昼に学校を飛び出てからまだそれほど時間はたっていない。れんげは夕方くらい――黄昏時までに見つけられれば、とは思っていたが、日暮れにはまだ早い時間帯だった。

 広くともこの公園の敷地内に何かがいることは間違いない。れんげもそれはようやく知覚できていた。

 だが、茂林の言うように陰陽の気が混じり、混沌としている。その強い力の奔流の中からただ一体の妖物を探すのは困難だった。

 れんげと茂林は、博物館の裏手に近付いてゆく。

「おっ」

 茂林が不意に立ち止まった。

「どうかしま――!!」

 れんげも気付く。茂林がさらに姿勢を低くする。

「近いで……」

「ええ」

 れんげは独鈷杵を握り構えると同時に、変化のはじまっている陰陽の気を感じ取っていた。

 茂林はその中から微かに、違うものの気配を読みとっていた。れんげも感づく。

 が。

「この感じ――まさか、もう」

 陰陽の気渦――れんげには覚えのある力だった。

 人外のものやそれ以外のものを察知することは、そういう能力を持った者でもないと容易ではないが、漠然と空気の違いを感じる人は多い。稀にはっきりと識覚できる自覚のある人間もいるが、TVなどで有名にでもならない限りあまり歓迎される力でもないだろう。

『異質の物』と『異質の力』を区別して感じられる者となると、もっと少ない。

 茂林はもともと狸――犬科の動物であり、長い年月を越えて妖怪へと変じた存在だ。そういった感覚は、人より優れている。だからこそれんげは、茂林にこの探索を任せていた。

 今のここには、存在の気配よりもそれを覆っている力がはるかに大きい。

 れんげも知っている力だった。

 すぐ近くの茂みの奥。

 ――数百年前に、れんげ自身も包まれた力。

「そんな、今……!?」

『気』が凝縮され、高まってゆく。

「造化の、神――」

 さすがに、間違えようがない。れんげに緊張が走る。

「思っていたより早い――」

 れんげはほぞを噛んで独鈷杵を握る手に力を込める。

 鞄と傘を捨てて、右手で口元を覆う。

 雨はすぐにれんげを、髪も躰も服も濡らしはじめる。

 れんげは気にしない――いや、雨に気を配れない。

「――っ!」

『気』がぎゅっと飽和していた。ただの空気とは違う重い気が充満し、周囲を圧して膨張してゆき――


 ――ぱんッ!!


 弾けた。

「っ!!」

 れんげの記憶が断片的に蘇る。この姿を得た時、包まれていた気配と今のものが重なる。

「おそらく、生まれた――」

 茂林が低い獣声をあげて茂みを睨む。

「ああ、奥におる」

 気の集まっていた中心。れんげもその茂みに警戒を払い、緩めない。

 がさっ、と茂みが揺れた。

「あっ!?」

 れんげと茂林、同時に息を飲む。

 灌木を折って現れたのは、蛙だった。数日前に画面で見たとおり、ただ黒い。

「あなた――」

 子犬ほどもある――蛙にしては、やたら大きい。ひょこひょこ後足二足で歩くのはどこか滑稽でもあり、グロテスクでもある。

 目と、腹部が赤い。腹は不規則な模様になっている。

「――人間か」

 蛙が口を開く。低い、枯れた声だった。

 のしっと一歩、れんげたちに寄る。

 茂林がれんげの前に出て、蛙を威嚇する。

「ほぅ、変化狸か――」

 正面になった茂林に対して、蛙は不敵に笑った。

 じりっ、と茂林と蛙の距離が詰まり、無言で茂林が飛びかかる。


 ばぢんッ!!


「がッ!?」

 蛙の眼前で何かが爆ぜた。弾かれたように茂林は数十センチほど吹っ飛び、れんげの右横に転がる。

「茂林っ!?」

「他愛ないな」

 蛙は茂林をちらりと見て言い、ぺたりと更に一歩、近寄る。


 ぱしゃっ。


「人間――いや、お前は同類か」

「あなた、っ」

 れんげが身構える。

「いつ、何が変じたものかは判りませんが――他の道具を唆すこと、人の世をかき乱すこと、おやめなさいっ!!」

 強く言って、右手の甲で眼に入りかけた額の雨滴を拭う。

「長き年月使われた恩を仇で返すなど――っ!!」

「はン」

 蛙は鼻で笑う。

「捨てられた恨みを晴らさんとして、何が悪い」

 れんげの言を否定しない。

「捨てられるのも因果です。原因あってのこと。それを讐視しゅうしするのは逆恨みに近く――」

「因果、と――ふン、抹香臭いことをッ!!」

 蛙の口が歪にゆがむ。

「お前は同類ではないか。お前も何かから変じたということは、人間どもに打ち捨てられたのではないのかッ。

 その恨みはないのかッ」

「恨みはありません。生まれは確かにそうですが、それは過去のこと。

 今は菩提を求めています」

 れんげは独鈷杵の先を蛙から外さずに言う。

「こんな事を続けていれば仏罰が下ります。

 発心なさいっ!」

「――けッ」

 蛙は忌々しげにれんげの言葉を蹴り、雨滴が入ったのか痰を吐いた。

 炭のように真っ黒だった。

 蛙が跳ねる。

「つっ!!!」

 れんげが独鈷杵を突き出し、蛙が大きく口を開ける。

 蛙の口の奥に赤いものがちらちらとのたうっている。


 ばちっ!


「――きゃっ!?」

 れんげの左手が跳ね上がった。

 蛙が噛んだ――のではない。

 蛙は空中で一回転して着地しまたれんげと対峙する。

 ――と、蛙の背後ががさがさ鳴った。

 皆の注目が集まる。

 茂みの奥からおずおずと出てきたのは、ローティーンくらいの少女――に見えた。背丈も低く、顔立ちにも幼さが残っている。

 フリルとレースで飾られた淡い青のワンピースに、アジア人離れした白い肌と金髪碧眼。

 くしゅっと巻いた髪を柔らかく揺らして、少女は雨を気にする様子もなく蛙の後ろに立っていた。

 少女が呟く。やはり幼さのある高めの、だがハキハキした声だった。

「あたし……?

 これ、メル――? そっか、あたしはあなただったから、あなたの姿があたしの姿になったのね」

 この場の誰かに問うのではなく独り言だった。

 少女は少女の記憶に尋ね、記憶から答えを導いていた。

 れんげは悪い予感が的中したことを悟っていた。

「その子……まさか!?」

 少女はひとしきり頷いて自分の格好を確認していた。くるりと回ってワンピースの裾を広げ、蛙を見てにっこりと微笑む。

「さぁて、な」

 蛙は少女の様子を見てにんまりと笑った。

「お前らの相手は飽きた。相容れぬこともわかった。

 時間の無駄だ」

 少女が言う。

「あのお姉ちゃんは?」

「儂らを邪魔する連中だ」

 少女は、れんげを見上げた。

「……ったく、痛いやんけ、コラ」

 茂林がゆらりと起き上がった。憎々しげに言ってからぶるっと体を振って水を振り払って、れんげと少女と蛙を見比べた。

「れんげちゃん――遅かったんか」

「そのようです」

「お姉ちゃんはあたしの邪魔をするの?」

「邪魔はいたしません。

 その蛙の甘言に惑わされてはいけません――こっちへ来てください」

 蛙が少女のほうに振り返る。

「あの娘に付いていったらお前、走れぬぞ」

「そうなの?」

「ああ。走りたかろう」

「うん。でもちょっと、おナカすいてる……」

「ならば先ずは、お前の腹拵えに行こうぞ。

 走ってよいぞ」

「ん――うん」

 少女は小さく頷いて、ためらいなく軽々と蛙を抱え上げた。

「ま――待ちなさい!!」

「そう言われて待つ阿呆はおらぬわ」

 からからと蛙が嘲笑する。れんげは独鈷杵の狙いは蛙のまま、少女を見る。

 れんげは、この蛙が根源なのだろうと疑っていた。この少女も蛙の誘いがなければ、この姿にならなかっただろう。

 れんげは不意に悟った。

 ――蛙はこの少女の正体を知っている。

 れんげは朝の、翠穂と守弘の話を思い出した。

「もしやあなた――車のハンドル?」

 少女は首をかしげた。

「さぁ。存分に走れ」

 蛙がもう一度言う。

 少女はこくん、と頷いた。

「おいっ、こっち無視すんなや!」

 茂林が怒りを露わにする。

「相手してやるのもここまでだ、化け狸」

 蛙が茂林を見下ろしてにぃ、と笑った。

「待てやコラっ!」

「待たぬわ!」

 少女が一歩踏み出す。小さくて先の丸い、褐色で可愛らしい革の靴が水溜まりを割ってぱしゃりと鳴った。

「あなたっ」

 れんげは身構えなおす。

 蛙がその大きな口をがばっと開けた。

「……そら、ッ!!」

 蛙の口からぶあっと灰色のものが吐き出された。それは煙幕のようにもあっと広がると、あっという間にれんげたちの視界を奪う。

「わっ、何やこれ!?」

 軽い足音があっという間にれんげのそばから遠ざかってゆく。

「ま……待ちなさいっ!」

 返事はなかった。

「れんげちゃん、こっちや!」

 茂林が一足先に抜け出してれんげを呼ぶ。

 れんげは茂林を探して灰色の煙を抜けた。

 ぐっしょりと濡れ、灰色の斑に汚れていた。

 れんげを待っていた茂林が首だけ振って、蛙たちを見失った意を伝える。

「そうですか……」

 れんげが制服や顔に残っていた灰色のものを指二本でつまみ取って擦りあわせてみると、粒の粗いざらついた感触がべっとりと広がった。

「――灰?」

 雨に濡れた手が真っ黒になる。それは、煤が付いたのにも似ていた。


□■□■□■


「高野っ!?」

 鞄と傘を回収したれんげが公園の出口まで走ったところで、呼び止められた。

 守弘だった。

 制服の上にレインコートを羽織っている。

 傍らにバイクを連れて、れんげと茂林を見て驚きを隠せない。

「びしょ濡れだけど――高野、大丈夫か!?」

「私は何ともありません。

 それより三原さん、子供――黒い蛙を抱いた女の子を見ませんでした!?」

「えっ?」

 強い勢いで尋ねるれんげに、守弘はたじろぐ。

「あ、ああ。そういや見た……な」

「どちらへ行きました!?」

「あ――」

 守弘はつい数分前の記憶をたどる。

「あっちだった――な。駅の方」

「ありがとうございますっ」

「た……高野、どうしたんだ?」

 守弘が訝しむほど、れんげは見るからに焦っていた。

 すぐに走り出そうとするれんげの腕を掴んで止める。

「――あっ」

「ちょっと落ち着いたほうがいいんじゃないか?」

 れんげは、腕を振り払おうとしてしかし差し込まれた冷静さに従い、ゆるりと手を下ろした。

「ほら」

 守弘が自分のリュックから乾いた、綺麗なタオルを出した。

「すみません、三原さん……」

「子供? を追うのはいいけど、高野は本当に大丈夫なのか?」

 守弘は少女の去って行った方向を思い出したと同時に、その様子も脳裏に再現されていた。

「そういや高野、その子――嘘みたいなスピードで走ってたけど、ありゃ何なんだ?」

「っ!?

 ――それは……」

「言えないならそれでもいいけど――行くのか?」

 守弘はバイクのエンジンをかけてハンドルにひっかけてあった自分のヘルメットを取り、それから気付いたように苦笑した。

「メットがないな……」

「あ……」

 徐々に、れんげに落ち着きが戻ってきた。

 闇雲に追っても、さっきの二の舞になりかねない。

「とりあえず、駅まで歩くか?」

「ええ――すみません」

「謝らなくていいから。

 ――行こう」

 守弘はエンジンを切って、れんげを促した。

 足元には、茂林が付き従っている。



 れんげは色々考えて、少女を追うのにベターな選択を模索し、小さく溜め息を吐いてから唇を噛んだ。

「三原さん、さっきの子……『嘘みたいなスピード』とおっしゃっていましたが、そんなに速かったのですか?」

 れんげはバイクを押す守弘に並んで歩きながら言う。

「そうだな――二〇キロは出てたんじゃないかな。普通の人のスピードじゃなかった」

「昔の車というのも、速度は出たのですか?」

「ん?

 ――そうだな、世界初の自動車レースで時速十八キロ、って言われてる。あのデモ走行予定のは当時の先端技術で、最高時速八十六キロ出たらしい。それでレースに勝ちまくってたとか」

「八十六キロ……。

 ――三原さん、笑わずに聞いてください」

 具体的な数字だが、今ひとつれんげにはピンとこない。だが、人の出せる速度でないことは解る。守弘に渡された本にあった、原付の法定速度を超えていることも。

 れんげは覚悟を決めかけていた。

 れんげ一人では少女を追いきれない――それに、守弘を頼ったほうが早くに片を付けられそうだ、そう思っていた。

「あらたまって、どうした?」

「他言無用でお願いします。

 ――あの子は、人間ではありません」

「え?」

「おそらく、朝に教室で話題になってました、車のハンドル……」

「はぁ!?」

 守弘は吹き出しかけたがそれを何とか押しとどめた。

 れんげの真剣な表情は冗談を言っているようには見えない。

「どういうこと……なんだ?」

「――三原さんは、付喪神、というのをご存じですか?」

「つくも……がみ?」

「ご存じありませんか。

 百年以上経た道具などが魂を得て変化した存在、それが付喪神です。

 あの子はハンドルが化けたもの、そう考えてまず間違いないでしょう」

 守弘は戸惑った様子で、もっともな疑問を口にした。

「じゃあ、高野は――?」

「私!?

 私は……」

「追うつもり、ってことは――化け物退治のスペシャリストとか?」

 守弘に茶化す調子はない。

 現実的ではない話だが、守弘もあの少女を見ていた。人の足ではありえないような速度で走っていった少女は確かに、異様だっただろう。

「退治はしません。

 私はあくまで、人を恨み悪さをはたらくものを諫め、改心を導くだけです」

 れんげは真面目に返答する。

 守弘は頷き、少し笑った。

「やっつけないってのが優しくて、何となく高野らしくて、いいな」

「そんな……」

 ふと、二人の間に沈黙が訪れる。

 姫木駅までもうすぐだった。

「それじゃあ、高野は――」

 守弘が言いかけたときだった。

 何やら、駅のほうが騒然としているのが二人の目に飛び込んだ。

「あ!」「えっ!?」

 れんげも守弘も驚き、れんげが走り出した。

 れんげの水分を吸ってしっとり濡れたタオルが舞う。

「お、おいっ、高野っ!」

 タオルを取り、呼びかける守弘の足下を茂林が駆けてゆく。

 守弘はバイクのエンジンをかけ、飛び乗った。


 少女と蛙は、駅のそばのコンビニから飛び出して走っていた。少女はパンをくわえ、頬に生クリームをつけている。店員が追っているのにどんどん引き離してゆき、駅のロータリーをぐるりと周ってバス待ちの人の列を乱し、タクシーのボンネットから屋根に飛び上がり、車を屋根づたいに跳んでいって南側の商店街へと逃走していった。

 れんげが駅のロータリーにさしかかったのは、そうやって騒ぎが駅から離れていった時だった。

「腹拵え、と言っていた……」

 れんげはついさっきの蛙の言葉を思い出す。

 ――変化したばかりで空腹なのだろうか。

 れんげは追跡を再開する。茂林も必死に駆けるが、あの少女とはスピードが違う。

「どうしましょうか……」

「気配は追えるけど、追いつけんで、このままやと」

 茂林が周囲には聞こえないくらいの小声で応じる。

 商店街の入口でれんげと茂林は合流した。れんげはその後ろにバイクの音を聞き、守弘も追って来ていることを知る。

 が、商店街の入口には、最近れんげが勉強をはじめて覚えた標識があった。

 守弘がれんげに追いつく。

「――進入禁止ですよ、三原さん」

「くっ……俺は向こうに回り込むから、高野は正面から!」

「は、はい!」

 それだけ言って守弘は走り去った。

 れんげは商店街の地図を思い浮かべる。――途中に確か車も通れる道路が横切っている。守弘はそこへ回り込んで待ち伏せしようというつもりなのだろうか。

 茂林が先行して商店街に入り、れんげは急いで独鈷杵を再び鞄から出して握り、茂林を追った。

 ――少し先の定食屋の扉を吹き飛ばして、少女と蛙が現れた。

「止まりなさいっ!」

 少女が振り返ってれんげを見て、首を傾げた。蛙は少女の足下で同じくれんげと、駆け寄った茂林を見て威嚇の声を漏らす。

 少女の服は雨と泥と、食べかすやソースで汚れていた。

 ざわっ、とそれほど多くはなかったが周囲にいた人々が輪状に離れて二人と二匹を遠巻きにする。

「こらあっ!!」

 定食屋の主人らしい初老の男がフライパンを持って、少女らの背後に現れた。

「きゃ!!!」

 少女が驚いて振り向き、男の腕をすり抜けて飛び退いた。

「待ちなさいっ!」

 れんげも叫ぶが、少女も蛙も応じない。

 男の腕をかいくぐって、少女は蛙を拾って野次馬の輪に向かった。人々は少女を避けて輪を解く。

「食い逃げだっ!」

 男が怒鳴る。

 少女は切れた人の輪の間を抜けて走ってゆく。

 れんげはためらいなく、少女を追う。

「そこまでだっ!」

 少女の前に、バイクを止めて両手を広げた守弘が待ち構えていた。

 少女がたたらを踏む。

「構わぬ、行けぃッ!!」

 蛙が言って、口をかっと開いて守弘に向く。


 ばぢんッ!!!


 多数の赤い粒が蛙の口から吹き出し、守弘を襲った。

「わっ!? 熱ッ!! なんだこれっ!?」

 少女は、顔にかかるその粉を振り払う守弘を突き飛ばしてバイクを蹴り越えた。

 バイクがゆっくりと倒れる。少女はスピードを上げて走るのを再開した。

 バランスを崩して尻餅をついた守弘の所にれんげと茂林が駆け寄る。

「三原さんっ!」

「俺はいいから、あのガキをっ!!」

 守弘が言うが、少女の姿はぐんぐんと小さくなってゆき、れんげたちを追い越して追って行った定食屋の男も体力の限界か、目に見えてペースが落ちていっているのがうかがえた。

 追いつけない。

 れんげは、すとんと路上に腰を落としてしまう。

 更に濡れてしまうことも気に留まらない。

 蛙の何かの力と、少女の速度になす術がなかった。

「いえ……何か、何か手が」

 きりりと呟く。

 そこに、一人の少年がれんげたちの側までつかつかと歩いてきた。人混みの中から出てきたのだろうか。

 来るなり一言、言い放つ。

「無様だな、まったく」

「えっ!!!」

 れんげはその声に驚いて振り返った。

 無造作に歩いてきた少年は十~十二歳くらいだろうか、さっきの少女とほぼ同年代に見える。長袖のTシャツにジーンズと、どこにでもいそうな格好に、短くした髪を天に向けた剣山のようなツンツン頭。

 目付きの悪いまなざしがれんげを見下ろしている。

「あ……ぁぁ」

 れんげは、腰の力が抜けてしまうのを感じる。

「なんじゃ、我がおるのがそれほど意外か」

 からりと笑う声も口調も、十歳程度の少年のそれではなく、低く古めかしい。

 れんげが見るからに狼狽しているのと、それを睥睨へいげいする少年を守弘は不思議そうに見比べる。茂林は尻尾を腹の下に入れ、やはりその少年を畏れている様子で一・二歩下がる。

「たまにはお主の様子も見に来たくなる。ぽっかり暇ができたのでな、ちょっとした余興よ。

 ――なにやら苦戦しておるではないか」

「……瑞、さま」

 れんげはようやくそれだけ言った。

「高野、このガキ知り合いか?」

「えっ!!??」

「アホっ! 無礼な事言うたらお前……死ぬでッ!!」

 茂林が思わず守弘に突っ込み――周囲の空気が凍りついた。

「モリン……!?」

「……あ!!」

 れんげは深く長く溜め息を吐き、瑞と呼ばれた少年は二人と一匹を見て、弾けるように笑った。

 その声にすっかり散っていた野次馬の人々がれんげたちをまた見る。

 守弘は道路に座り込んだまま、茂林を指差す。

「も……モリン、お前、喋れるの……か!?」

 ――その時、クラクションがれんげたちの邪魔をした。守弘のバイクは車道にかかっており、座っていたれんげも含めて、通行を妨げている。

 慌てて守弘はバイクを起こし、道を空けた。れんげたちもそれに従って車道から離れたところで、少年――瑞が言った。

「れんげ、茂林、店に戻るぞ。

 そこの小僧も来い」

「こ……小僧っ!?」

 守弘は公園からここまでのあまりの現実感のなさに、混乱を隠せない様子だったが、

「三原さん、すみません――ちゃんと説明しますから、<九十九堂>まで来ていただけますか?」

 心底申し訳なさそうにれんげがそう言ったので、

「オッケー。わかったから、謝らなくていいよ」

 と、笑って答えたのだった。


 そろそろ紅い空も藍色に変わってゆこうとしていた。

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