2章 誘いと兆候
某県に、
海に面し、山に挟まれたそれほど大きくはない町だ。都市からは少し距離があるためベッドタウンというにはやや遠く、どちらかといえば田舎町という表現のほうがしっくりくる。
十一月になってそれほど日の経たないこの日の朝も、いつもと変わらない風景が広がっていた。
この町には、高校がふたつある。ひとつは公立の姫木東高校。もうひとつは
その桐梓館大附属は住宅地からやや離れた、山地にさしかかるあたりにあり、トラックグラウンドの他にサッカー用の芝フィールドとテニスコート三面、と広い敷地を誇っている。校舎も数棟、陵線に沿うように建っていて、最も高くなる特別教室・部室棟の屋上からの景観は郊外の展望台とどちらがいいか意見と好みの分かれるところでもある。
制服は伝統的な、女子は黒に近い濃色のセーラー、男子は同じ色のブレザー。セーラーカラーとネクタイに入ったラインの色で学年を表している。
――急ぎ足の生徒が多いのは、時間がそろそろ予鈴ギリギリだからだろう。
れんげは、その様子を教室の窓から見るともなしに眺めていた。教室のある棟からは姫木の町をある程度見下ろせる。校門から昨夕に守弘と横切った商店街と、JRの姫木駅までは歩いて三十分ほど。同じくらいの距離だが駅よりも南側には大きな遊具のない公園があり、その敷地内に白い建物がある。
駅の北側は、駅の改築も含めて開発が進んでいる。大きめのショッピングモールが建てられ、その周辺は田舎町の雰囲気が薄い。
ぼうっと風景を追っていたれんげは、背後から急に抱きつかれた。
「おっはよぉ、れんげ。
――見ったよぉ、昨日の晩っっっ♪」
クラスメイトの声。
レイヤー気味のボブショート――よりも、やはり豊かに制服を盛り上げている胸がれんげを圧す。
「お――おはようございます、国安さん。
昨晩、ですか?」
れんげは、
「翠穂でいいってば。
バイクをね」
翠穂は嬉しそうに笑っている。れんげの拘束を緩め、れんげの耳元でささやく。
「らぶらぶ二人乗りしてたよねぇ。
しかも相手はあの三原くん」
「あの、って何ですか」
思わずれんげは小さく苦笑をこぼした。
「そんなの決まってるじゃない。あたしたちのクラスメイトにして現役レーサー、将来のフォーミュラマシン・パイロットもありえなくないあの、三原守弘くんじゃない」
翠穂は耳元にしては大きめの声で力説する。
「そうなんですか?」
「!?
あぁ、やっぱりれんげはそういうの疎いのね」
やれやれと大袈裟に首を振る翠穂。
それに合わせて胸も揺れる。翠穂はれんげとの密着を解き、れんげの前の席についてれんげをじっと、楽しそうに見つめた。
「そんなれんげが、どうしてラヴラヴタンデムしてたの?」
“ぶ”の発音が変わっていた。
「人違いではなく?」
「まぁ、ね。信号待ちで顔見えたし」
翠穂は軽くウインクして言う。
「一体いつの間に二人乗りするような関係になったの?
実はもうキスくらいしちゃってるとか?」
翠穂は、ペンをマイクのようにれんげに突きつけた。
れんげはあまり表情を変えずに答える。
「――何もありません。昨日たまたまお会いして、おうちにお邪魔して、遅くなったから送っていただいた、それだけです」
「それだけ?
――ていうか家行ったの!?」
「ええ。と言っても家でなく、倉庫のほうですが」
「そっかぁ……まぁでも、れんげがそんな、ねぇ……意外だわ」
意味深に翠穂は目を閉じて頷く。そこからさらに突っ込んで聞こうという素振りを見せるが――
「わっ!?」
「おはようございます」
「――お、おぅ」
教室に入るなりまっすぐれんげの席に向かい、それに気付いたれんげの挨拶にぶっきらぼうに応えたのは守弘だった。噂の相手の登場に翠穂は若干たじろいだものの、れんげのそばから離れない。
予鈴のチャイムが鳴った。守弘は慌てて鞄を探り、中から本を一冊取り出した。
ぱん、とれんげの机の真ん中に置く。
「こっ、これ――詳しくはまたあと、なっ」
そう一気に言って守弘はれんげの席とはほぼ対角の自席に行った。
「ほっほぉ~ぉっ」
翠穂が爛々と瞳を輝かせ、椅子をガタガタ軋ませて数センチれんげの机ににじり寄り、れんげより早くその本を取った。
『一日で取れる原付免許~学科編』
表紙にはそう書かれていた。
「あらまあ」
翠穂がそれをパラパラと繰ってかられんげに渡す。
「免許取るの?」
「勧められました」
ページの間から何か紙片が落ちた。目敏く翠穂が拾う。
それには『自動車歴史展』と凝った文字で、更に日程と場所が記されていた。
「これは?」
「さあ。栞代わりの忘れ物でしょうか」
「そっっっ!」
翠穂は両手を広げてから、れんげの目の前にその紙片――チケットをばっ、と示した。
「っっっんなワケないじゃない!」
たっぷり溜めた台詞を続ける。
「日付見なよ、開催前だよ。お誘いじゃない♪」
「お誘い――ですか?」
「そう。
デ・ェ・トのっ」
翠穂がそこまで言ったところで、もう一度チャイム。本鈴だった。担任の教師が入ってくる。
「あらら、仕方ない、また後でね。
――ごめんね~」
と、最後は翠穂が占拠していた席の、本来の主である男子生徒に向けて言い、翠穂はれんげの机にチケットを置いてから離れた。
――ホームルーム中、れんげは手元を見ていた。
そこには『自動車展』のチケットが一枚。セピア地にいかにも古そうな、椅子に大小三つの細い車輪をつけただけのような車のイラストの描かれた地味なものだった。開催は来週から、場所は姫木市立博物館。
公園のそばの、大きな白い建物だ。れんげはこの町に住み始めた頃に行ったことがある。定期的に催し物を開いているようで、その時は恐竜の化石を展示していた。
――れんげのもとに、小さく畳んだ紙が送られてきた。
翠穂からのもので、中身は短く一言。
『初デート?』
字が踊っている。
あまり表情を変えずに、れんげは英語の教科書を鞄から取り出した。
無視、ではない。
休み時間になったらまた来るのだろう、と思っていた。
人付き合いは苦手だが、翠穂の接しようは不快ではなかった。
でも、英語はちょっと苦手だから、ちゃんと聞かないと理解できない。――しっかり聞いてもまったく自信はないのだが。
□■□■□■
守弘は、昼休みまでれんげの所に来なかった。というより、ほとんど自分の席から動かなかった。彼に話しかける者も多くない。
「――意外です」
れんげがぽつりともらす。
「――へ?」
翠穂が卵焼きに箸を刺したまま、きょとんとれんげを見た。
「三原さんのことで」
「ていうかれんげ――おにぎりだけ?」
四限の古文が終わってすぐ、翠穂は弁当包みを手にれんげの机に押し掛けて来た。
翠穂が半ば呆れて尋ねたとおり、れんげの昼はおにぎりだけだ。中に鮭など具を入れることは多いし、コンビニのものを買う時もあるが、大抵おにぎりだけでおかずはない。
この日も、弁当箱の中は綺麗な三角形に握られた米塊が四つ、のみ。
その最後のひとつを箸でつかみ、れんげは淡々と言った。
「お米じゃないと力出ませんから」
「そーいう問題じゃないと思うけど……」
ちなみに翠穂は自作のごくオーソドックスな弁当だった。
「で、彼が何だって?」
「え?――昨日お話した時と印象が違うな、と思いまして」
「ふっ、ぅ~ん。気になるんだ」
翠穂はそれこそ目を大きく開け、朝の続きを再開しようとする。
「そういうわけじゃないですけど」
ふたりほぼ同時に昼食を終えた。
そこに、ようやく守弘がやって来る。
「おっ♪
いらっしゃい、三原クン」
楽しそうに翠穂は片付け中の弁当を手に、椅子をずらしてれんげの正面を守弘に譲った。
空いた椅子があるが、守弘は座らずにれんげをじっと見つめている。
「三原さん?」
れんげが冷静に言って、守弘はやっと話しはじめた。
「あ、えっと――高野、ちょっといい、か?」
「はい。朝のことですか?」
れんげは朝受け取った本とチケットを出して言う。
「あぁ。
本は家にあったヤツなんだ。俺はもういらないから使ってくれ。
で、そのチケット――来週からなんだけど、都合、どうかな?」
ふたりを見ていた翠穂はもう少し距離を取った。
見るからに使われていない、
「――どんな、催しなのですか?」
れんげにとって馴染みのない分野だ。興味も薄かったが、昨夜の守弘の機械への想いには好感を持っている。
だがやはり、れんげの表情はほとんど変わらない。
「ん……俺たちの生まれるもっと前の車から、今のまでを展示するんだ。百年くらい前の車をレストアする、とかも聞いたけど――」
「百年前……」
れんげはチケットに目を落とす。
「古い車のデモ走行もするらしい。
――どうかな?」
れんげはしばらく動かなかった。
彼女の中でひとつの言葉がぐるぐると回り、ようやく返事にいたる。
「――わかりました。予定しておきます」
「おぉっ!!」
ずっと二人のやり取りを窺っていた翠穂が小声で、歓声をあげた。他のクラスメイトの注目も少し増え、誰かが翠穂に話しかけてはそれがじわじわ広がりはじめていた。
守弘が左の拳をぐっと握る。
「あ……ありがとう。
――待ち合わせ、昼に公園とかでいいか?」
周囲に浮かんできた冷やかし声をまったくよそに、守弘は言う。れんげも外野を無視していた。
「ええ」
「あ――ああ。
それじゃ」
守弘は用件を言い切ったからか、そそくさと離れていった。
その守弘を数人の男子生徒が囲む。
まだ、昼休みは十分ほどある。
翠穂がれんげの前に戻った。
「さぁて、れんげちゃん♪」
「――はい?」
「なんかいい雰囲気じゃない? これはもしかしてお互いLOVEな予感っ?」
「――まさか」
くすっ、とれんげが笑う。
「私じゃ三原さんには釣り合えません」
「謙遜はよくないっ」
翠穂がれんげの肩を叩く。
「向こうから誘ってるんだから、いいんじゃないの?
――ていうか昨夜何があったの? いきなりのこの進展」
「さあ……」
れんげは、ごまかしたのではなく、本当に見当がついていなかった。それはれんげが恋愛感情にも疎いこともあるが、それより――
れんげには、守弘の昨日の感性への共感と、さきほどの説明が強く残っていた。
□■□■□■
曰く、
陰陽雑記に云ふ。器物百年を経て、
化して精霊を得てより、人の心を
誑す、これを付喪神と号すと云
へり。
つまり、『陰陽雑記』という書によれば百年をすぎた道具の類には魂が宿り、変化して人心を惑わす、といいこれを付喪神と呼ぶ。
と、ある。
多分に仏教説話の色の濃い一編だ。長年使われたが恩賞もなく捨てられた恨みに道具たちは造化の神に願い、様々な姿に変化し、人々を恐怖と混乱に陥れ自由を謳歌する。しかし不動明王の
その後も道具が化けることはあり、存在を早くに認めていた陰陽師の者に退治されたりもする。
高野れんげは、そんな存在のひとつだ。造化の神によって人の姿に生まれ変わり、人間としての営みを過ごしている。
もとは、腰鉈。
無骨な鉈だった。銘はない。目立った特徴もないが、そのぶん実用性に優れていた。
ほかに、いくつかの打ち捨てられた道具たちと共に造化の神に乞うたときに、この娘の姿になった。が、彼女自身に人への恨みはなく、悪事をはたらき人に畏れを抱かせる、ということもなかった。
そこが当時退治に顕れた護法童子の目にとまった。
瑞、という名の護法童子がれんげを従えた。もうひとり穹という名の護法童子は瑞がれんげを倒さずに自らのもとで働かせることに最初驚いたものの、反対はしなかった。
鬼は通常、ふたりで強力な能力を発する、と云われている。
瑞と穹は一組で最大の力を発揮し、当時れんげと共に造化の神に縋ったものたちの、れんげ以外のすべてを屈服せしめた。
娘――どうだ。
仏道に帰依し、我に従うなら
この世でただの人のように
暮らさせてやる
れんげは、人に憧れていた。
そこで、瑞に従い、現世で人のような暮らしを得、護法童子に代わって人に災いを成す妖の類と戦うことを務めている――そうやって生きてきた。
れんげにとって、人にその正体を知られることは避けたいし、これまでこの姫木に住むまでにも各地を点々としてきたこともあり、人と深く関わることに二の足を踏んでいるのは無理もないかも知れない。
それでもれんげは人間が好きで、その空気の中にいることに喜びを感じていた。
<九十九堂>はれんげが請うて、瑞がつくったものだ。捨てられた道具や骨董品など、年月を経たものが変化して暴れたりする前に集め、また使われる場を与えるために。
そうして、れんげは『人』の生活をしている。
――れんげは、守弘の言った『百年』が気にかかっていた。使命感の強い
立冬が近い。
陰と陽の変化の激しい四季の節分のときこそ造化の神の導きを受けられる、と云われている。節分、というと二月のもの――立春が有名だが、四季それぞれの節目のことも『節分』という。
十一月の初旬には冬への境目、立冬がある。
一年の境となる立春が最も陰陽の変化の度合いも大きいが、それぞれの節分の時にも神に願い、力を喚ぶことが叶う。
もとの命を絶つことで新たな姿形を得られる。
守弘の誘ったその『自動車展』に百年を過ぎたものが展示されていて、それがもし人に恨みか無念を抱き、それがもし変化のことを知り、それがもし――
「で、正直なトコれんげは三原クンのこと、どうなの?」
翠穂がれんげの思考を中断した。
「え?
――あ、すみません、なんでしょう?」
「なにボ~っとしてるの? 三原クンのこと」
「あ、いえ――考え事を」
「そう? あたしはれんげと三原クン、応援するよ」
「え?――あ、でも、私じゃ……」
「でも、はダぁメ」
翠穂はきっぱり言う。
「これからどうなるか判らないからやってみるんじゃない。進める前から退くなんてもったいないよ? 嫌じゃないんでしょ?
余計なコトする気はないし、無理にくっつけようとは思ってないけど……」
「――はぁ。ありがとうございます」
思い返してみれば、この高校に編入したときすぐに話しかけてきたのは翠穂だった。有り体に言えば無愛想な、れんげに最も親身に飽きることなく接してきたのも、この翠穂だ。
れんげは素直に礼を言っていた。
守弘自身に興味があることも、偽りではない。
「そう、ですね。
一度承諾していて断るのも失礼、ですか」
「そ。
そんなに深く考えないで、人生楽しまなきゃ。
表情カタいのもちょっと和らげて、ね」
れんげは思わず、くすっと笑ってしまった。
翠穂も守弘も、もちろん他のクラスメイトや教師なども、れんげが人間ではないことは知らない――言えない。平穏に「人」として生きようと願うれんげにとって、告白できることではなかった。
よしんばれんげが気に病むほどではなく、翠穂も胸の内にしまって喧伝せず、変わらぬ日々を過ごせるかも知れないとしても。
確証がないだけに、もしものことを考えるとれんげは言えなかった。できれば今の世界――狭義での、この町で暮らし始めて一年余、少ないながらも育っている関係や位置――を崩したくない。『人』でいたい。それがれんげの望みだった。
だからか翠穂の言に、人としての踏み込みに及び腰だった自分に対して苦笑してしまったのだった。
「人生――ですか」
「そぉよ。
楽しまなきゃもったいないよ。ね」
――タイミングよくチャイムが昼休みの終わりを告げた。
□■□■□■
ぺたぺたと足音を立てて、一匹の蛙が歩いていた。
ただの蛙にしては子犬ほどもある、かなりの大きさだ。
炭のように真っ黒な身体に、目だけがそれこそ炭に点く火種のように赤い。四つ足で歩いているため腹部は見えない。跳ねるのではなく四本の足をのたのた、うねうねと動かしてただ歩いていた。
蛙が歩いているのは町の南――それほど広い町でもないが、れんげたちのいる柊梓館学園とはほぼ町の反対側になる。
蛙は、ふと顔を上げ、視線をめぐらせる。
「……んんっ」
言葉を発した。口の端をつり上げてにいっ、と笑う。
「匂う、匂うぞ。年月経たものの気配よ」
低い、嗄れた声だった。唸るように呟く。
赤いまなざしの先には、公園があった。正確にはそのそばの建物――博物館。大きなトラックが横付けされていた。
「次の節気まであと少し」
言いながら、ぺたぺた歩を進める。
「儂の腹拵えも済んだ。
目覚めさせてやろうじゃないか」
真っ黒な蛙がぶつぶつ言いながら歩くさまは、いかにも異様だった。
「共に、人の世を――
わぶッ!?」
蛙と同様に漆黒の鳥が、蛙を掴んでいた。
「放せいッ!! このッ、ただの烏の分際でッ!!」
蛙の目が爛、と光った。
「がっ!?」
烏は驚いて脚を広げ、その拍子に蛙を放してしまった。
――烏の片足が黒く焦げていた。烏はたじろいだように数歩、蛙から距離をとってぎゃあぎゃあと鳴いた。
「小
もう一度蛙の目がぎんと光る。
「ぎゃっ!?」
今度の烏の声は、悲鳴だった。烏の正面でばぢんと、何かが爆ぜていた。
蛙が一歩、烏に寄る。烏は二・三歩あとずさる。明らかに気圧されていた。
それでも威嚇するように烏は羽根を広げる。体格では負けていない――しかし、一度圧倒された気は覆らなかった。
睨みあいのはてに、烏は飛び去ってしまった。
「ふン。
――烏が、生意気な」
蛙は、鼻で笑ったあとまたぺたぺたと歩くのを再開した。
――その日の夕方。
れんげが帰宅すると茂林がどこか厳しい面持ちをしていた。
「……どうしました? 茂林」
「れんげちゃん、店閉めて奥来てんか。見せたいモノがあるんや」
まさか嫌な予感が的中したのか、とれんげは急いで<九十九堂>の錠を下ろして居間へ入った。
「――今日の昼や」
茂林がれんげの足音を確認して、振り返らずに言う。
「ニュース見とったらな、気になる話題があったんや。で、ビデオ録っといた」
「茂林、機械の操作できたのですか?」
「失敬なッ! ビデオくらいできるわぃ。
見ときや――」
茂林はつけっ放しだったテレビをビデオチャンネルに変え、リモコンの『再生』ボタンを押した。
――テレビ画面は暗転したのち、砂嵐がはじまった。
が、何かが始まる気配はない。
「……茂林」
流れる音声も、ざあざあというばかりだった
茂林はビデオ再生させたまま『巻き戻し』を押す。
やはり、何も映っていない。
「録れてませんね」
「なッ! そ、そんなワケあらへん、ちゃんとコンセントつなげて、テープ入ってるのも確かめてやな――」
「チャンネル、合わせましたか?」
れんげはテレビの間近で呆然としている茂林からビデオのリモコンを取り、再生を止めた。
画面は青くなって片隅に「ビデオ1」とだけ表示される。
「これはまだ、チャンネル設定をしていませんでした。だから――」
とれんげはリモコンの別のボタンを押す。
青かった画面がノイズと、くっきり番組が映るところと次々に変わる。
「こちらを先に合わせてからでないと、録れませんよ」
手を止めてれんげは言う。
夕方のニュースをやっていた。
「ッ!?――そ、そんな……」
「――気になる、とはどんなものだったのですか?」
れんげはテレビから離れた場所に座った。リモコンは炬燵の真ん中に置かれる。
「――ここの町の店の食い物が何者かに荒らされた、っちゅう話や」
茂林も座り直して炬燵に入った。
「それが金目の物は一切盗られず、食い物ばっかり被害に遭って、人の痕跡がないらしいんや。
怪しくないか?」
「なるほど。でも、立冬にはもう少し早いですね……」
ニュースは、どこかの贈賄の報道をしていたが、
『――続いては、昼にお伝えしたスーパー荒らしの続報です』
と、女性キャスターが言った。
「っ!!!」
茂林がばっ、と振り返った。
れんげもテレビに目をやる。
『――県の郊外にあります大型スーパーに昨夜未明、何者かが侵入した事件の防犯カメラ映像が公開されました』
れんげが急いでビデオのリモコンの赤いボタンを押す。
ビデオデッキががしょんと鳴り、テープが回り始めた音がする。
テレビではコマ数の少ない、荒めの映像がはじまった。
音はない。
入り口の自動ドアだろうガラスが破られ、何か黒い影がひゅっ、とカメラの端を横切った。
画面は切り替わり、野菜売り場を映す――野菜が棚からがらがらと薙ぎ倒され、子犬くらいの大きさの黒い塊が崩れた野菜に張り付いていた。野菜を食い散らかしてから、黒い塊は跳ねまわって画面から消えた。
次に黒い塊は肉や魚を同様に食い荒らし、それから生活用品の棚を襲った。
ふたたび画面は入り口付近に変わり、黒い塊が外に消えていくのを一瞬、捉えていた。
『――以上がカメラの映像です』
テレビはもとの、ニュースに戻った。
『何か黒いのが映ってましたね……犬か何かでしょうか』
コメンテイターらしい男性が首を傾げながら言う。
れんげは録画を止めた。
「――茂林?」
炬燵の前から老爺の姿が消えていた。
「……犬なんかやあらへん、アレは
テレビの前に陣取っていたのは狸だった。
「あかん、やっぱり
狸が言う。
「画面越しやから余計にわからんしな」
狸と老爺の茂林は、同一のものだ。
動物は長い年月を生きると、
とりわけ、猫や狐――それに狸にその存在は多く確認されている。
これを総じて『動物妖』という。
茂林はそんな、化け狸だ。
その昔、ある事で朽ち果てそうになっていたところをれんげが救った。
以来、茂林はれんげを慕い、れんげの手伝いをしている。
<九十九堂>の店主役もそのひとつだ。
――手伝い、と云うにはやや生意気なところもあるが。
狸――茂林がれんげを促す。
「れんげちゃん、ビデオ見して」
れんげはビデオを巻き戻して再生する。
――今度はちゃんと録画できていた。
「ん…………」
じっと、茂林が映像を観る。
「――もっかい頼む」
巻き戻して再生。
茂林がテレビに鼻先を押し付け、真剣にビデオの黒い塊を追う。
「――もっかい」
れんげは無言でビデオを操作して、三回目の再生をはじめる。
「停めてッ」
一時停止された画面は、肉の棚に跳びかかった黒い塊を映していた。
茂林はその塊を凝視する。
「わかりますか?」
「う~ん……ちょっと、動かしてって」
れんげがコマ送りで映像を進めていく。
「ここッ!!」
茂林が片脚を挙げ、れんげはまた一時停止させる。
「――蛙……みたいやな」
「蛙?」
茂林が頷く。
「黒い蛙やな。蛙にしてはやたらとデカいが、姿形はそんななりしとる」
一時停止された画像は、その黒い塊――蛙がライターなどの棚を襲っているところで停まっている。
「妖に間違いないやろ」
茂林はくるりと縦に一回転して老人の姿になり、れんげの出した湯飲みを取った。
「立冬もまだやし、前に生まれたんやろうな――あちち」
「そうでしょうね……」
れんげは考え込むように湯飲みの中を見つめている。
「火の気に関係ある道具が化けた奴かも知れんな。
どうすんねん、れんげちゃん」
茂林が茶をすすりながら言う。
「もちろん、探し出します」
れんげに『見逃す』という選択はない。まだ何もしていないにしても。
「その蛙を探さねばなりません。
三原さんに誘われた『自動車展』も気にかかります」
れんげは鞄からチケットを出した。
茂林もそれを見る。
「これは?」
「百年ほど前の車などから展示する催しらしいです」
「なるほどな――機械ももう百年か。あのガキ、面白いモン持ってくるやんけ」
茂林の口調がやや乱暴になる。
「そこに展示される百年くらい前のヤツが化けよったら――」
「ありえなくはない、ですね。
ましてこの蛙――ですか? がいることがいっそう、心配です」
「コイツが変化を誘ったら、か――」
茂林は湯飲みを空け、れんげにお代わりを求める。
「どこや?」
「公園の中の白い建物――博物館ですね」
れんげは茶を注いだ湯飲みを茂林に返した。
「蛙のヤツが化けられそうなのを探しとるんやったら、そこに行くんとちゃうか?」
「ええ、おそらくは。――立冬の前日までに見つけられればいいのですが……」
ちらっ、とれんげは壁のカレンダーを見る。立冬は三日後。自動車展は九日後。
「ん……」
れんげと茂林の目が合った。
少しの間、沈黙が訪れる。
「――<とりほろ>の串フルセット三人前で手ぇ打ったろ」
<とりほろ>は駅近くにある鶏専門の店だ。国産の厳選された鶏だけを使い、特製のタレをじっくりと浸してからスパイスとからめてさっと焼く、濃厚ながら後味さっぱりの風味が評判である。ちなみにタレは甘口から激辛まで五段階にわかれ、茂林は甘いほうから数えて二番目『微甘』が好みだ。
この地に住み始めてから、人ともそうだが食にもこだわりのないれんげに対して、茂林はあちこち町じゅうを歩いては美味しい料理や店を探し回っている。
本来の狸の姿でも、老爺やその他の者に化けてでも。
<とりほろ>はそんな店のひとつだ。夕食に、と茂林が連れて行ったこともあってれんげも知ってはいる。
「……つくね一本」
「なッ!? それはありえへんでれんげちゃん。
――しゃあない、二人前や」
「軟骨激辛」
れんげは淡々と言う。
「食えるかッ!!
二人前や二人前、これは譲らへんで」
「キモ三本」
「二人前やっ」
しばし睨み合ったはてに、れんげが溜め息をこぼした。
「では皮の微辛ばかりを十ほど」
「!? うぅ……い、一人前でどないや」
「妥協線ですね。ではセット一人前で」
「……くっ」
「よろしくお願いします」
「……わかった。明日から探しに出たる」
かなり渋々気味に、茂林はその『蛙』探しを承諾したのだった。
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